第14話:はなすべき相手(7)
「あの……」
鼓膜を震わす声はか細く、しかし俺の脳を揺らすような衝撃を与える。
「ゆ、結愛?」
「うん。その、あの」
「なにか──いや、この前のことか? 喫茶店の」
「そ、そうだね。私、せっかく来てもらったのに酷かった」
ただでさえ小さな声が消え入る。
「酷くないって! 怖い思いしてるんだろ? そういうとき、みんな落ち着かなくなるもんだ。俺が訊いたのも、相談したいことがあるんだよなってことで」
犯罪に遭って怯える被害者へ、捲したてるのはまずい。警察官なら誰もが知るイロハがどこかへ行っていた。
「ありがと、優しいね。賀屋ちゃんに言われて、何回も連絡しようと思ったんだけど。なんて言っていいか分からなくて」
だが結愛は、深呼吸みたいな深い息を挟みながらも、普段の声量で答えてくれた。
おかげで、急ブレーキがかかったように思う。俺の焦燥感にだ。
「今ってことは、今なにかヤバいのか」
「ううん、今は大丈夫。今日は仕事も早く終わってなんとなく、なんて言ったら失礼だったね」
「いいよ、いい。なんとなくで。なにもないならそれで」
今にもクスッと笑ってくれそうな、吐息混じりの声。最後に聴こえるのは笑声でなく、小さなため息。
「あ。調子に乗って喋っちゃったけど、電話して大丈夫だった?」
「あー、うん。少しなら」
「そか。忙しそうだね」
「そうでもない。今日はもう、電話で報告だけして終わりだったから。そのあとなら、いくらでも」
進展がなかったなら、電話でなくとも良かった。今日に限って、と狩野モータースの看板を睨むが、あちらはなにも悪くない。
「じゃあ、またあとで話せる?」
「話せる話せる。というか、たまたま東松川に来てて、そっちのほうまで行ったっていい。晩飯まだなら奢るし」
怖いのとは別に、結愛も寂しいはずだ。俺と別れたから、なんて自惚れでもなく。まあそれを言いわけに、会おうとする卑劣は認める。
「そうなんだ」
静かに答えて、なにか考える気配。これは急かさず「うん」とだけで待つ。
付き合っていたときなら、「うわあ、凄い偶然」などとはしゃいでくれただろう。俺ではなくて賀屋や茂部だったとしても、もっと喜んだはず。
ストーカーが怖いから? あのとき俺が役に立たなかったからか? いまだ細間への恐怖が消えないのか?
問いたい気持ちを押し潰す。
「じゃあ悪いけど、来てもらってもいい?」
「いいよ。八時ころになるかもしれないけど」
「うん、家で待ってる」
通話を終えたスマホを、拝むように額へ当てた。全力疾走したみたいに息がきれて、何十秒かはなにも考えられなかった。
だが、早く報告を終えて結愛のところへ行かなければ。フッと強く息を吐いてから、素早かった。
「先輩、被害者を見つけたかもしれません」
電話の向こうの係長は、「犯人を捕まえられる話って言ったろうが」と混ぜ返す。たぶん成果のない俺が、被害者は俺などと冗談を言うと考えている。
「名前は不破
無視して、淡々と事実を並べる。
「おいマジか」
バサバサと紙を放り、ボールペンを殴り書く長机の悲鳴が聴こえた。
「日曜日の定休明けの月曜日から出勤していないそうです。もとからそういう方針のようで、無断で休んでもさほど気にしなかったとか」
社長と、事務担当である社長の妻の名前、連絡先も伝えた。先輩は「よくやりやがったぜ。鑑識と話して、こっちから連絡してみるわ」と、ホクホク顔が目に浮かぶようだ。
午後七時四十四分。結愛のところへは、予告どおりになりそうだ。喉が渇いたけれど、彼女と食事をしながらがいい。
狩野モータースの斜向かい。俺の右手正面、道路を渡った反対へコンビニが目に入った。
雨をくぐり抜けた先、暗い空に浮かび上がる涼しげな白い照明。プレミアムコーヒーとかフローズンドリンクとか、けしからん幟旗。
でも、結愛が優先に決まっている。誘惑に圧勝を収め、視線を進行方向へ。
「お……」
厭なものが見えた。俺の探し求める、大嫌いなもの。
「細間!」
コンビニのイートイン。透明なガラス越し、木のテーブルとスツールに奴は居た。
中央分離帯のある、片側一車線の道路。彼我の距離は十メートル強。すぐに車を降りようとしたが、通行車両が地味に途切れない。
ほんの三十メートル先へ分離帯の切れ目があった。エンジンをかけ、アクセルを踏み込み、交通課の面々に謝らねばならぬUターンを行う。
一つ空いた駐車枠へ頭から突っ込み、鍵だけ抜いて店内へ走った。
「くそっ──!」
居ない。店内を駆け足で回り、不審がる店員に警察手帳を見せ、「今そこに居た奴は」と。
「え。普通に出ていかれたと思いますけど」
敬語っぽいのが癪に障る。
いや、この学生らしい店員には関係ないことだ。騒がしくした謝罪を述べ、店の外を見回す。
敷地の脇へ、小さな路地。入っていくと、古い住宅街が広がっていた。
無論、なのだろう。どこにも細間の姿はない。
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