第32話:紐ほどく(3)
「お出しできるものがなくて」
かかっていた鶏串の作業が終わると、店主は温かいお茶を出してくれた。熱燗用だろう、背の高い湯呑みで。
「さて、どんな人かと言われてもね。すっかり忘れるほどじゃないし、忘れもしないだろうけど」
「別に、前と違うことを言ったとして、どうこうもない。思い出せるだけ、教えてやっちゃもらえないかねえ。こいつに」
話しながらも、店主は次の仕込みに移った。今度はホルモン串らしく、グロテスクな白い塊がまな板へ載る。
見るからにグニュグニュとして切りづらそうなのに、サッサっと包丁が奔るたびに美しく切り分けられていった。最初からそういう大きさ、形だったように。
「昔話ってことでしたねぇ。じゃあまあ、取り留めなく」
さてなにから、という風に店主は唸る。すると達先警部補は手元の椅子を引き、俺を座らせた。当人はと言えば三つ離れた椅子へ同じく。
「たぶん最初はね、腹を満たそうってことだったと思いますよ。ほら、表の看板にご飯ものも載せてあるし」
赤地に黒い筆文字で、一押しが書かれているのは知っている。具体的になんだったかは覚えてないが、店内の品書きを眺めてもおいしそうな名前ばかりだ。
「一つものを頼むのにも、なかなか言葉が出ないから。吃音で難儀なさってるのかなってくらいでした。いやそれも何回と来てくださるようになって、思い返してですがね」
言葉を詰まらせるのは、警部補からも聴いた。俺と話す分には、まったく感じさせなかったけれども。
「訊けば川越の人ってんで、なんでご贔屓にってね。これは訊ねるまでもなかった、分かりやすい人だ」
「分かりやすい?」
「結愛ちゃんに付き合う相手があるのは、常連ならみなさんご存知でしたよ。上がる前に賄いを食べてもらってたんだけど、どこか出かけたなんて話は必ず、『篤志くんと』で」
細間の今までで最大のできごとを、誰より知っていても。俺はなに一つ、理解できる気がしない。
店主の言う、分かりやすいは分かったが。
「出勤の曜日は固定だったんで、合わせて週に一度はいらっしゃってた。だいたい週末を外して」
いらっしゃってた。来てくださる。
最後がどうあれ、客だったのだ。店主の言葉遣いとして間違ってないのだろう。どうも心の中の俺が目を瞑ろうとしても、都度こじ開けられる感覚がする。
「毎回ね、なにかしら贈り物も持ってらっしゃる。女性向けの家電とか、腕時計とか。『売り物だけど余ったやつだから』って、そんなわけないだろうにね」
「それを結愛は?」
「最初のいくつか。何百円の加湿器なんかは受け取ったように思います、半ば押しつけられてですよ。すぐに高い物に変わって、それからは受け取ってないですね」
まだ、それらはあるのだろうか。俺なら気持ち悪くて捨ててしまう。
親と同居だった彼女の部屋に入ったことがない。
「まあそれからは、これとお話するなにごとも起きません。結愛ちゃんが来れなくなるまでね。毎度あの人は贈り物だけ渡そうとして、断られて、ステーキ丼とジンジャーエールで帰っていった」
ステーキ丼。壁の品書きに探すと、二千五百円だった。刺身の盛り合わせとか、一人で食べきれない物を除けば最も高い。
「食べてみられますか?」
「あ、いえ。おいしそうですけど、準備中に悪いですから」
それだけの値段なら、さぞ。お世辞でなく食べたいと思ったが遠慮した。しかし思わぬところから思わぬ声が飛ぶ。
「ご迷惑にならんのでしたら、お願いできますか」
「ええ。まったく。お帰りになるまでにはお出しできますよ」
達先警部補の注文に答え、店主は肉を取り出した。素人目にも、赤身とサシが高いと読み取れる。
ホルモンを切ったのとは別の包丁を持ち出し、三センチ厚に切って置く。塩をすることもなく、ただ皿の上へ。
「……あの、従業員に物を渡すって。それも繰り返し、何度も。遠慮してくださいとか、そういうことは言われなかったんですか?」
「結愛ちゃんには言いましたよ、やめてもらえるように言おうかってね。だけど断ったらすぐに引き下がってくれるし、ほかに困ることもないしと」
それならまあ。強引にやめさせるほどではない、のか?
