第36話:終着(1)

「一キロほど下流に、川から上がった跡があったそうだ。かなり増水してるらしい、信じられん奴だ」


 東松川市へ向かう途中、達先警部補に続報が届いた。

 雨は今にもやみそうな弱いもので、しかしやまない。そんな中の川は泥の色でなにも見えまい。

 警部補の言いぶりと同じく、足を滑らせて落ちたような可能性は信じていなかった。細間は監視に気づいていて、逃げたのだ。


 結愛の家に到着したが、明かりは見えなかった。まだ仕事場から帰宅途中のはず。バス停とは反対方向へ五十メートルくらい離れ、車を止めてもらった。


「本人に言わんのか?」

「結愛に伝えても、細間は捕まえられないでしょう?」

「そりゃあ、な。不安にさせるだけか」


 それから、結愛は前回より遅い便で帰ってきた。事務服に透けた上着を羽織っていて、特段になにかあったようには見えない。


「さて今日は出歯亀に甘んじるとして──」


 少しシートを倒した警部補は、腕組みで外を眺めた。結愛の家を見るようであり、空を見上げるようであり。

 今日は俺の言うまま付き添ってもらったが、明日も明後日もとはいかない。捜査計画を立て、課長に提出する立場の人だ。


「あの。細間ですが、追う必要はないと思うんです」


 まだ、勘にすぎない。確実な証拠をつかんでからと思うが、もう少しの時間が必要だ。


「ああ? なんでそうなる。奴には家も家族も、仕事もない。歩いてどこまでだって行ける」

「結愛を諦めるなら、です」

「まあな。牧添結愛に監視を付けるのは、そういう意味でも正しいが。それでほかは要らないってのは意味が分からねえな」


 俺の抱く疑問を、達先警部補と共有しなければならない。できればギリギリまで避けたかったが。


「俺が捕まった雑居ビル。どうも変なんですよ」

「変?」

「閉じ込められた部屋から外へ出るのに、扉がいくつもありました。でもどれも鍵がかかってて、結果として進める道は一本だったんです」

「そりゃあ、細間が出てった道だろ」


 話しながらも、結愛の家からおよそ視線を外さない。警察官になって最初のころは、意外とこれが難しかった。


「そう思います。でもそうなると変なんですよ。細間がビルへ入ったあと、地下への階段の下に扉がありました」

「それが?」

「でも俺が抜け出したとき、最後の扉を開けた先へ外の灯りが見えたんです」


 体感していない警部補には、この違和感がどう伝わるか。「うん?」と要領を得ない顔が、ゆっくりと厳しく変貌していく。


「もう一度、きちんと図面にでも起こしてみないといけませんが。たぶん、かなりの遠回りをさせられました。外へ出たいだけの細間が、そんな順路を使うでしょうか」


 地下室が暗闇に閉ざされる前、腕時計は午前〇時三分を示していた。

 外へ出て確認したのは、午前一時五十八分。脱出に二時間近くを使ったことになる。


「それに、細間の持ちビルってことはないでしょう。鍵も持たずにあんな順路を作るのは、途轍もない手間がかかります」

「鍵の開いてた場所が、すべて偶然って可能性もゼロじゃないが。遠回りする理由にはならんわな」

「ええ。なにしろ進める道は一本・・・・・・・でしたから」


 となると俺の推測は、一つの可能性をしか示さない。今日一日、肯定と否定とを繰り返した。

 きっと警部補の脳内は、同じ作業を猛烈なスピードで行っている。


「──辻褄は合いそうだ。しかしそれで、細間を追わんでいいってのは?」

「それも推測です。ですから明日は、その裏付けをするのはどうでしょう」

「辻褄が合えばな」


 合わない可能性を必死に考え、それでも見つからなかった。逆に見つかったのは合うほうの可能性。

 左腕を持ち上げ、午後七時二十分の腕時計を警部補に示す。


「細間は結愛を諦めません。着実にその準備だけを進めてます」


 俺の語った推測を、警部補はすべて頷いた。翌朝やって来た結愛の監視役と交代をし、すぐに裏付けを開始する。




 十二日後、七月最初の土曜日。猛暑日の続く中、午後二時三十分の羽田空港は、建物内も少し蒸して感じた。

 チェックインカウンターまで、あと十メートルの位置。涼しげな開襟シャツで、バックパッカーめいた大きなリュックを担ぐ男がやって来る。


「お急ぎのところ申しわけないが、ちょっといいかな」

「誰かと思えば、この前の刑事さん。どうしたんですか、こんなところで。管轄外じゃないんですか」


 声をかけた達先警部補に、細間は疲れたような笑みを向ける。汗臭さや衣類の汚れはまったくない。


「ああ、写真で見た人も。はじめまして」


 見たことも聴いたこともない。保護されたときの言い分どおり、俺には迷惑げながらも会釈をしてみせる。俺は「はじめましての気はしないですけどね」と、さすがに合わせることをしなかった。


「そうなんですか? それ、古いナンパの手口ですよね。やったことないですけど」

「ナンパではないですが、ちょっと付きあってください」

「今から飛行機なんですよ」

「十六時三十分、ベトナム行きでしょ? 五分か十分くらいです、今日は混んでないし大丈夫ですよ」


 チケットを見せてもらわなくとも、行き先は知っている。という事実に細間は「はあ」と、渋々の態度をしか見せなかった。


「本当に失礼を言って申しわけないですが、今日はえらく綺麗な恰好ですね。飛行機代とか、持ってらっしゃるのが意外です」

「貯金くらい少しはあります。普段うろうろしてるのは、世間で言う真面目に働くのがバカバカしいだけで」

「で、ベトナムへ?」

「あっちなら、靴磨きみたいなことでも生きていけるそうなので」


 堂々と国外脱出の宣言らしい。あくびをしながらの顔から、周りの誰も想像しないだろうが。


「ビザがあるでしょ」

「ワーキングホリデーみたいなものです。別にいいでしょう、どんな旅行をしたって。前科者は飛行機にも乗るなと?」


 そんなことはない。言いつつ警部補は、折り畳んだ紙を取り出してみせた。


「法治国家なのでね。決められた罰を受けた人物が、それ以上の制限を受けることはあってならない。別の罪を犯したと疑うに足りる、十分な証拠でもなければ」

「その紙が?」

「いや、これは単に話のタネだよ。そうだな、脱出ゲームってのが流行ってただろ。あんなようなもんだ」


 大きく、芝居がかったため息を細間は吐いた。チェックインカウンターの時計のあるほうへ目をやり、やれやれという空気で答える。


「脱出ゲームに付きあえば、コーヒーの一杯くらいは奢ってもらえるんですか」

「お安い御用だ」


 達先警部補が頷くと、細間は先んじて売店の方向へ歩き出した。

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