第29話:執着の殺人(6)
諸々の検査を受け、「大丈夫だと思うよ。できれば二日くらいは安静にしといたほうがいいけど」と湿布薬だけを処方された。
病院前でタクシーを拾い、川越署へ到着したのが午前八時十分。
俺の証言を調書にした達先警部補が、取調べの真っ最中のはず。なにも隠しごとがなかったとして、殺人の取調べが五時間では終わらない。
二階の刑事課に入るなり、たまたま居た警察学校の同期が取調べ室の一つを指さした。肩を竦め、結んだ口が妙に気まずげに見える。
教えられた隣の取調べ室へ入ろうとして、ふわと酒の臭い。警部補が飲むわけがなく、細間からだろう。
姿勢を低く、こそこそと。わざと少しだけ開けてある扉を、もう少しだけ開いてみた。
達先警部補の背中。けれども頭はなく、あり得ないが突っ伏して寝ているように見えた。
デスクを挟んだ向こうには細間、が居るはずだった。
しかし居ない。同じく寝こけているでなく、単にまったく普通に姿がない。
「あの、戻りました」
一歩を入り、トイレ中という可能性も消した。警部補がメモ用に使うA四のノートも閉じられている。
「問題ねえのか」
達先警部補は支えていた両手から額を離し、ボソボソと問う。なんですって? と冗談でなく聴き返しそうになったのは初めてだ。
「湿布だけで」
「そうか」
細間はどうしたのか。俺でなくとも問うし、警部補でなくとも説明せねばと考える。
それがどうにも、痛みを堪えるような細い息を吐くだけで、続く言葉がない。
背中の側で、朝から
ちょっと考え、さらに十を数え、取調べ室の扉を後ろ手に閉じた。
「いつものじゃないですけど」
階下で買ったブラックの缶コーヒーを置く。うつむき気味の眼にも入ったと思うのに、警部補の手は伸びない。
「悪い。下手ぁ打った」
「……ええと、奴は今?」
「帰らせた。ついさっきだ」
急に、達先警部補のおよそ普段の声。痰を絡ませ、缶コーヒーを開けたが。
「随分と酒くさいですね」
対面のパイプ椅子に座ると、
「奴は飲んだくれてたそうだ。川越のコンビニで、チューハイやらなにやら。二、三本買っては飲み、買っては飲みってな。店の壁にもたれて機嫌良く」
「じゃあ、保護で連れて帰れますね」
目の前での凶行から、時間も場所も離れている。ゆえに現行犯逮捕も緊急逮捕もできない。そういう場合は別の理由を取ってつけるが、酔っていたならそれで決まりだ。
「酔って忘れた、なんてことじゃないでしょうし」
俺の見た細間は、これ以上なく冷静だった。酒を飲んでいたとはあり得ないし、飲んでいても忘れるなど信じられない。
「細間が荒畑の脇腹へ包丁を刺し、殺害に及んだのは午前〇時三分。間違いないな?」
「え、ええ。もちろんです」
「ああ、俺も疑いやしない。でもなあ、あせっちまってたんだろうなあ。先に本人に、それを言っちまった」
なにがまずいのか。取調べのセオリーとして、こちらから情報を与える前に、なるべく当人に言わせるというのはあるが。
俺の現認、通報、凶器付きの遺体。これだけ揃って、そこまで言うほどの落ち度になるまい。
「あの、すみません。まだよく分からないんですが、いったい」
「すまん。奴はお前も、荒畑のことも知らんとさ」
達先警部補はデスクの縁に両手を揃え、深く頭を下げる。俺が慌てて「なにしてるんですか」と上げさせようとしても、びくともしない。
ただしメモのノートの下から、なにやら取り出すのには視線を上向かせた。
「んん? コンビニの店員さんの調書ですか」
細間が酒を買っては飲んでいたという。店員自身のことを書いた最初の五行ほどを読み飛ばし、細間が現れたときの記述に至る。
──鼻をつまみたくなるほど汗くさく、見るからに汚れた服装をした男が来て、心の中で「うわあ」と叫びました。それで、こんな人が来るのは何時だと思い、時計を見たのでよく覚えています。
「午後十一時五十五分?」
調書を書き慣れた人の文章だった。しかしその人を、俺の眼も疑い、最後の記名を検める。
川越署の強行犯係の係長だ。
「なんで……なんで八分も前なんですか」
荒畑の殺害された雑居ビルから川越市までは、車でも三、四十分がかかる。
それをどうやって。いや、どうやってもなにも、殺害時刻よりも前にコンビニで買い物をしているのはどういうことだ。
「悪い。俺が下手ぁ打たなきゃ、やりようはあったと思うが」
なるほど達先警部補は、俺の現認時間を細間が知らなければ、書類の訂正で辻褄を合わせられたのにと悔やんでいる。
だがそれは無理な話。最初の通報でも、病院で医師へも、俺が囚えられた経緯は事細かに伝えた。
だから、と言ったところで慰められてはくれないだろう。世に言う不可能犯罪を成し遂げた、細間を捕まえない限り。
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