第31話:紐ほどく(2)
達先警部補の運転する車へ乗ったのは、いつ以来だったか。一度や二度はあった気もするが、もしかすると初めてかもしれない。
診断書によってでなく、私用で休んだ俺を連れてくれるのだ。運転くらいはしたいところだったが。
東松川市のコインパーキングで捜査車両に乗り込み、およそ二十分。行き先の店名を告げても察しなかった達先警部補だが、その店の駐車スペースまで着けば「ああ」と頷いた。
空は少しずつ、グズつき始めた。雨でもさほどに困りはしないが、「降り出す前に」と急いで車を降りようとした。
「例の件だがな」
「ええと、どの件です?」
「お前の元彼女の」
「あれ、教えてもらえるんですか」
呼び止める感じでもなかったけれど、開きかけたドアを素直に閉め直した。目先が片付いてからでは、などと余計なことも言わない。
「うまい方法ってのは、特にないわな」
「うまくないのなら?」
「うまくなかないが、俺は古い人間だ。お前らなんかにゃ、合わねえだろうさ」
「教えてもらえますか」
警察というインフラを利用せず。結愛の心と身体が、今以上には傷つかない方法。
警部補への相談を思い返すと、かなりの難問だ。俺が頑張るというだけは断言できるが、何をどう頑張っていいやら。
「お前の心持ち次第で、酷かもしれん」
「なんだか怖いですけど。お願いします」
「ヨリを戻しちまえよ」
「ヨリ? もう一度、結愛と付き合えってことですか」
それ以外の意味には聴こえなかった。そう簡単に言わないでくださいよ、を何重もオブラートに包むと、この返答になった。
「人ひとりを守るってのは、並大抵じゃない。お偉いさんに付くSPみたいに、身体張るだけでもな」
「それはまあ、分かってるつもりです」
「うん。でもお前は職業でなくて、自分でやろうってんだろ? すると答えは、嫁さんにするしかねえわな」
そうできるなら。また言いかけ、今度は唇を結ぶのでやっとだ。
「ああ、分かってる。相手が縦に首を振らなきゃ始まらねえ。俺としては、だからこそと思うんだが」
「と言うと?」
「細間を捕まえてからでもいい。くっつくならくっつく、ダメなら二度と関わらねえ。どっちかにしろってこった」
なるほど、怖ろしげな前置きはそういう。キツイ話ですねなんて笑おうとしたが、声が出ない。
「ほれ、あれだ。買い物のときに店員が『お手伝いしましょうか』なんてよ。
「……一応、高校も大学も同じで。付き合ってて」
「ああ、聴いた。ヨリを戻したんなら、今のは俺の差し出口だ。謝る」
もう一度、付き合ってくれと。できれば結婚してくれと言って、許されるか否か。結果如何で、それほど違うとは。
いや、とぼけることはすまい。ぼんやりとは分かっていたが、はっきり明確にしようとしなかった。
「その、なんだ。うまく行けば、家族用の官舎に入れる。すっかり安らげるかって言やあ、また色々あるが。安全ってとこは、女の一人暮らしとは比べものにならん」
無意味にハンドルを叩きながら、迷う目を右往左往させ、俺のために言葉を探してくれる。
ありがたいことだ、次はどうしたら恩返しができるかを訊くべきかもしれない。
「警部補の言うとおりです。今日これからは無理ですけど、なるべく早く言ってみようと思います。やり直す道があるかって」
ざっくりと、鉈でも入れられた心地がする。しかしたぶん、幹にでない。生い茂って樹木のようになった雑草を、達先警部補は刈ったのだと思う。
「吹っ切れました。行きましょう」
「大丈夫か?」
「ええ。
まだなにか、言葉を重ねてくれるつもりだろう。それはもはや罪悪感を増すものであって、俺は速やかに車を降りた。
すぐそこに、店の入口がある。古いが軽やかに動く引き戸を抜けると、達先警部補はいつもの鋭い眼光を戻した。
「あいすいません。まだ仕込み中なんです」
総白髪の男性がカウンター越し、腰の低い声。店内の時計は午前十時四十三分、男性の奥へ置かれた目覚まし時計は四十八分を指していた。
俺の腕時計では四十三分。店主であるところの男性が自分を急かすために五分早めていると、結愛から聴いたままだ。
「こちらこそ申しわけない、客じゃなくてね。憶えてないと思うが」
警部補が警察手帳を見せると、店主は竹串に鶏肉を刺す手を止めた。ほんの数拍、またすぐに手を動かし始め「あのときの」と、僅かに苦みを含んで微笑む。
「またなにか?」
「いやいや、ちょっと昔話を聴かせてもらおうかと。店主さんの目で、細間って男はどんな奴かね」
年齢は知らないけれども、達先警部補より間違いなく上だ。少しも偉ぶる空気はなかったが。
「あの事件のときも、おたくさんに話させてもらいましたが」
「そうなんだが、今日は聴き手が違う」
一歩前に立つ警部補が、脇へ避けた。代わって前へ進み、深く頭を下げる。
「達先の部下で、中洲川といいます。刑事ですが、今日は違います」
「うん?」
「あのころ結愛と、牧添さんと付き合ってまして」
我ながら妙な挨拶になった。さすがに店主も首を捻ったが、「ああ、中洲川って」と頷く。
「篤志くんだっけ」
「はい、そうです。よくご存知で」
「──随分と、時間がかかったもんだねえ」
あのころ、結愛がアルバイトをしていた居酒屋。初めて会う店主は、まず俺の心臓に太い串を挿しこんだ。
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