第34話:紐ほどく(5)
「女性を自分の部屋に入れたら、なにをします?」
ドラッグストアから川越市まで、三十分ほど。ずっと細間は、結愛の手を握って離さなかった。振りほどいて、信号待ちにでも飛び降りることはできなかったろうか。
筋力を言えば、振りほどけなくとも不思議はない。たとえ停止していても、運転中の車から降りるのは怖い感覚がある。まして拉致された中では。
「あいにく、人を閉じ込めたことはない。考えたくもねえしな、虫酸が走る」
「いえ、自分の彼女とかですよ。若いころ、奥さんなんかと」
住宅地を抜ける道。達先警部補の左手は、まあまあ忙しく動いた。これでは手を握っているどころではない。
「そりゃお前、メシ食ったりはするだろうが。結果やることは一つだろ」
「そういうもんですか?」
「お前は違うのか」
「俺も結愛も実家暮らしだったんで」
キンキンに冷えた缶コーヒーをひと口。警部補は拗ねた風に笑って、「ああ」と。
「今のやつらはビデオ、じゃねえや。動画とか見るんじゃないのか。それともゲームか? どっちにしろ俺らのころにゃ、なかった。映画を見るなら映画館、ゲームはゲーセンだ」
ビデオと動画は、ほぼ同じ意味だ。日本では、なぜかビデオテープと限定されているっぽいが。
まったく関係ないことを考えて、俺の顔が緩んだのかもしれない。警部補もニヤリ、皮肉げに続けた。
「なんだ。処女を疑ってんのか」
「いえ、それは疑ってないです」
直接にも婉曲にも。特に前者は、疑う必要がなかった。
「……へえ」
ひと言。そのあとになにかありそうだった言葉を、警部補は呑み込んだ。
調書になんと書いてあったか、正確に思い出そうとする俺に遠慮したでもあるまいが。
「細間は出勤もせず、ずっと顔を突き合わせた。文字通り、にらめっこでもするみたいに。結愛が可愛い、好きだと言い続けた」
食事やシャワー、睡眠などを除けば、およそそういう状態だったらしい。
結愛の視界を想像しようとして、雑居ビルの細間しか思い浮かばない。腕に鳥肌が立った。
「もし普通に付き合ってる彼女が、そんな風に過ごそうって言ったら。どうします?」
「勘弁しろよ。半日くらいなら合わせるが、それ以上は息が詰まっちまう」
「半日くらいならいいんですね」
なるほど、そういうものか。俺ならもっと短い時間で音を上げそうだが。
細間と一般論を。ついでに俺を比べていると、なぜか「バカ野郎、てめえ」と叱られた。
「──あ、そうか。すみません、からかったつもりはないんです」
「うるせえ、黙れ」
シフト操作が荒々しくなる。安全確認は大丈夫か気がかりなくらい、こちらを向いてくれない。到着まで、残りの数分間は無言になった。
細間の住んでいたアパートは車でも行けるが、停めておく場所がない。離れたスーパーに車を置き、まずは細間の使っていた月極駐車場に移動した。
駐車場からアパートまで、ほぼまっすぐ。運転に自信のない人は、間違いなく避ける幅の路地に入る。ドラッグストアで買った折り畳み傘が役に立つ。
「古い街灯ですね」
「夜は
「最近も行ったんですか?」
「うるせえ」
また怒らせた。昔の映画館か、今の映画館かを訊いたのだけれど。
「タオルで猿ぐつわでしたよね。誰かに見られたらとは考えなかったみたいですけど」
「まさに罪を犯してる奴は視野狭窄ってのか、トランス状態ってのか。正気ならありえねえ手抜かりもあるもんだ」
警部補をは見ず、努めて低い声で問う。おかげか、普通に答えてもらえた。
「まあ、今も人っ子ひとり見えねえが」
たしかに、だ。
白蟻に食われた痕も見える古い建物と、ここ数年で建ったような新しい建物が入り交じるが。どの玄関も窓も固く閉ざされ、開いているものがない。
テレビの音や音楽もなく、離れた幹線道路の走行音ばかりが届いた。
その実、訪ねれば在宅は半分くらいある。先日の聞き込みはそうだった。
約二百メートル。駐車場を振り返っても、はみ出した木の枝や電柱などで見通せはしない。
白蟻の痕のほうに類する、ただし鉄骨造りのアパート。道路から隔てる物なく階段を上り、モルタルのひび割れた通路の奥。
今は監禁事件も知らない人の住む部屋を見上げた。
「部屋に入れられてから、結愛は『殺されるんだろうな』と思ってたみたいですが。細間が無理強いしたと言えば、『お願いだから静かにしてて。そうしたら、なにもしなくていいから』だけ」
細間の住んでいた部屋と、隣の部屋。細間の住んでいたアパートと、隣のアパート。大声を出せば、誰かには必ず聴こえる。
「恐怖が勝ってしまうものですか?」
「そらそうだ。小便ちびりそうに怖いってとき、まともな声なんか出やしねえ。出せたとして、誰かが来てくれるって確証はねえ。来てくれるとして、それまで自分が怪我しない保証はねえ」
頷く。最初の何時間か、あるいは一日や二日はそうだろう。俺も細間を前に、ダメで元々とは思えなかった。
居なくなってからでさえ、ヤケクソめいた思いきりが必要だった。
「で、いくらか経つと安心感が出てくる」
「安心感?」
「ここまでなら、自分には許された行為だ。自分を拐った犯人は、このくらいで傷つけない。してもない約束ごとができあがる」
「ストックホルム症候群ですね」
あまり考えたくない話だ。だが現実に、そういう心理は存在するらしい。
「細間なんぞ、そうでなくても上げ膳据え膳だからな。牧添結愛が、ありがとうとでも言った日にゃ、かわいがってくれるだろうさ」
「それがまた結愛に安心感を」
「ああ。だから最後に、よく逃げ出したもんだ。逃げれば殺されるかもしれねえ。逃げなけりゃ外には出れねえが、傷つけられることもない」
してもいない約束。
調書の中の結愛は「助けが来るとは思っていませんでした」と言った。なぜ来ないと思ったか問われ、「来ないとは思いません。でも私があそこに居たことを誰も知らないので」と。
書類上、整然と書かれている。もっと取り乱しての言葉かもしれない。
どうであれ、言い分に訂正の必要はない。誰も来ないと思うのに、よく逃げ出したとは警部補の言うとおり。
「自販機って」
辺りを探すと、二十メートル足らずに赤い自動販売機があった。タバコ屋というか、パンやらお菓子やらを売る小さな店の前。
監禁から一週間が過ぎ、さすがに食料を買い足そうと細間が出かけた隙。逃げ出した結愛は、この自販機に触れて息を継いだ。
それをたまたま、巡回で立ち寄っていた交番の警察官が見つけた。小雨の中、はだしで歩く結愛を不審に思って。
そのとき彼女が持っていた通勤用のカバンからは、スマホだけが奪われていた。
「電話──」
私用のスマホを取ろうと、ポケットに手を伸ばす。が、ない。
当然だ。壊れたままビニール袋へ放り込み、車の後ろへ置いてある。
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