第42話:終着(7)

 よく使う薬かなにかを買うため? のはずがない。お気に入りのお菓子などとも同じく。俺がドラッグストアに立ち寄るとき、なにを目的にする。

 どれだけ考えても、正解らしき場所へは辿り着けなかった。きっと、およその方向さえ分かっていない。


「──ごはんだよ。食べ物を買ってたの。晩ごはんとか、次の朝のパンとか」

「あ、ああ」


 なんだ。お菓子でも、さほど的外れでなかった。うっかり頷いて口元を緩ませた。

 と、結愛の顔面から感情が消える。

 哀しみさえ、滲み出る疲労へ埋もれそうだったのに。瞬時に、用意していた仮面でも着けたように思えた。だとしたら、これは死面デスマスクなのだろう。


「い、いや。違うだろ?」

「違わないよ」


 結愛は先ほどと同じく。先ほどより視線を下げ、処置室との仕切りの透明でない部分を眺めた。見つめるとすれば床と壁の継ぎ目か、そこに詰まった埃くらいのところを。


 違うに決まっている。

 細間の部屋に閉じ込められて、なぜ受け入れたかだ。ドラッグストアでパンを買うから、なんて理由があり得るか。

 パン。晩ごはん。そんなもの、誰でも普通に……


「自分の部屋で食べてたのか」

「うん」


 平たい声。

 そうか。自分の身体から、力の抜けていくのが分かる。背中を壁に預け、そのまま溶けて流れそうにうなだれた。


「悪い、察しが悪くて」

「悪くないよ」

「遅いけど、今なら想像できる。そこまで険悪とは思ってなかった」

「険悪でもないよ」


 ひと言だけの声が、俺の心臓を貫く。これを痛いと感じてはいけなかった。そういう痛みを与えたのは、俺が先だ。


「私がそうしたかったんだよ。お父さんもお母さんも普通に仕事して、家に帰ってごはん食べて、お風呂に入って寝る。私はそうじゃなかったんだよ」


 そうじゃない、なんてあるものか。二人で旅行へ行ったとき、一緒に寝起きしたし、一緒に食事をしたし、一緒に風呂へも入った。

 だから、俺に訊けるのはここまでらしい。じきに戻ってきた達先警部補から、お茶を受け取って微笑を作る結愛を見ていられなかった。




 ほとんど言葉もないまま、先輩の警部補と女性の刑事が交代に来た。細間が意識を取り戻したのは、そのあとだ。

 最初は朦朧とした様子で吐き気も続いていたが、さらに一日が過ぎるころには治まったらしい。


 らしいとは、達先警部補の指示で有給を終えたからだ。

 一連の犯行の被害者に当たる俺は、この件の捜査が表立ってできない。ゆえに細間の用意した計画書の、裏取りをする作業員と化した。


 曰く。不破は牧添家近くの溝渠こうきょ、いわゆるドブの中で殺したとあった。ドブと言って、そこでゴロ寝のできるくらい広いものだが。

 ルミノール試験を行うまでもなく、飛び散った黒い痕跡はあった。もちろん試験の反応も明確だった。


 あとは細間の語ったとおり、すべて一人で行ったことになっている。うんざりするような時間と手間はかかるが、十分に可能だ。「これで送検しても通りそうだな」とは、先輩の警部補。

 しかし細間の服毒から三日後。付き添いの恰好の女性刑事に、結愛が自白した。


 取り調べは先輩の警部補が担当し、「私が殺してしまったことに間違いありません」と調書に書かれた。


「不破という名前も顔も知りませんでした。荒畑という人も名前は知りませんでしたが、今思うと『荒畑に聴いた』というようなことを言っていた気はします。私の恋人の細間が、私を監禁した過去があると知って『俺もいいだろ』と、わけの分からないことを言われました」


 現場はやはり、牧添家のダイニングだった。玄関に押し入られ、結愛の逃げた先だ。細間の夜食を作る途中で、流しへ置いていた包丁を振り回し、それが動脈を切断した。

 細間の計略がなかったとして、正当防衛とは認められないかもしれない。


 窓を暗幕で塞ぎ、俺の持ったブラックライトが青白い光を浮かび上がらせる。四人掛けのテーブルの下、大海のごとく。

 その脚にも、壁にも、大粒の斑点が無数に。指さして写真を撮られる結愛が、自分から口を利くことはなかった。

 ただ問われたことには、簡潔かつ的確に答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る