第35話:紐ほどく(6)

 時刻は午後二時十分。達先警部補は「そろそろ用意できただろ?」と、半ば強引に約束を取りつけた。


「すみません。お知り合いの方にも、予定があったでしょうに」

「気にすんな。飲みに行きゃあ、俺の奢りだ」


 それはまた別に気がかりだ。しかし背に腹は代えられず、県警本部へと戻った。

 しかし知人の携帯電話会社の社員と言えど、手続きや移行作業の短縮はできない。「またのお呼びをお待ちしてますよ」と帰る背中を見送ったのは、午後五時五十二分。


「こんな時間になっちまったが。さてどうするね、お客さん」


 帰宅する人たちが、小さな流れを作る県警本部のロビー。すっかり夜の色をした、自動扉の外。

 次はどこへ運ぶか。とハンドルを動かすジェスチャーの警部補へ答えるには、生き返ったスマホをしばし見つめる時間が必要だった。


「……一本、電話のあとでもいいですか」

「構やしねえ」


 歩きつつ、チャットアプリから選んだ相手に電話をかけた。エレベーターに乗ると切れてしまうかもしれない、階段で地下の駐車場へ向かう。


「おいーす」


 もしもしと言う前に、淡々とした応答が聴こえた。


「急に悪い。仕事中じゃなかったか」

「絶賛、残業中」

「ああ、ええと、本当に悪い。それでもちょっとだけいいか」

「──残業中とは言ったけど、仕事中とは言ってない」


 どういう意味だろう。いくつかのパターンを思い浮かべるが、どれでも大差ない。賀屋はとても友人思いということだ。

 賀屋の周囲の音が、だんだんと小さくなった。一分も待たず、「で?」と含み笑いの声。


「なんで笑ってる?」

「なんか、必死そうだから」

「まあな」

「結愛となんかあった?」

「いや、今のところは。このまま、なにもなければいいなと思ってる」


 結愛について、感じているままを正直に告げた。本当は今すぐ駆けつけ、大切に箱へでも収めておきたい。

 だがそれでは、彼女を守ることにはならなかった。


「あれ。あたしの想像と、なんか違う? あんたが家まで行ったのは聴いて、それから連絡なくて。うまく行ってるんだと思ってたんだけど、色々と」

「んん?」


 すぐには意味が分からなかった。互いに少しの勘違いがあったらしい、と苦笑いしたのは十数秒後。


「ちょっとな、この電話じゃ言えないことが起きてて」

「なに? 結愛が危ない感じ?」

「それはないと思いたいけど、ってところだ。一応、監視の警察官も置いてもらおうと思ってる」

「そこまでかぁ」

「一応だよ」


 隣を歩く警部補が警察電話の端末を取り出した。ちょっと持ち上げて示され、頷けばすぐにどこへか電話を始める。


「それであたしは? なにかできることあんの」

「知ってたら教えてほしい。正確な時期は分からないけど、四年くらい前と半年くらい前。結愛が大学へ行ったらしくて、なんの用か分かるか?」

「ええ? そんなの本人に訊けば一発でしょ」


 知るはずがないだろうと聴こえる、賀屋の言うとおりだ。


「うん。そのときストーカーに目をつけられたらしくて、直に言ったら動揺させるだろ」

「あー」


 考えてくれているようだ。長い呻き声が小さくなり、無言の時間をたった三十秒ほど加えただけだったが。その間に捜査車両へ着き、乗り込む。


「ああ、なんだ」

「分かるのか?」

「絶対じゃないよ。半年前に大学関係でって言ったら、同窓会の案内が来たころでしょ。四年くらい前って範囲が広いけど、まあ同じくだよね」

「案内?」


 俺たちの集まった同窓会は、ゼミの仲間内だけのものだった。ゆえに案内が来たからと、大学を訪ねる用に辿り着けない。


「参加できないからって、教授に謝りに行ったんじゃない?」

「ありそうだ」

「律儀だからねぇ。だけどこれ、なにかの役に立つの?」

