第16話:おごめく(1)
「はっきり分からないけど、半年前からかな。職場から家の近くまで、着いてくるバイクが居るような気がして。週に一回、あるかないかくらい」
一階部分の全面を駐車場にしたファミリーレストランへ、午後八時五十三分に着いた。極小になったものの、いまだ雨粒がテーブル脇の窓を濡らす。
夕食にしても遅い時間になったが、結愛はパスタと小さなピザのセットを注文した。「今日は安心して食べられそう」と僅か表情を緩めて。
「バイク? 結愛もスクーターで通ってるのか。さっきは見えなかったけど」
「うん。それが続いて、やめたの。今はバス」
「もう着いてこないのか?」
「うーん。自分で運転してるのと感覚が違うからかな、分からないね」
どんなバイクにどんな人が乗っていたかも分からない、と結愛は続けた。
ウインカーを点けるタイミングや車線の移動が、どうも自分と合わせているように思う。そういう不審なヘッドライトがミラーに映るのだと。
「夜だけか。職場とか家の周りには?」
「会社の駐輪場に駐めてたんだけど、微妙に動いてるかもってことは何回もあったの。他に利用する人が、スペースを空けるのにかもしれないけど」
「それはまあ、うん」
「あと、シートが冷たくないとか」
遠慮するなと俺が勝手に注文した、ドリンクバーのグラスを結愛は両手でしっかりと支える。その烏龍茶が細い喉を大きめに鳴らした。息を呑む代わりに、だったのかもしれない。
「シート?」
「スクーターの座るところ。駐輪場に屋根はあるけど外だから、冬は凍ったみたいに冷たくなるの。だけどときどき、全然冷たくないことがあって。たった今まで誰か乗ってたみたいに」
眉間に皺を寄せる結愛。
俺も思わず店内を見回す。大丈夫、細間が居ないのは入店したときにたしかめた。今もこちらへの視線はない。
「そりゃあ、ちょっとアレだな」
気持ち悪いなと言いかけたが、呑み込んだ。傷に塩を塗り込んでどうする。
そんな行為が冬にだけとは考えにくい。結愛の尻を乗せた座席に、その何者かのどこが乗っていたのだろう。
「ほかにも?」
「家の郵便受けが開く音とか。夜、寝る時間に」
怪談を聴くような寒気が背を奔る。
牧添家の郵便受けは、たしか表札のすぐ隣へあった。塀に埋め込む恰好で、敷地へ踏み入らねば開けることができない。
「足音なんかは分からないよな。砂利でも敷いとくか」
「ああ、そうすればいいんだね。うん足音は聴こえなかったよ。窓の外側に手形があったりしたくらいで」
「ガラスに?」
玄関の明かり採り、風呂場。それに掃き出し窓が一箇所ずつ。結愛の家の、道路側から見える窓ガラスを思い浮かべる。
「なんだか凄くベトベトしてた」
何度かあったそうだが、いずれも気づいてすぐに拭き取ったらしい。
しかし浮き出ていないだけで、残ったものもあるかもしれない。明日にでも指紋の検出を試してみることにした。
「バス停から家までは? 五十メートルくらいだよな」
「それもね、一旦降りてから変だなって感じて、運転手さんに言って乗り直したことがあるよ」
「変っていうのは?」
「なんだろう。人影が見えたとかじゃないんだけど、誰か居るって思えて」
捜査一課でも、いわゆる強姦のような犯罪は別に担当がある。ゆえに俺は深く関わったことがなかった。
しかし生活安全課と話していると、結愛の言ったような供述をよく伝え聴く。
「曖昧でごめんね」
謝らせるような顔を俺はしていたのか? 真剣に考えながら聴いていたつもりだが、言っても詮ない。
「そんなことない。毎日毎日、行く先や帰る先のなにもかもを、人に説明できるほど繊細に見てる人なんか居ない」
結愛はなにか答えようとしたろうか。タイミング悪く彼女のピザを店員が運び、さも忙しげに次のテーブルへ向かう。
「今ここで、俺が被害届を受けたっていい。なにをされたか調べて、証拠を集めるのは
結愛の気にしたあれこれを。窓ガラスの手形でさえ、気のせいと言うことはできる。しかしだからと、なにか起きている証拠がないからと、被害届を受理してならぬという法令はない。
身も蓋もないことを言うなら、彼女が相談をした交番の警察官がハズレだったのだ。何千人も勤める中に、やはりそういう存在は混じる。
「むしろそのほうが、正式に人数を動かすこともできるし」
誓って、結愛に強制するつもりはないけれど。
「──うん、ごめん。今のは忘れてもらえるとありがたい」
いつの間にか、ピザの細切れが量産されていた。彼女は自分の手もとも見ず、ピザカッターを動かし続ける。
ためらいながら、結愛の手を押さえた。上からそっと、動きを止めるのに必要なだけの力で。
細切れは取り皿へ移し、さらに俺の口へ流し込む。たぶん最近では最高にうまく笑って見せた。
「久しぶりに食べたけど、うまいよ」
やっと。結愛は頷き、ひと口大の扇型を作りにかかった。くるくると巻き、ピタサンドのようにしたのを二つ。
一つは自身の口へ。もう一つを俺に差し出した。
良かった。ほっとした息を、ごまかす暇もなく受け取る。
「嫌なこと言って、ついでみたいで悪いけど。もう一つ、どうしても訊いとかないと」
重そうに顎を動かしながら、結愛の眼が俺を見つめる。なにをか見透かされているような、哀しげな瞳の語ることが読みきれない。
「大丈夫。私のためって分かるから」
ピザを飲み込み、深く息をして。結愛は首を縦に振る。次になにを言われるか、おそらく察してもいるはずだ。
「結愛のお父さんとお母さんは、今どこに?」
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