第27話:執着の殺人(4)
「ふう、たったそれだけで? 彼女の迷惑も考えないと」
やれやれという口調の、細間の眼に感情は見えない。氷から削り出したような瞳に荒畑を映すだけ。
「俺ぁ」
「なんです?」
歯向かう声が、包丁で沈黙を強制される。荒畑の耳たぶから、紅飛沫が散る。
「うぅ……」
「で? それからなにをしたんでしたっけ」
「つ、着いていった。家まで行って、次の日は職場も」
「それだけですか?」
「ほとんど毎週。水曜とか木曜とか、忙しくない日に休んで行ってた」
この二人には、セリフの読み合わせみたいなものなのだろう。俺が眉を顰めても、細間はうんうんと頷くだけ。
「行ってた?」
刃先が荒畑の膝上に落ちる。腹の中を空にするくらいの息を漏らしながら、磨り潰した声も長い。
「遥か昔みたいに言うじゃないですか」
刺したまま、細間の手が左右に揺れる。荒畑は歯を剥き出しで食いしばり、まさに必死で
「ひ、ひと月前まで!」
勘弁してくれの代わり。そう聴こえる叫びと共に、切っ先が抜かれた。また荒畑は、どっと息を吐き、すぐに息を詰めてを繰り返す。
「ちゃんと数えておくように、さっき言いましたよね。最後は二十四日前の木曜です、どうしてですか?」
あまりにもな暗記のテストと言い換えねばならない。全身を強張らせ、大きく肩を上下させる荒畑を、「ほら」と細間の刃先がつつく。
「不破が……」
自身が既に聴いたことを、細間は俺にも聴かせてどうしたいのだろう。嫌悪と疑念の積もる中、無視できない名前が出た。
「ああ、友だちに自慢したんでしたね」
「ち、違え。毎週毎週なにしてんだって訊かれて、ごまかしきれなかった。そしたら、社長に言いつけるつって脅されて」
「脅す? ただ後ろを着いて回っただけで?」
荒畑は三十歳目前だったか。対して不破は二十二歳。誰が殺したと涙する狩野社長と、純朴そうな丸坊主の男の子が思い浮かんだ。
「いや、ええと──」
「恥ずかしがらないでください、僕は一度聴いたことですし」
細間の鼻と口から、ふっふっと小さな息がこぼれた。嘲笑うようにも、過呼吸になりかけても思える。
「シートを」
「シートがどうしました?」
「座って、その」
「とっとと言いましょうよ、面倒くさい」
荒畑の声が小さく篭もっていく。細間の声は大きく、ところどころひっくり返った。
「──た」
「大きな声で」
「オナった」
「かわい子ぶらないでくださいよ。結愛のスクーターに、チンコこすりつけたんでしょ? 職場でも家でも。精液もそこらじゅう塗りたくったんでしょう?」
コンクリートの部屋に、細間の声が跳ね回る。荒畑が背を丸めようとするのは、その袋叩きから逃れんとして見えた。
「だから不破さんは自分もって、結愛を犯すって言ったんですよね? それなのに、あなたは止めなかった」
怒気というより、ヒステリーだった。椅子を立ち、包丁で宙を切り、地団駄を踏むように、ぐるりと。「悪い、すまねぇ」を繰り返す荒畑を一周した。
最後に細間は荒畑の真横で足を止め、口を耳に近づける。
「だから僕が止めました。人に迷惑をかけちゃいけませんよって教えてあげたんです」
ヒソヒソ声も小さくはならず、むしろ鋭さを増す。
「結愛は僕のです。悲しませる前に、いつも守ってるんです。邪魔しないでください」
「う……」
荒畑の向こう。腰を屈めた細間がなにをしたか、俺には見えない。絞り出される呻きによって、なにが起きたかは察したが。
何度も、細間の肩が力んだ。同じだけ、いきむ声も。
やがて、というほどの時間はかからなかったかもしれない。荒畑の声は消え、全身がだらりと弛緩した。
腕時計の針が、午前〇時三分を示す。
「こういうとき」
おもむろな少し笑った細間の声が、もはや俺にしか向かないことに気づかなかった。
すくと立つ奴が、ずっと嵌めていたらしいゴム手袋を外すのを、ぽかんと眺める。
「やめろとか、止められるものだと思ってました」
「あ」
「言わないんですね。自分が捕まってたら、なにもできないからですか?」
ゴム手袋は器用に裏返し、ポケットへ収められた。その下の軍手は嵌めたまま、細間は俺のほうに歩く。
「あなたはまあ、以前は交際していたわけで。結愛に嫌がらせはしていない」
なぜ止めなかった? 既に周回遅れの答えが、いまだに浮かぶ気配もない。
細間は構わず、俺のすぐ脇へしゃがみこんだ。
「これ、お返ししときますね。特別な連絡手段があるかもしれないと思って、壊しちゃいましたが」
死角から、警察電話の端末とスマホを持ち上げる。言うとおり、修理のしようもないほどボロボロだった。
細間は電話機を俺に見える床に置き、「じゃあこれで」と立ち上がった。
「お、おい」
「なんですか? ああ鉄砲ですか? 心配しないでください、そんな物持ってるだけで捕まりますから、盗ってません」
このまま。俺を繋いだままで行く気か。
たぶんそんなことを言おうとしたが、やめた。当たり前だし、なによりこの男に助けを求めるのが嫌だった。
「では今度こそ、さようなら」
床に投げ出された大きめのマグライトを拾い、細間はその明かりを切った。途端、まったくの闇が部屋を満たす。
それでもすぐ、鉄扉の開く音。もちろん部屋の外からも光は射さない。
鉄扉が閉まると、音も失われた。耳の奥の反響が消え、いつしか耳鳴りが始まる。
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