「どうだろうな。でも警察の仕事ってのは、起こったことを時系列で整然とさせることなんだよ」


 比較的に最近、誰かにも言った気がする。と思えば賀屋が、答えを言った。


「辻褄の合うことが証拠になる、んだっけ」

「そうそう。うん、助かった。忙しいのに悪いな」


 教授にも話を聴くべきか。いや、なぜ荒畑が結愛に関わるようになったかの意味では、裏付けとして必要なのだが。今すぐにではない。

 もう次のことを考えながら切ろうとした電話口、賀屋の声が「おいこら」と漏れ聴こえた。


「あ、悪い。なにか言ったか」

「ええぇ? だから、あんたの撮った写真がなかったっけって。もらった電話で、ついでに訊いて悪いけどさ」

「いや全然。写真? 同窓会のときのか」

「ほかにないでしょ。みんなグループチャットに写真上げてるから、あんたも上げといてよ」


 たしかにそういう通知は見た。あれこれ考えることばかりで、確認する余裕がなかった。

 しかし俺が撮ったと言って、十枚くらいのものだったはず。

 ああ、思い出した。教授を真ん中に、すぐ隣へ賀屋。反対に茂部を写したのが、いいできだった。

 すぐにと言いかけ、恨めしく後席を振り返る。


「今すぐは無理だな。あとでやっとく」

「いいよ、追々で」

「うん。でもそうか、実はスマホが壊れてて。新しくしたから、履歴がないんだよな」

「えっ。じゃあ写真消えた?」

「俺の撮ったのはあるよ。SDカードへ落ちるように設定してるから」


 細間がそこまで徹底的に壊していなければだが。


「みんなの上げたやつが見れないってことね。んじゃ、あとであたしが送ったげる」

「ありがたい」


 あとで、と言わなかったか。通話を終えた途端、怒涛の勢いで写真が送られ始めた。

 けれどもつい最近のことなのに、なにやら懐かしいと思う。どの写真にも結愛の居ないことが寂しいが。


「おい」


 少し呆けていたらしい。賀屋とは違う低い声に、現実へ戻された。


「あっ、すみません。ちょっと考えごとを」

「ん? いや、いいんだがな。それ大丈夫なのか」


 ちょっと案じた声。警部補の指が向く先を見ると、俺の腕時計に行き当たった。

 特に壊すようなことはしていないが。けれども盤面を見て「ああ、これですか」と笑う。けっこうな勢いで、針がぐるぐる回っていた。


「いつもこれくらいに、時刻の再調整が自動でかかるんですよ。でもここ、通信状況が悪いらしくて。十回くらいで諦めてくれますから」

「へえ。それで不都合ないのか」

「ええ、通信が良くなればまた勝手に」


 うん? ふと、なにかが頭をよぎった。大事なことだった気がすると思い返すところへ、けたたましい呼び出し音が響く。警部補の持つ、警察電話の端末だ。


「は? いや、それは、ええ? すみませんじゃ済まんでしょう」


 誰からか分からないが、おそらく格上の人に怒りを殺している。どうにも不穏しか臭わない通話は、二分もかからず終わった。


「なにかあったみたいですね」


 いまだ端末を睨みつける警部補に、直ちに問う。物を粗末にする人でないが、握力は凄いのだ。


「くそったれが。行動確認係コーカクが見失ったらしい」

「え」


 細間は川越市の河川敷で、橋を屋根に野宿の恰好になったそうだ。監視役は二人居て、ではこちらも夕食にするかと一人が買い物へ行った。

 それから数分、ダンボールに包まっていた細間が立ち上がり、川岸の藪へ入っていった。いくらか木も生えているが、膝丈の草むらに囲まれた。

 買い物へ行った相棒が戻り、「長くかかってるから大きいほうらしい」と。冗談を言えたのはそこまでで、細間の姿はどこにもなくなっていた。

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