お客に代金を求めない警察官では、そこのところの機微が知れなかった。
「こう言うと卑しいんですが、逆にいいこともありまして。お約束と言いますか、常連さんからウケが良かったんですよ。『フラれ芸だ』とかなんとか」
ああ、酔った人にはいい肴かもしれない。その光景だけを想像すれば、細間であっても同情の欠片くらいは生まれた。
「あの人、かなりの
「でした?」
過去のことだ。そう言って、おかしいところはない。だが俺の耳には、今は違うと聴こえた。
「ええ、来ましたよ。三年前でしたか」
店主の眼は、ずっと食材にだけ向く。ホルモンを終え、先ほどの肉を指で押し、塩と胡椒をサッと振ってまた放置する。
「菓子折り持参で、スーツまでは着てませんでしたが。頭を下げられました、迷惑をかけたと」
「スーツでないにしても、そういう恰好で?」
「小綺麗ではありましたね。ポロシャツみたいなものだったと思いますが」
三年前なら、川越のアパートも解約したあと。もちろんこの店へ来るためだけに、散髪をして新品の服を着てというのも可能だが。
「言葉を詰まらせるのも変わらずでした。謝られたら、あたしは結愛ちゃんの保護者でもなし。うちの店は別に、としかなりませんで。二度と来ないから、もう一回だけステーキ丼を食わせてくれとかね」
キッチンペーパーで、肉から浮いた水分が吸われた。ようやく店主はフライパンを火にかけ、じっくりと油を熱した中へそっと肉を置く。
想像したような、じゅわっと激しくは叫ばない。じりじりと、はみ出した肉汁の一滴ずつを躙り潰すような音が微かに。
「でも、なんでかとは訊ねたんです。あれだけ断られて、目がないのは分かったはず。結愛ちゃんもお客さんから物をもらうのは悪いし、おかしな話だから断っただけで、嫌ってたわけじゃない。だけどその両方がくっついて、あんたへ向けて芽吹くことはないとね」
次は惣菜らしく、店主は大量のごぼうを切り始めた。水を張った桶が、あっという間に琥珀色で染まる。
作業の一つずつがタイマーになっているのか、ごぼうが終わるとフライパンに戻った。肉をひっくり返し、かと思うとすぐに取り上げ、皿へ置く。
残った油と肉汁を細かい網で濾し、フライパンを綺麗に拭いて、醤油のソースを作る。
青と朱の丼にご飯がよそわれ、ソースをふた回し。その上に、ひと口より大きめに切られたステーキが六切れ。
「おまちどうさまでした」
最後にわさびを、ひとつまみ。ステーキ丼は俺の分しかなかった。だが代わりに茶漬けにしたものが、警部補には出された。
うまそうだ。匂いも暴力的で、誰かに後頭部を押さえつけられた心持ちがする。このまま丼へ顔から突っ込めと言われたような。
でも、細間がどう応じたのか。そちらへの気持ちには、まったく勝負にもならない。
「なんでも、頃合いってのが大事ですよ。今、ひと口だけでも」
「はあ、じゃあ遠慮なく」
そうまで言われ、口に入れないのは失礼だ。
ひと口。最初に振られた、少しの塩と胡椒だけの肉をひと切れ。焼く前の赤味より、ちょっと白くなったなという肉を噛み砕く。
甘い。お菓子や果物とは違う、肉と脂の甘味。それは分かるが、今まで食べたどんなステーキや焼肉でも味わったことがない。
「──これしか頼まない人が居ても、納得するしかないですね」
手を止めてまで見つめる店主に答え、俺の手はご飯を掻き込んだ。仄かなバターと、焦がした醤油の香り。
欲望に従えば従うほど旨いに決まっている。箸が止まらない。これを毎週食べて、事件までは痩せていた細間はおかしい。
「細かな言いざまはアレですが。あの人は一つも詰まらず、こんな風に答えました。とどのつまり、なにかを好きってのは自分の物にしようって気持ちだと」
半分も食べたところで、店主はおもむろに言った。ごぼうの水を流し、別に切った人参と合わせて鍋にかける。
「自分が一番近くに居たいから、対価を払う。食事なら買って食べるし、芸能人ならライブやグッズに。それを関係ない他人に遠慮するほうがおかしい、だそうで」
「他人にはそうですが」
「ええ、あたしも同じことを。当の結愛ちゃんの気持ちを無視してちゃ、その理屈は意味がない」
きんぴららしい。豚肉も投入され、醤油の匂いが立つ。俺などマルチタスクは苦手なのだが、今のところこの店主は完璧だ。
「あの人に言わせると、それも対価だそうで。どんなにいい道具も、使えばすり減る。慣れない最初のうちは、誤って壊すことさえ。だからムダだと言って買わない人間は、最初から大して好きじゃなかったんだっていう」
「それは話としては理解しますけど、結愛は人間です。現実、隙を見て逃げました。怖かったって泣いてました」
大きなボウルに、きんぴらが落ちていく。「そうだったんですね」と店主の眼が、ちらり俺に向く。
「保護されたのはニュースで見ましたけどね」
「あれから、結愛とは?」
「顔は見てませんね。謝りの手紙をもらったあと、年賀状と暑中見舞いは来ます」
両手で、ざっざっとボウルが振られる。山盛りのきんぴらが、サーカスみたいに宙を舞う。冷まして、少しの酢とマヨネーズで和えられた。
「きんぴらサラダ。味見、お願いします」
ひと箸分が小鉢で置かれる。ぴりと黒胡椒が効いて、お茶を飲むとごぼうの風味だけが口に残った。
「うますぎです。ビールがいくらあっても足らないでしょうね」
「それは良かった。きんぴらとマヨなんて邪道、とか仰る方もあるんで」
「いえいえ。俺はビールより、ステーキ丼と一緒に食べたくなりましたけど」
「また、いつでもどうぞ。仕事抜きで、日本酒でもカクテルでも」
仕事抜きで来れるだろうか。考えても、明確な言葉にならない。
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