第33話:紐ほどく(4)
財布を出そうとすると、達先警部補が一万円を突き出した。「いえ」と言いかけたが、有無を言わせぬ空気に負けた。
「頃合いっていう意味じゃ、今ここに居る俺は話にもならないわけですが」
「そうですか? あたしには、なんとも答えられることじゃないですがねえ」
拝んで受け取った店主はレジに向かい、なぜか六千円も返してくれる。
目を見張り、あらためて千円を渡そうとした俺の手が上から押さえられた。とっておけという空気で、口角を上げて。
ごちそうさまでしたと頭を下げ、引き戸を開ける。そっと振り返ると、店主はなにも言わずに腰を折った。
「──ほかに、なにか聴くべきだったことはありませんか? 細間の、結愛のことでも」
「いいえ。あたしの眼で、耳で、見て聴いたことは話しました」
もう一度、会釈で店を出た。明るい曇り空、透明な針が無数に落ちる。
「次は? 順番どおりでいいのか」
「お願いします」
今日の順路を打ち合わせてはいない。最初が結愛のアルバイト先なら、次は自明だ。おそらくそう考えて、警部補は車を走らせ始めた。
「どうして細間は、不破と荒畑を殺したんでしょう」
俺の希望する場所なら、十分ほどで着く。だからというわけでもなく、すぐに訊ねた。
「どうしてって。お前の元彼女に、ちょっかいかけたからだろ?」
「それはそうなんですが。別の言いかたをすると、どうして俺は殺されなかったのかって」
一つ赤信号にかかり、再び走り出す。警部補の返答は、そのあとになった。
「殺されたかったのか」
「まさか」
「うん。まあたしかに、お前が最初だったら基準が甘いのは分かる。しかし最後で、荒畑の直後だ」
「ええ。勢いというか、殺すしかないってなると思うんですよ。ちょっとでも時間が空いてれば、また違うでしょうけど」
そう、基準だ。このラインを踏み越えたら殺す、というのが見えない。
「不破は、なにもしてないんですよ。事後なら、いちばん酷いですけど。実際のところ、結愛は不破の存在を知らないんです」
「予防の概念を否定するとは、警察官の風上に置けねえな」
「感情の話をしてるんです」
また信号に捕まり、達先警部補はタバコに火を点けた。「分かってる」と皮肉げに笑って。
「しかし感情って言うんなら、やっぱり殺すだろうよ。自分の女、と思ってる相手が犯されると考えれば」
「それはそうです。でもそれで殺すんなら、どうして荒畑はゆうべまで生きてたんです? 俺がその物差しを持ってたら、結愛のスクーターに跨った時点で
不破は山中へ棄てられた。荒畑は誰も来ない廃ビルの地下へ隠された。そういう手続きを踏むのに、タイミングのようなものはあったのかもしれない。
だが荒畑の付きまといは半年も続いている。その間ずっと、タイミングがなかったとは思えなかった。
警部補の返答がある前に、車が停められた。望みどおりのドラッグストア。二十四時間営業で、当時の結愛が必ず立ち寄った場所。そして連れ去られた場所。
午後〇時十八分の駐車場は、半分以上が埋まっている。
「そこの証明写真の脇だ」
「この辺ですね」
店舗の入口とは少し離れた壁ぎわに、証明写真の機械が設置されている。そのすぐ隣へ、俺はしゃがんだ。五年前の細間を真似て。
「角を曲がって、店へ入ろうとした牧添結愛の眼に、見慣れた電器屋の制服が映る。居酒屋へよく来る男が、しゃがみ込んでいる。まあ、声くらいかけるわな」
居酒屋の方向から、結愛のスクーターが走ってきたのが見える。警部補の言うように、建物の角を折れた先の駐輪スペースへ入ったのを見届け、腹の痛いふりができる。
「『今日はまっすぐ帰ろうと思ったら、急に腹痛がして休んでいた。薬はもう飲んだ』と言われて、牧添結愛は背中をさする。薬を飲んだのなら、ほかにできることもない」
「数分、仮病を見せたあとに車まで手を貸してくれと言う。こっちでしたね?」
「ああ。当時はガラガラだったが、不自然に離れてる」
防犯カメラの画角から外れるらしく、俺の見た捜査書類にも画像のプリントアウトがない。
今日と同じく小雨が降っていたのも計算なのだろうか。それは書かれていなかったが、ともかく結愛は細間が車に乗り込むのを手伝った。
「『ああ、そうだ。次に店へ行ったとき、渡そうと思ってた物が』とかなんとか。雨に濡れることだし、助手席へ乗るように細間は言った」
そんな場合ではない、というような返答はしたらしい。だが細間は聞かず、もらってくれとだけ繰り返した。そうしたら帰って寝る、と。
「結愛の性格なら、そういう相手に要らないとは言えないですからね」
帰れるのなら、早く帰って休むべきだ。そのために、いつもなら断るものも断らなかった。
俺の知る彼女なら、そんなことをしても不思議はないと思った。結果としてそのとおり、細間が通勤に使っていたイマダ電器の社用車に、結愛は乗ってしまった。
その駐車枠に、今は車がない。およそ運転席の位置へ立ち、助手席の方向を見る。
ここから川越市まで、結愛はどんな気持ちだったのだろう。調書には、「もうなにがなんだか、なにも考えられませんでした」と書かれていた。
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