第17話:おごめく(2)
土曜日になると、一般職員の人たちは休みになる。いや本来を言うなら俺も休みなのだけれど。
さておき平日より静かな庁舎の階段を上り、捜査一課へ辿り着く。午前八時十一分、達先警部補は当然のように居眠りをしていた。
「お、重役出勤だな」
「おはようございます」
淡々と置いた俺のアイスコーヒーを目覚まし代わりに、警部補は動きだす。ゆうべ、あるいは今朝の何時までやっていたのか、仕事の続きを。
「新潟?」
「いやもう距離とかは問題じゃなく思えまして。監禁されて、怖がってるなんてレベルじゃない娘を叱って。それで置き去りに田舎へ引っ込むなんて、そんな親があるもんですか?」
誰かの書いた物語でも読むように、結愛は訥々と語ってくれた。無表情ではなかったが、今にも決壊寸前の感情が、やっと押し留められている。そうとしか見えなかった。
「あるかないかで言やあ、たまにあるわな。親も子も夫婦も、それぞれ一人の人間です。各々が独立して生きていけるようにしなくては、なんてなことを大層げに言うのが」
「まあ。どっちかって言うと、社会的地位の高い人ですかね。あとベンチャーとか」
「そいつらが、みんな同じにやるかは知らんが、根っこは同じだろ。一概に悪いとも言わんけど、人情ってのを感じねえ」
達先警部補の偏見ではある。しかしそういう価値観が悪いほうへ収束すれば、結愛の境遇ができあがるのかもとも思えた。
「しかし、俺が聴いていいのか? 警察は信用しないんだろ。お前の元彼女は」
「ええ。警察にじゃなく、俺が信頼してる人。たまたま上司に当たる人へ相談するって言いました」
「そりゃあ──」
「頼りない奴って思われたでしょうね。でも事が大きすぎて、俺だけじゃ持て余すんです。でもそんな大ごとでも、必ずうまいこと運んでやりたいんです」
五十過ぎの無精髭だらけの口が「愛だねえ」と。静かに呟き、警部補は何度も頷いた。
「というかお前、自分じゃ持て余すって。そりゃ俺に口出すだけじゃなく、一枚噛めってか?」
「いえ、そこまでは。なにが起きても俺が体を張ろうと思ってるんですけど、知恵が足らなくて。そこだけ貸してください」
点けてもいないタバコを煙たがるような、細まった眼。ときに感じる殺気めいた鋭さはなく、達先警部補は課長席を眺めた。今日はまだ、出勤していない。
「ほかの人間には言うなよ」
当然だ。頷く代わりに、半分ほど減ったアイスコーヒーを注ぎ足した。
「しかしそうすると、被害届を出さないってのは正解かもな」
「ですね。正式に所轄署の事件となったら、俺がうろちょろするのも問題になるんでしょうし」
灰皿に山盛りのタバコを一本、警部補は咥えて火を点けた。「買ってきましょうか」と言っても、「これがうまいんだ」などと。
「で、元彼女さんはなにをそんなに拘ってんだ。それほど高給取りじゃないんだろ? 見捨てられた子が親の買った家のローンを払うとか尋常じゃない」
「ずっと小さいころから、世間体のほうが大事って親みたいです。監禁事件のときにようやく、自分の親はおかしいと気づいたそうで」
東松川署から牧添家まで、あの日俺が送り届けたあと。母親に叱られたのだと、結愛は告白した。
──どうしてくれるの。一人娘がどこの誰とも分からない男に傷物にされたなんて、恥ずかしくて表を歩けない。
そう泣きじゃくる母親に、傷物にはされていない、刑事さんからも説明があったはずだと言い返した。
けれども母親は、そんな話を近所の人たちが信用するものかと聞く耳持たなかった。
──せっかく大学にも行かせて、これから楽をさせてもらうはずだったのに。お母さんの希望を返してよ。
実の母親の言葉に、結愛は黙り込んだ。少し考える時間を置いて、謝った。それが最後の会話だったそうだ。
「夜逃げと言いますか、週末にちょっと遠出の感じで出ていったそうです。結愛も家に居て、じゃあねのひと言もなかったとか」
「はあ。目の前にお前だけだから言うが、そりゃあ縁を切るのが正解だ」
普通ならそうだろう。結愛の現状を思うと、無責任に頷けないが。
「それからローンの督促があって。新潟、父方の田舎へ連絡したら、父親から返答の電話があったそうです。住むなら自分でローンを払え、住まないなら放置していいと」
数秒前より遥かに大きなため息を吐き、達先警部補は顔を洗うように両手を動かした。
俺が当人から聴いたときは、どんな顔をしていただろう。すぐにでも暴れたいのを堪え、歯を食いしばっていたことしか憶えていない。
「うん? じゃあ、お前の案はなしじゃないな。放置していいなら、しがらみのない所へ雲隠れするのが簡単だ」
「そうです、五年前の案を今さらですけど。というか、結愛が嫌でなければ俺が払うとも言いました。その雲隠れ先の家賃くらいなら」
また、達先警部補の視線が課長席へ向く。空席のままの。
「でも『自分の居場所だから』って、却下されました」
「分からんでもないがなあ。場合を考えるとどうもな」
「そうなんです、どうもそこのところの理解が及ばなくて。詳しく訊こうとしても、気にするなって言われちゃって」
並びのデスクに二人、腕組みで唸る。そのタイミングで捜査一課の扉が開き、警視であるところの課長が姿を見せた。午前九時八分。
「で。俺はなんの知恵を出しゃいいんだ」
「ですからその被害者が、これ以上の危険に遭わない方法です」
「考えるとは言ったが、難題すぎる」
「助かります」
もうここでの会話は無理だ。諦めて部屋を出る俺の背後、達先警部補が課長に呼ばれた。「どうした達ちゃん、そんな難しいことが起きてんのか」と。
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