第28話:執着の殺人(5)
しばらく待っても、眼が闇に慣れる様子はなかった。同じく音や振動も、俺以外の誰かを感じさせてはくれない。
「さて」
まだ頭の中はぐちゃぐちゃだった。
落ち着いたように振る舞おうとして、声がかすれる。他殺体に驚くことはなくとも、殺人そのものを目の当たりしたのが初めてで。
けれど収穫はあった。痛いくらいになった耳鳴りが、少し治まった。自由を取り戻そうと、腕を思いきり引っ張るくらいの気力が出た。
「
背中に、引きつれたような痛みが走る。たぶん一箇所でなく、いくつもの打撲が一つの激痛として。
しかしその犠牲にも
いかにも安っぽく見えた手錠は合成樹脂、つまりはプラスチック製と思われる。
だが。
抱きかかえるパイプへ鎖をぶつけても、輪の部分をコンクリートに叩きつけても、壊れる気配が漂いもしない。
残る手段は、地道に削る。鎖を構成する輪は、三ミリほどの径だった。金属製らしいパイプにこすりつければ、いつか切れる。
運が良ければ、ゴリゴリとした異音を誰か聞きつけてくれるかもだ。
──という願望の叶わぬまま、しかし鎖は切れた。
拭うこともできなかった顔と全身の汗が、何分、何十分を費やした対価か、まるで分からないけれども。
すぐさま立ち、固まりかけた関節をほぐす。うっかり腕を振り上げ、また激痛を呼んだ俺はきっと愚か者だ。
いやもっとバカなことに、方向を失った。しゃがんで電話機を取ろうとして、指に触れない。
壁はこっちだったよな、と伸ばした手も空振り。くるっと九十度近くも回して、ようやく当たる。今度は慎重に、手を尺取り虫のごとく這わせた。
万に一つ。警察電話とスマホと、それぞれ電源ボタンを押した。もちろん反応なく、ポケットにしまう。聴いたとおり、拳銃も無事だ。
あらためて考える。ここはどこだ。
細間を追って入った、雑居ビルだとは思う。問題は、その中のどこか。
気になるのは臭い。土と埃とは別に、カビっぽさが混じっていた。
とすると地下か。こういうビルのたいていは、地下に貯水設備を持っている。
壁に手を触れさせ、伝って歩く。迷子と怪我の防止、それから荒畑を踏まないために。
この部屋に扉は二つあった。まずは右手の扉を引いてみたが、明らかに錠が活きている。
では繋がれていた壁から正面。
あっさり開いた。やはり、強いカビの臭い。溜まった水の臭い。
「細間!」
居るはずがない。返事は期待していなかった。
叫んだ声が、わんわんと響く。かなり広い部屋で、きっと貯水設備そのものがある。
タンクの据え置き型か、掘り込みのプール型か。プールなら、落下して溺れ死ぬ未来もあり得た。
事実を知るには部屋の中央へ進まねばならない。でも扉は中央にない。
壁に両手を触れて体重を預け、長くもない脚を伸ばす。経験上、こういう施設には足元の配管が多い。床も凹凸が激しい。照明なく進むのは、大げさでなく自殺行為だ。
索敵した足に触れるのは床だけだった。それでようやく、三十センチほどの蟹歩きができた。そしてまた壁に体重を預け、足先での索敵を試みる。
どれほどの広さだろう。一周しても、出口がなかったらどうしよう。最悪の想定が、数えきれず頭をよぎる。
──俺はなにも考えてない。
言い張って、足を動かす。そうしなければ、最悪でないほうの結果にも辿り着けないのだ。
最後の扉を開け、通路の先に夜の街が見えた。「着いた」と、三千里も歩いた心地で声がこぼれる。
避けるべき物が見えて、普通に歩けることのどれほどありがたいことか。ビルを出て、月がこれほど眩しいと初めて知った。
午前一時五十八分。記憶していた時間とともに、メモへ書き取った。
すぐに通報を。電話機の電源ボタンを押してから、ボロボロの姿を思い出した。
近くにコンビニかなにか、ないだろうか。空を見上げ、人の明かりのほうを目指す。
午前二時六分、緑色の看板照明をくぐってコンビニに入った。モップ掛け中の店員はこちらを見ずに「いらっしゃいませ」と。
清涼飲料水の棚からいつものブラックコーヒーを取り、レジ台へ運ぶ。小走りの男性店員が正面に立ち、眉をひくひくさせた。
「すみません、緊急事態です。電話を使わせていただけませんか」
ガサガサの声で、二枚の百円玉をトレーに。続いて警察手帳を取り出して見せる。
順番を間違えたかもしれない。それとも壊れた手錠のせいか。二十歳そこそこの店員は「え? え? なに? ヤバ」と、しばし会話が成立しなかった。
それでも十一分後には、パトカーがやってきた。既に緊急配備は敷かれ、事情を聴かれる中、達先警部補も。
「なにやってんだお前ぇ!」
自動車警ら隊の見守る只中、胸ぐらをつかんで引き摺り下ろされた。
この人なら、殴ってくれるに違いない。抵抗する気も、そもそも余力もなく、力を抜いて待つ。
「怪我は、病院は、救急車は」
そう言いながら、全身を叩かれた。痛むところを探して、だ。
「痛い、痛いです。階段から落ちたんで」
「なんだぁ? おい、救急車!」
「大丈夫なんで、俺が断りました」
自ら隊の人も救急車を呼ぶと言ってくれた。ここまで歩いてきたのだから平気だと断ったことに、達先警部補は声を低めた。
「ふざけんな。死んで昇進なんぞしやがったら、ぶち殺すぞ」
「……すみません」
あらためて呼ばれた救急車が近づいてくる。午前三時五分を確認したところで、警部補が唸った。
「ん、おい」
「生きてます」
「見つかったらしいぜ。川越だ」
生きてるな、と繰り返された問いと勘違いした。噛み合わなかった理由は考えるまでもない。
「細間が?」
「ほかに居るか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます