第38話:終着(3)

「本当にそうですか?」


 後戻りのできない沼へ、足を踏み入れる。そういう心持ちで、詰まりそうな息を押し出して問う。


「なにがですか?」

「この空港へ居る人を、適当につかまえてやらせる。それで本当にできそうだと?」

「できるでしょ。腕時計を狂わせるだけなら、小学生にだって」

「そうですね、それだけなら」


 唸って、首を傾げる細間。少なくとも半分は演技のはずだ。

 もう半分。俺の取り出した写真撮影報告書しゃしんさつえいほうこくしょに、彼の知人が載るのには驚いたろうが。


「ええと、三日前ですね。イマダ電器の金屋さんという方に会いまして。昔の写真を見せてもらったんです。カメラを始め、家電品好きで仲良くされてたそうで」


 細間が俺の腕時計に詳しいことの裏付けのため、あらためて会いに行った。

 金屋さんだけが写った写真。反対に細間だけの写真。二人ともの写真。そういったものを、金屋さんは自分のデスク前へ貼り付けていた。

 そんな中に、細間が大判の本を持った写真もあった。細間のカメラで撮ったというそれを、接写したページを見せる。


「国産の腕時計をすべて網羅、と書いてあります。借りて見ましたが、たしかに二、三千円で売っているような物まで載ってましたね」


 細間の眼がほんの一瞬、たしかに見開かれた。だがすぐに、薄く笑うものへ変わる。話す本意と関係なく、金屋さんを懐かしむように。


「製品仕様の細かい数値まで暗記していたそうですね。この本には、俺の腕時計も載ってますが」

「覚えてましたよ。何年も読み返さなくて、ほとんど忘れましたけど。まあ刑事さんのその時計なら、だいたい分かりはします」


 すべて忘れたと言われれば、完全に否定するのは不可能だ。それでも問題はなかったが、細間は覚えていると認めた。


「でも、だからどうだと? 腕時計の時間をずらしてどうこうには、覚えておく必要はないでしょ。そのカタログを読むまでもなく、ネットで調べればすぐ分かる」

「それはそうです。でも」


 細間の言葉が、ずっと滑らかだ。「でも?」と、ひと言の返答でもそう感じられる。

 今日、俺と対面すること。こうして一つずつ、不明の明かされること。彼はどこまで想定しているのだろう。 


「この脱出ゲームを用意するには、この腕時計の存在を事前に知っておく必要があります。細間さん、いや監禁を行った男は、なぜ知っていたんでしょうね」


 息を継ぎ、一、二、三と数えた。細間からすぐの返事は出てこない。


「さっき、後出しジャンケンは卑怯だと言われたので。脱出ゲームの主催者についても同じと思ったんですが。なぜ訊かないんです、どうやって腕時計のことを知ったか」

「──監禁する前に、相手を見ていたんでしょ。ちょっと倍率のある望遠鏡みたいな物を使えば」


 あくまで脱出ゲームの話なら、そこは認めることにしたらしい。現実の話に戻せば、監禁男が自分である証明までにはならない。

 まだ細間から、笑みの剥がれる気配はなかった。


「なるほど、監禁する前の時系列を言いますか。それならこちらも」


 雑居ビルへ入り、角を折れて階段のところまで。図面上の一階に指を歩かせる。


「監禁された男はこっそり監禁男に着いていき、ここで後ろから殴られました。監禁男は階段下の扉へ入ったはずなのに」

「それは灯りがあったんでしょ? じゃないと、着いていくなんてできません。それなら走って、もう一方の出口から後ろへ回り込める」


 俺の脱出した順路を、ふたたび細間はなぞった。俺も同じく「そうですね。でも」を繰り返す。


「監禁男が居なくなってから、長く見積もっても二、三分のできごとです。そんな時間じゃ、どんなに走っても無理なんですよ。すべての扉を自由に通れたとしてもね」


 実際に俺が走ってみた。時間を四分以上にも延ばせば可能な経路ならあった。


「百歩譲って間に合ったとして、殴られる直前まで気づかれずに忍び寄るのは無理です。オリンピック級のアスリートでもなければ、息が上がります」

「アスリートだったんじゃないですか」


 なぜだ。細間はあせる様子どころか、愉しげに口もとを緩めた。手でこすってごまかす素振りも、エチケット程度にしか見えない。


「そんな有名人が、取り壊し目前の廃ビルで? 絶対にないとは言いませんが、もっと現実的で簡単な方法がありますよ」

「へえ?」

「もう一人、手伝う人間を用意するんです」


 俺のほうが声を詰まらせそうだった。うらはら、細間は「そうですねえ」などと頷いてみせる。小学校か幼稚園かで、よく考えたねと褒められたような錯覚がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る