第12話:はなすべき相手(5)
「ですから、指紋を潰すのが目的じゃなくて。手に染みついた汚れを落としたかったんじゃないですかね」
「はあ?」
寄依警察署、強行犯係の係長は声を裏返らせた。遺体の指先からアルカリ性の反応があったことと、すぐには結びつかなかったらしい。
「聞き込み、セオリーの同心円でやってますよね。それとは別に車関係とか、素手に油汚れの付くところを回ったほうがいい気がします」
どんな重大事件が起ころうと、一件に注げる
「いや、山ん中は回ってないから半円だな」
「今はそういうのいいです。人が回せないなら、俺だけでやりますよ」
「おっ、冷たい系のツッコみもキレがあるな」
「違いますから」
イラッとするより、噴き出すほうが先になった。事務所を出たと言え、ガラス越しの店員たちの目が気になる。
さっさと車へ乗り込み、「あせるなよ、リストアップさせるから」を聴いて通話を終えたのが午後〇時九分。
挙がった中へ、細間が勤めていたら。考えようとせずとも、同僚殺しの筋書きが頭へ浮かぶ。
決めつけるな、先入観が目を曇らせる。達先警部補の怒鳴り声が聴こえた気がして、
けれど。こういうことかも、という推測なしでは捜査にならない。
細間だとして、なぜ男性を殺す必要がある。また女性を監禁しようとして、その恋人と争いになったとか?
腕力のあるほうには見えないが、まあ行きがかりで相手が死んだとする。しかしそれで、なぜ汚れを落とそうとしたか。
職業が判明しないと、身元が割れないと思った?
そんなバカな。日本の科学捜査はときに過大評価こそされど、そこまで舐められることもないはず。
だとするとなぜ。
アルカリ性は油を分解すると考えたけれど、ほかにあるのかもしれない。
「すみません先輩。さっきはあせって、油汚れと限定しちゃいましたけど。違う薬品なんかかもしれません。そこでしか使ってないような特殊なやつとか」
急いで訂正の電話をかける。先輩の係長は「わははは」と豪快に笑った。
「当たり前だ。知らないと思うけどな、俺はお前の先輩なんだぜ?」
「──でした」
「失礼な奴だ、わはは」
俺の七歳ほど上だったか。なぜこの人に彼女ができないのか不思議に思う。
水曜日のうちにリストは作成され、翌日には通常の聞き込みとは別の隊が動き始めた。
車両系の販売店や板金、整備工場、鉄工場にガソリンスタンド。化学薬品の製造、販売、使用をする工場や店舗。一部、食品系の名前も見えた。
A四用紙に文庫本より小さな文字で、五十枚以上の束。これを網羅するには、当然に何日もかかる。
「結局っつーか、やっぱりっつーか。当たらねえな」
金曜日の午前七時四十一分、途中報告と相談のために登庁した県警本部。捜査一課のいつものデスクで、達先警部補は大きなあくびをする。
当たらない、と見つめる紙束は聞き込みのリストではなかった。
「ええ。家出を含めた捜索願にも」
歯科医師会へ依頼した、歯の検診や治療の記録と対照した結果。警察と検察で保管する指紋やDNAとの対照結果。
いずれも該当者なしとあった。
「まあ治療痕でなく、治療しなかった痕と言ったほうが正確だったみたいで」
治療をしなかったのでなく、治療をした銀歯が外れて再治療を怠けた可能性もある。どちらにしても対照が難しい。
「だな、シンナーでもやってんのかってくらいガチャガチャだった。いまどき流行らねえけど」
「トルエン反応はないみたいですよ」
「だから流行らねえって、まして二十代で」
司法解剖の結果も別に届いていた。日本人男性、二十代の身体。死亡する七、八時間前にカップラーメンを食べ、直前にスナック菓子。
当日の飲酒はなし。特段の病歴も認められないが、糖分過多で高脂血症ぎみ。
達先警部補に倣っていまどきと言うなら、まったく珍しくないタイプだ。
「死亡日は、発見の十四日から十六日前ころ。もう二十日にもなろうかって、周りの人は気づかないんですかねえ」
「気づかれないような場所で生きてたんだろうさ、一人暮らしのニートってのも多いしな。まああと、それくらいじゃ騒がれないくらいに適当な職場とかか」
警部補の手が、紙束をデスクに放り投げた。別の事件の資料と混ざらないか危ぶむが、手を出しては叱られる。
「風俗、パチンコ、個人商店」
代わりに指折り、ありがちな業種を数えた。
ほかには、なんだろう。すぐに思いつかなかった四本目を、達先警部補が自分の指を折って見せる。残る小指が、俺の握る聞き込みリストを弾いた。
「三ちゃん経営の町工場」
「ああ──」
「東松川はお前が回ってんだろ? 当たりそうなのか」
俺が頼んだわけでなく、遺棄現場から直線で二十キロ以上の東松川市もリストにある。木曜日の丸一日を費やしても、まだまだ残っていた。
なにやら後ろめたい風に吹かれ、「さあ、どうでしょう」と声が窄まる。
「どうせ誰かがやるんだ、心置きなくやれよ。思い込みと決めつけは御法度だが、ツンと臭った勘どころってのは信用しなきゃな」
「あ、ありがとうございます」
とても大きな太鼓判を貰った心持ち。現金に声弾ます若造を、警部補はニヤリ笑う。
「あの、それと」
「ん?」
もう一つ、結愛のことを相談したかった。喫茶店からこちら、まだ連絡をとっていない。無事というだけは賀屋から聴くものの、なんとかするという大風呂敷がなんともなっていなかった。
「いえ、先輩が捜査本部に居るんですよ。寄依署に異動になってたみたいで」
「知ってるに決まってんだろ」
「あっ、そうか。ですよね」
言えなかった。当人が警察を敵視しているのに、どうも言いようがない。そもそも、ストーカーらしいと賀屋から聴いただけで、詳しい状況も分からないのだ。
「なにかあるなら言えよ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の悔いだ」
「うん、そうですね。ええと、そう、詳しいことが分かったら相談させてください」
「おう、いつでも来いや」
捜査一課を出て、階段を下る。なにをしているのか、自己嫌悪に陥りながら。
躊躇している暇はない。なにもないうちに対処しなければ、
「今日」
聞き込みを終えたら、本人に連絡しよう。近くへ行くのだから、直接でもいい。
誓って、東松川市へ向かう。
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