第15話:はなすべき相手(8)

 午後八時四分。足りない酸素を求める、俺の呼吸がうるさい。

 門柱にある牧添の表札の下、カメラ付きのインターホンを押した。回線が目を覚ました独特の静寂の奥へ耳をすます。あちらで通話の操作をしなければ、なにが伝わるはずもないのに。


「はやく」


 イライラと足を踏みつつ、続く沈黙を急かす。腕時計を見る余裕もなく、カメラのレンズを睨んで。


「はい」

「結愛!」


 到着してから、まだ通行車のない通り。暗い曇天から漆黒の夜へ移った空が、俺の叫び声を吸い込んだ。


「時間、言ったとおりだね。入ってきて」


 咄嗟に口を押さえたが、結愛の声は電話と同じ。ほんの少し、声量が増したかもとは自惚れか。

 門柱があっても、門扉はない。レンガタイルのポーチを小さな歩幅で四歩。木目調の玄関扉を前に待てば、スリッパの足音が聴こえた。

 植木の一本もない庭と、車も自転車もない駐車スペースに目を走らす。囲んだ低い塀の内側へ、人間の隠れられる場所はなかった。


「ごめんね、まだ支度ができてなくて。上がって待ってもらってもいい?」


 初めて見る、デニムパンツの結愛が扉を開けた。タイル調の、半帖ほどのたたきへ置いた素足がサッと戻っていく。笑顔とまででないものの、優しい眼が俺を映した。


 男の俺にはどこで売っているかも分からない、よく女の子が着ているふわっとしたシャツ。その辺でちょっと食べるだけだから、それでいいのに。この上なんの支度が要るのだろう。

 などと考えられるくらい、いつの間にか酸素が足りていた。


 出してもらった真白いスリッパをめがけ、框を跨ぐ。ここから先は未知の領域だった。

 電球色の照明が、廊下の艶を映えさせる。結愛の香りそのままのような、石鹸めいた仄かな匂いが心地いい。


「ごめんね。私だけだから、大した買い置きとかなくて」


 案内されたダイニングで、結愛は金縁のカップを出してくれた。ティーバッグの紅茶だが、十分すぎる。それから「ええと」と考えつつ、彼女は二階への階段を上った。


 四人掛けのテーブル。四百リットルクラスの冷蔵庫。たくさんの食器を収めた水屋。きっと家族で暮らしたときのまま、なにも変わっていない。


 キッチンの照明カバーが茶色っぽくなっていたり、壁紙の端が少し捲れていたり。この家の経た年月は、ところどころに感じられた。

 しかしどこにも、埃の一つも見えない。椅子の背もたれのつけ根でさえ、たった今拭いたかに掃除が行き届いている。

 ──待っているんだろうな。とは俺の勝手な想像だ。


「お待たせしました」


 紅茶を半分飲んだころ、結愛が戻ってきた。透けた上着を羽織ったくらいで、さっきと違うところは分からない。

 彼女が必要とした時間に、差し挟む異論はないけれど。


「ええと、お腹の具合いは? ぺこぺこ?」

「ごめんね」


 そぐわない返事に首を傾げた。肩掛けのバッグを握った結愛の、視線が俺の足下へ落ちる。


「え? あ、お腹減ってなかった? それとも体調悪いとか」

「ううん、そうじゃなくて。悪いなって」

「えっ。ごめん、なにが悪かった?」


 予測した答えは間違っていたらしい。仕方なく解答の開示を求めた。


「ずっと連絡もしなかったのに。利用して」

「ええ? そんなの気にしなくていいよ。なんていうか、俺に言われてもって感じだろうけど。頼ってくれてるんなら、嬉しいから」


 声なく頷いたものの、結愛は立ち尽くした。

 どうしよう。完全にタイミングを逸した、座ったままの腰をようやく上げる。そっと背中でもさすろうと伸ばしかけた手を、慌てて引っ込める。

 いくつもの意味で、平静に考えること叶わない。


「結愛。その、俺、すぐに解決してやるとか言えるほど凄い奴じゃなくて。でもどうにか、なんとかしたいって思ってる。利用ってくらい、いくらでも使ってくれって」


 言葉を詰まらせながら、正直な気持ちを並べた。見返りなど求めていない、これは罪滅ぼしなのだとだけ声にせず。


「うん、ありがと。伝わった。頼らせてもらうね」


 言いつつ、少しずつ、結愛の顔が俺に向く。最後にはぎこちなく口角を上げ、微笑みを作ってまで。

 ぎゅっと強く、堪えて握った拳が痛い。


「──この近くでなにかあったの?」


 午後八時十九分。車へ乗り込み、百メートルくらいで結愛は問う。助手席に据えられた無線やらの機器を、おそるおそるの指先で触れて。


「いや?」

「最後の報告が残ってるって。でも近くに居たっぽいから」

「ああ、なるほど。でも近くないよ、どこまで足を伸ばせば捜査が進むか悩んでたくらい」

「大変だね」


 二、三度つんつんとしただけで、結愛の手は脚の上に落ち着いた。運転するのは私、というくらいに前方を見据えて首肯する。


「でも、それでうちの辺りへも来たんだね。さっき、一人で住んでるって言っても驚かなかったもんね」

「あ……いや、違うよ。けっこう前に、誰からだったかな、風の噂みたいに聴いたんだ」


 嘘を吐いた。彼女の言うのが正解で、近所の何人もから聞き及んだ。監禁事件から一ヶ月も経たぬうち、牧添家の親は夜逃げ同然に姿を消したと。

 すぐ近くへ細間が居るかもしれない。それに気づいているかも知らぬまま、不用意な発言をしたくなかった。


「そうなの? うん、どっちでもいいんだけど。賀屋ちゃんの言ってたとおり、気遣ってくれてるんだなって」


 視界の端にちらり。街路灯の撥ねる、艶めいた瞳がこちらを向いた。平静でいられない理由を一つ増やされ、気づかぬふりを決め込む。

 結愛が食べたいと言った、パスタをメインとしたファミリーレストランまでは三十分ほどかかる。

 

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