第37話:終着(2)
バゲットサンドのメニューを指さし、警部補は遠慮するなと言った。しかし細間はアイスコーヒーだけを注文する。ガムシロップとミルクは、三つずつ入れていたが。
「さてこいつは、ある人物が閉じ込められた建物の図面だ。地下一階の、この部屋から脱出しなけりゃならん」
ある人物とは俺で、建物はあの雑居ビル。持ち主には連絡がつかず、
売店の裏にあった、ベンチの真ん中へ。
もちろん細間には説明の必要もないはず。しかし「へえ」と、図面の脇へ座って視線を動かす。興味はないけど見るくらいはしますよ、みたいな伏せがちな眼で。
「施錠有り、と書いてある扉は通れないってことですか。うん、でも外には出られそうですね」
ストローを咥えたまま、細間の指が図面を這う。あの夜、俺が通った道順を。
それを「正解です」と告げたのも俺。細間と図面を挟み、目を合わせながらベンチの端へ座る。
「でも随分と遠回りだと思いませんか。大きなタンクを迂回して、次の部屋もその次も機械を躱して。こっちの扉から行けば、小部屋を一つ抜けるだけ」
「そんなこと言われても、そういうルールなんでしょ?」
「ええ。この迷路を作った人間のルールです」
飲んでいるのかいないのか。分からないくらい静かに、ストローの中の黒い液体が動く。細間はそれで黙って、頷いた。
「さて、細間さんの言ったルートで脱出するとして。どれくらいの時間がかかると思います? ただしスタート時刻は午前〇時三分、この建物は真っ暗で、閉じ込められた人も照明を持ってません」
「うーん、三十分くらいかな」
「いえいえ。よく見てください、足元は配管だらけ。転んだら大怪我です」
「じゃあ一時間。二時間?」
二時間でおよそ正解だが、なんの裏付けにもならない。俺がいつ抜け出たか、細間は見ていなかったのだから。
「正しい脱出時刻は、午前一時五十八分です」
「やけに細かいですね。スタートがいつでしたっけ? 二時間くらいで、だいたい合ってたんじゃないですか」
ズズッ、と。細間のアイスコーヒーが干上がった。残った氷をガラガラ鳴らし、しつこく飲もうとするけれども。
「これでコーヒー代は稼ぎましたね」
紙コップを手放す様子はなく、細間の腰が浮きかけた。その肩を警部補のごつごつした手が「不正解だ」と押さえつける。
「ええ?」
「正解は。閉じ込められた人の時計が、スタート時点で一時間ほど戻されていた、です。なので、二時間五十五分でした」
きっかり一時間だったかは分からない。ゆえに「まあ、およそ三時間なら正解にしたんですが」と付け加えた。
細間は気に入らない風に、太く鼻息を噴く。
「そんな後出しジャンケンはずるいですよ。それに一時間戻された時計は、脱出したあとも一時間戻されたままでしょ」
ここまで言えば、もうアリバイは意味を成さないと分かるだろうに。細間はいまだ、脱出ゲームのていを崩さない。
それならもう少しだけ、俺も付きあおう。左腕を持ち上げ、細間の目の前へ突き出した。
「
腕時計の仕様を確認すると、午前〇時と午後六時に自動受信を行うとなっていた。ただし長針が十周する間に受信ができなかった場合、十五分間隔の再受信を十二回まで行う。
だから正確には外へ出る前。建物内のどこか、暗闇の中で時刻が修正されていたことになる。
「三時間もかかるような遠回りをさせたのは、一時間の誤差を体感できなくするためです。実際にこの人物は、一つ誤れば死ぬかもという恐怖と戦いながら慎重に歩いた。そんな中で、時間感覚なんか吹っ飛んでた」
「それは大変ですねえ」
細間は無理にまで立つ気配を見せない。代わりに氷を砕いて飲もうというのか、紙コップを振る音がやかましい。
「大変ですよ。おかげでこの人物を閉じ込めた誰かは、午前〇時三分に別の場所で酒盛りができた。車で三、四十分も離れたコンビニでね」
まだまだ、細間に言いたいこと、問わねばならないことは山ほどある。しかしこれだけで、荒畑殺しからは逃れられないと諦めるには十分だろう。
もうなにもかも、自分の口から話してくれ。俺に暴かせるのはやめてくれ。
そう願うのに、細間は小さく笑った。
「なるほどねえ。たしかにやろうとすれば、誰でもできそうな話ですね。僕でも刑事さんでも、この空港の誰にでも」
それではまだ、あなたを閉じ込めたのが僕という証拠にはなっていない。細間の言葉が、俺にはそう聴こえた。
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