第41話:終着(6)

 搬送された救急病院の、処置室前は静かだった。

 離れた一般外来のざわめきはなんとなく届くし、定時運行と錯覚する頻度で救急車もやってくる。

 俺と達先警部補と、結愛。待合と言って、長い通路にベンチがあるだけの場所。やってきてこちら、ただただ座り続けた。


 透明な仕切りの向こう、慌ただしい姿は眼に映る。右へ走った医師と、左へ急いた看護師と、どちらの側へ細間が居るのかも分からないが。

 少なくとも俺は、あの男の命がどうなるかを案じていなかった。

 死なれれば、二つの殺人が解決しなくなるかもしれない。それは当たり前に理解していても。


 死ね、とも思わない。まだそんなところまで思考が回復していない、のが正確だろうが。

 細間が牧添家に、半ば同棲の様子で出入りしていたこと。細間が死ぬと察した結愛が、連れ添う警察官を振り払って来たこと。

 そして彼女の発した言葉。


「コーヒーでも買ってくら」


 前触れなく、ぼそり誰かが言った。隣のベンチから立つ達先警部補の姿が、目の端に見える。

 コーヒーって。ああ、コーヒーか。

 腕時計を見ると、あれから三時間ほども経っていた。そう認識すれば、なぜか俺の喉もいがらっぽくなる。

 しまった。いつもなら、俺が行きますと言うのに。既に十数歩も離れた背中を、追うことをしなかった。


「んんっ」


 控えめにしたはずの咳払いが、想定の五倍で響いた。

 同じベンチに、二人分を離れた結愛を窺うには、少しばかり首を動かさねばならなかった。それは怠けないのか、と高いところから見下ろす俺が嘲笑う。


 処置室のほうをは向いていても、視線がどことも言えない。少し前も、かなり前にも同じ恰好でいたけれど。

 彼女を動かせるのは、俺ではない。達先警部補に相談した自分の言葉が、俺の側頭を殴りつける。


「まき────結愛」


 一対一で、苗字で呼んだことなどなかったと思い知る。だからこれが記念のような、最後の一回だ。

 いつか、返事をしてもらえなかったという笑い話にできるかもしれない。


「なに……?」


 何度かのまばたき。小さな咳払い。それだけの手順を踏んで、結愛はこちらを向いた。眩しさを堪えるような細く疲れた眼であっても、俺と向き合った。

 想定外だ。誰とどんな場所で話すにも、こんな場面は今までになかった。


「いや、ええと」


 言葉の途切れた沈黙が、五秒、十秒と続いた。俺を見たまま、結愛は彫像のごとく動かない。


「なにがあった?」


 思いついたでもなく、口からこぼれた。自分の耳に聴こえて、こう訊ねたかったと妙に納得する。


「なにがって」

「今さらって思うだろうけど」

「思わないよ。中洲川くんは刑事だもん」


 そうだった。しかし誤解だ。


「あ、いや、それとは関係なく。結愛を助けたいって、ずっと思ってて。役に立てなかったけど、気になって」


 そんな立場でもなかったとは、自意識が邪魔をして言えない。「ううん」と否定する首が、機械仕掛けに見える。


「ありがとう。でも、なにがって? 人を殺したこと?」


 たぶん、笑みを作ろうとした。結愛の口角が少し上がって、震える。それは慟哭を抑えるものでしかなく、俺の目が勝手に瞑ろうとする。


「今すぐでなくていいよ。言いたくなかったら、言わなくてもいい。俺はなにができなかったのか、知りたいんだ。最初から」


 最初。同じ単語を呟き、結愛の視線が斜め上に逸れた。

 その間に、俺の眼と顔がどうにか逃げ出そうとする。結果、たったの数秒で疲労困憊の心持ちがした。


「知ってたと思うけど、剛くんが私を拐ったんだよ。薬屋さんの前で、お腹が痛いって。お店の人に助けてもらおうとしたら、やめてくれって。家に帰って休めば治るって言うから、車に乗せたの」


 頷く。その一週間後、保護された結愛は怖かったと言った。けれど細間を信じるなら、さらに一年も経たぬ間らしい。

 どう繋がるのか想像も及ばない俺には、頷く以外になかった。


「また物をくれるって言うから、要らないって言ったんだけど。いつの間にか車が走り出してて、『スクーター置きっ放し』って言っても止まらなくて。拐われたって分かって、じっとしてた」


 前に聴いたのと、ここまでは同じ。怖かったんだろ、と念を押したくてしょうがない。ぎゅっと奥歯の下へ噛み殺す。


「剛くんの部屋に入って、謝られた。土下座して泣きながら、なに言ってるのか分からなかったけど」


 気持ち次第で言葉を詰まらせる癖のある細間。泣きながらとなれば、難しいのはよく分かる。それを「でも」と結愛は覆した。


「何回も聴いたら分かった。剛くんにとって、私がどれだけ必要か話したかった。私を傷つけることはしないから、何日か話させてくれって」


 色を失った結愛が、抑揚も乏しく。しかし小さく、本当に僅か「ふっ」と笑声が聴こえた。目をこすってみても、笑みの欠片も見えないまま。


「変でしょ。それで私、『何日かなら』って言ったの。アルバイトのこととか、すっかり頭になくて」

「いや、どうかな。変なのか、もうちょっと聴いてみないと」


 最初はたしかに拉致行為でも、到着して早々に同意している。もちろんそれで無罪だったとはならないが、俺の知る監禁事件とは大きく違う。


「うーん。私ね、あの薬屋さんにね、毎日って言っていいくらい寄ってたの」


 だからどうだという部分を言わず、結愛は声を切った。少し待っても、続きを話してくれる風にはならない。

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