第11話:はなすべき相手(4)
翌日、水曜日の午前七時十分。寄依署へ入ると制服の女性が元気良く挨拶をしてくれた。
「おそれいります、おはようございます。一課の中洲川といいます」
「ああ、捜査本部の! ジュースいただきました、ごちそうさまです!」
ゆうべ、あれから戻ったときには見なかったが、当直明けらしい。白組紐が見えないので、きっと刑事課か生活安全課だ。最近は所轄署でも女性の刑事が珍しくなくなった。
どうしたって腕力では不安があるのに、怖くないのだろうか。見かけるたびに頭をよぎるが、今回も「いえいえ」としか答えなかった。
講堂への階段を上りつつ、さっきの刑事の帰宅を思い浮かべた。どこの官舎か知らないが、途中どこかで必ずひと目につかない場所はある。
五年前の細間は細身だったけれど、上背は俺と同じくらい。あの女性刑事だと、十センチ以上の差になるはず。
柔道か剣道を習っていても、根本的な腕力を覆すには強化選手くらいでなければ無理だ。
恨まれることも多いのに、どうやって気持ちを保っているのだろう。もし機会が作れれば、いっそ訊いてみよう。
最後には結愛を思い浮かべ、講堂へ入った。
「お、中洲川! ちょうどいい、頼まれろや」
午前七時十三分。腕時計を見る俺を、誰かが呼んだ。着々と書類の増え続ける長机越し、立ち上がった顔を俺は知っていた。
「あれ。こっちに異動されてたんですか」
「気づいとらんかったか、俺ぁ頭と影が薄いからな。見てのとおり
「そんなことないですって。毎回、何百人も動くんですから」
俺が捜査一課へ異動したとき、同僚の恰好になった巡査部長。一年後に昇任して異動したが、それは大宮署だった。
毎度なにかしら責める口調で俺をかまってくれるが、それを合コンの席でもやるらしいのは止めたほうがいいかもしれない。
「わはは、ビビるな冗談だ。それでな、まあまあタレコミがあるんだが、聞き取りの人数が足らん」
「えっ。目撃があったんですか」
「いや、今のとこはゼロだな。もしかしたらっていうのばかりで」
係長の手が、捜査進捗の資料と聞き込み先のリストを押しつける。蛍光ペンで線を引いたところへ行けというようだ。
三箇所。一つを一時間で終えても三時間。よく知る先輩というのを除いても、当然に断る理由はない。
「了解です」
「犯人をとっ捕まえられる話、持って帰れよ。必ず」
「そんな無茶な」
俺のツッコみを期待したボケ。その裏に、嘘から出た真を願ってもいるはずだが。
だから俺は、この人の冗談が好きだ。
最初に向かったのは群馬との県境に近い、現場から八キロ先のコンビニエンスストア。電話をすると、ちょうど店長さんが居たからだ。
だが「人の入りそうな鞄を荷台へ載せた軽トラが居たのを思い出して」という通報の正体は、正真正銘ただのスーツケースだった。
防犯カメラの映像をどれだけ見ても、小柄な女性か子ども、バラバラ死体なら入るかもしれない。けれども今回はそうでない。
「でも変でしょ。普通、こういう鞄を荷台になんか載せないでしょ。しかも夜に」
「そうですねえ。車両番号も分かりますし、調べてみることにします」
一応は調書を取ったし、捜査本部へ提出する。そのあとは先輩であるところの係長や刑事課長の考えることだ。
二件目は畑の草を焼く中へ、勝手に衣服を入れられていたと。コンビニの隣町だが、少し期待はあった。
けれども残っていたのは、明らかに女性もの。一件目と同様に持ち帰ってみるが、おそらく関係ない。
三件目のガソリンスタンドを訪れたのは、午前十一時二十三分。現場へ向かう最後の交差点にあって、遺体発見の九日前に死体らしきものを見たとなっていた。
店長の出勤が十時になるというので最後に回したが、期待して良いのか首をひねる。
捜査資料にある、提出を受けた防犯カメラの映像リストに載っていたからだ。もちろん初日で、当然にそれ以外の心当たりも訊ねたはず。
「半年前に辞めた子が遊びに来て、窓拭きなんかを手伝ってたらしいんですよ。そのときに後部席へ毛布に包まった人間みたいなのがあったってね。ゆうべ、また来たときに聴いたもんで」
危険物の取り扱い所が部外者に仕事をさせるなよ、とは言わないでおいた。窓拭きだけなら、法令には触れない。
出勤した店長は、目撃者という男の子も連れてきたと言った。なるほど制服でない彼かと目で追う。
高校を卒業して、店長の知人の中古車店へ就職したらしい。慣れた様子でピンク色の洗剤をこすりつけ、手を洗った。そんな物を使わなくとも、もとから綺麗な手に見えたが。
「なんで人間だと思った? 一部でも見えたとか」
「そのときは死体なんて思わないから、そこまでよく見てないっすよ。だけど荷物に毛布かぶせたのと人間がかぶってるのは違うっしょ?」
男の子が言うには、後部座席へ右肩を下にして横たわって見えた。頭や肩の形が人間としか思えなかったと。
「あれが人間じゃなかったら、わざとそういう形にしたってことっしょ。それこそなんのためにするのか分かんないっすよ、変じゃないっすか」
「だねえ。防犯カメラと照らし合わせて、車の持ち主に訊いてみるよ」
彼の言い分には一考の価値がある。そうでなくとも事実をたしかめることはするはずだが、たぶん違うと予測も立った。
本当に死体なら、人間と分かるようにしない。乗せたまま、セルフでもないガソリンスタンドに立ち寄らない。
どうやら空振りか。捜査とはこういうもので、サービスでコーヒーを出してもらえただけ得をした。
カップに残った半分を飲んでいると、ツナギを油で汚した店員が事務所へ入ってきた。
「休憩入りまーす」
午後〇時四分。こちらの用も終わり、昼飯どきを邪魔するのは心苦しい。そそくさと立ち上がる俺に、ツナギの店員は「あっ大丈夫ですよ」と気遣いをくれる。
窓拭きの彼と同じく、ピンクの洗剤で手を洗い始める。今度は真っ黒に染まった粉が落ち、流した水もコーヒー色だ。
「それ、整備士さんとかよく使ってますよね。やっぱりそういう専用のでないと落ちないんですか」
単に興味本位で問う。車を扱う整備工場などでは、ほぼ必ず見かけるもの。効果があるから使っているに決まっている。
「いやあ、これでも完全には落ちないですね。綺麗にしたかったらアルコール入りのとかあるんですけど、手がガサガサになっちゃうんで」
俺と同年代に見える店員は、気安げに笑って振り返った。水をポタポタ垂らしながら広げた手へ、たしかに黒い汚れが残っている。
指紋の皺に入ってしまうと、なかなか取れないのは想像に易い。場合によっては皮膚へ色が染みることもあるかもしれない。
「あ……」
もしかして。
あたふたと、警察電話の携帯端末を取り出した。ふと浮かんだ仮説を、先輩の係長へ伝えるために。
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