第30話:紐ほどく(1)

 ひと口飲んだきり、置かれたままのコーヒー缶。もし念動力なんかが存在するなら、とっくに二、三回は浮き上がってほしいくらい見つめた。

 あいにくと俺にも警部補にも、異能の持ち合わせはないらしいが。


 ふと、さっきは流してしまった言葉を思い出す。凶行を果たす者と見つめる者と、一つ部屋にしたのは細間おまえだろうに。


「細間は、俺を知らないと?」

「ああ。写真も見せたがな、見たことも聴いたこともだと」


 のろのろとしながら動作には迷わず、達先警部補は自分のスマホを操る。一緒に拳銃訓練へ行ったとき、警部補の同期の人たちに交ぜてもらった写真を見せられた。


「まあ今回の件がなかったら、奴の言うとおりでしょうけど」


 過去、細間と対面したのは一度だけだ。結愛の監禁事件で面通しをして、知らない人と答えた。ミラーガラス越し、向こうからは見えていない。

 しかしそれは実際、過去のこと。

 知らず、俺の口と喉が小さな声を絞り出す。


「勝手なことばかり言いやがって」

「ん、なんか言ったか」

「あ、いえ。それより警部補、細間を連れてきたのは保護ででしょう?」

「そりゃまあ、そうだ」


 煮え立つような感情を、うまく言葉にできなかった。あからさまにごまかしても、警部補は聞き咎めない。


「じゃあ、逮捕できますね。今日、午前〇時三分。東松川と川越と、細間が二人も存在したタネを明かせば」

「できるが──仮に細間自身『僕は二箇所で別々のことができるんです』なんて認めたとして、不能ふのうはんだ。藁人形で殺人の罪は問えねえ」


 誤認逮捕でない。それならまだ、たった一つ達先警部補がミスをさせられただけ。細間を捕らえれば、ミスでなくなる。


「つうか、お前も当事者だ。捜査担当から外れるぞ」

「ですね。それで相談なんですけど、ここに診断書があります」


 自分のヘマで休むとか、恥ずかしすぎる。ゆえに提出する気のなかった封筒を取り出した。


「経過観察のため二日間の休養を要す、だそうです」

「二日でどうする気だ」

「いえ、ですから。達先警部補が休めって言ったことにすれば、有給はいくらでも残ってるんで」


 封筒を持った右手と、空の左手と。二つに一つ、警部補の前へ差し出す。

 タバコでも煙たがる風に細まる眼。組み合わせた両手の向こう、どこぞの基地司令でも居るようだ。まさか「勝ったな」などとも言うまいが。


 一分ほどの沈黙。老いたとはまったくだが、相応の皺の寄る眼に見つめられた。

 なにを考えているのか。天秤の皿はいくつで、どんなものが載っているか。考えれば分かる気もしたけれど、考えない。俺の腹にあるのは一つだけ。


「今、なに考えてる」

「むかつくってだけです。やり返してやらなきゃ、気が済まないって」

「いくつだ」

「ゆうべのことと、結愛のことと」


 人さし指の次に中指を立て、薬指も立てた。それを警部補に向け、「三つですかね」と鼻息を噴く。

 達先警部補も鼻を鳴らしたが、これは失笑だっただろう。同時に、両手を伸ばしつつ。

 一方の手は、封筒を奪い取った。もう一方が、俺の人さし指と薬指を下ろさせる。


「欲張るんじゃねえ、一つだ」


 封筒は二つ折りに、警部補の胸ポケットへ収められた。「お前が使いたいと言えば返してやる」と。


「それで、どうしようってんだ」

「とりあえずスマホがないと困りますね。それから──行動確認係コーカクは付いてるんですよね?」

「当たり前だ」


 達先警部補の個人的な知り合いに、携帯電話会社の人が居る。機種や色にこだわらなければ、今日じゅうにも新しい物を用意してくれるはず。

 期待どおりに段取りをつけてもらい、俺たちは川越署を出た。

 細間には監視役が付けられている。ならば、ほかにやるべきことはたくさんあった。


「最初に戻ってみようと思います」

「最初ってのは? 林道か」

「いえいえ、最初ですよ」

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