第10話:はなすべき相手(3)
「なんでって言われると、俺が悪いとしか言えないけど」
「あんたが?」
怒気の篭もった賀屋の声。分かるが、「順番に言うよ」としか応じられない。
「二年の最初に、同棲しようって結愛のほうから言ってきた。けど、はっきり結論を言わないままにした」
賀屋の首が傾げられ、途中で反対へも傾げた。初耳らしい。
「なんで? ほかに遊び相手が居たとか」
「居ない居ない。いつか結婚するんだろうなって思ってた」
「じゃあ」
重ねられた問いに「うん」と応じ、勝手に保留にした。どうすれば良かったのか、
「どうも着いてくる奴が居るって、結愛が交番へ行ったとき。物を壊されたとか、手紙とか、形に残るものがなかったんだよ。だから説明の最後、『気がする』って言うしかなかったみたいで」
「そういうとき、遠慮もしそうだし」
強く鼻息を噴き、お冷やを口へ運ぶ賀屋がスモークガラスに映る。そのガラス越しに見る夜の街は、黄や赤の目立つ色だけが際立ち、一つずつの建物の形を曖昧にした。
それなり、そこらを歩く人たちもあるはずだが、ぼやけた黒い塊にしか見えなかった。
「警察が動いてくれないなら、引っ越すのが一番だ。分かってたけど、言えなかった。二年の最初、うやむやにしたから」
「ええ? そんなこと言ってる場合じゃなかったでしょ」
容赦ない圧が賀屋の声と眼に加わる。
躱すことはしなかった。苦笑めいて、口もとを歪ませてしまったけれど。
「もちろん、そのときも気づいてたと思う。曖昧な言いかたになるけど、今となっては自信がない。たぶん俺は結愛と、誰かと一緒に居るって意味を分かってなかった」
賀屋の握るグラスが、小さく高い悲鳴を上げた。同時に口も開かれたけれど、声は出てこない。
「いつか、結婚すると思ってた。でも二年の最初の、あのときには決められなかった」
「それ、結愛にも言ったの?」
「言ってない」
それなら別れた原因そのものではない。賀屋の睨む眼が、早く言えと急かす。
「毎日、結愛は俺に連絡してくれてた。居酒屋のバイトが終わったとか、もう寝るとか。でもあの日は連絡がなくて、結愛の家に行ったりしたけど、帰ってこなかった。帰る途中の結愛を、細間が拐ったから」
「それは知ってる」
「うん、それで。一週間経って、細間が──犯人が買い物に出た隙に結愛は逃げ出した。拐われたときの服だったし、
記憶をなぞると、数日前のできごとみたいに胸が苦しくなる。それでいて、頭が痛くなる。思い出すのを拒否するように。
「普通は親だけなんだけど、結愛がどうしてもって言ったんだって」
「へえ」
「行ったら、本人と会う前に状況を理解してくれって言われて。結愛の両親と俺と、女性の刑事から説明された」
また、抑揚を失った「へえ」を口に出し、賀屋は下唇を噛む。
「六畳一間のアパート。結愛はずっと、細間と顔を突き合わせ続けられたらしい。結愛のお母さんが『それだけじゃないんでしょう』って訊いて、それだけですって答えられた。病院で検査もしたけど、間違いないって」
わなわなと震えた賀屋の唇が、細く強く深呼吸をした。
対して俺は、どんな顔をしているだろう。乾いた泥人形みたいにカクカクと顎がぎこちなく、今にも崩れ落ちそうな心持ちがする。
「それで先に、ご両親が結愛と会った。扉が閉まって聞き取れなかったけど、お母さんが泣き続けてた」
「そりゃあ、ね」
賀屋も頭痛がするのか、額や目の周りを撫でる。俺は両手を膝に置き、死刑執行を待つ覚悟をした。
「二十分くらいだったかな。部屋から出てきて、結愛のお父さんに頼まれた。『家まで連れて帰ってくれ』って。結愛がそうしたいって言ったみたいで」
「うん」
「だから警察署は四人で出たけど、結愛は俺と二人でタクシーに乗った。十分ちょっとの帰り道、なにを言えばいいか悩んだ。それとも黙ってたほうがいいのかって」
あるいは賀屋なら、あっさり正解を教えてくれるかも。今、虫のいい期待があったのは否定しない。
しかし「そんなの」と消え入った続きが聴こえることはなかった。
「ほんと、人生で一番ってくらい考えた。結愛が聴きたい言葉はなにか、どうしたら笑えるか」
「実際、どんなだったの。お母さんが泣いてたのは分かったけど」
「ああ、それを言ってなかったね。俺と顔を合わせて最初、結愛は『怖かった』って言った。『今も怖い』って泣いて、女性の刑事にハンカチをもらった」
だから笑わせたいと思ったのだ。もちろんその場ですぐにでなく、なるべく早く笑えるにはどうしたらいいかと。
「タクシーで、もうなにを考えたか分からないくらい考えた。でも黙ったままでもいられなくて、まったく関係ない世間話みたいなのがいいかと思った」
「うぅん、分かんないけど。そうなのかも」
「うん、それで。『なにかあった?』って俺は訊いた」
どうしてその選択になったか。無責任と言われて当然だが、分からないとしか言いようがない。
正面に座る結愛の友人は、眼を瞬かせた。耳の穴をゴシゴシとした指で、眼もこする。
「はあ?」
「分かってる。あのときも結愛が『言いたくない』って答えて、やらかしたってすぐに気づいた」
タクシーの座席で、床を見つめたままになった結愛。謝罪の言葉を数えきれず並べたが、彼女は二度と答えなかった。
「そういえば、あんた
そのとおり、話題のないときのワイルドカードみたいなものだ。口癖になっていて、と言い重ねても罪は減じられないが。
「それから、お互いに連絡することがなかった。許してもらう方法があったかもしれないけど、俺にはできなかった」
「理解した。うちのゼミで、一番頭悪いのが誰か」
眉間を揉みしだき、賀屋は鼻で笑う。
「ああ、それでか。やけにあんた、気ぃ遣うようになってたよね。教授にとか、あたしにお肉取ってくれたり」
「うん、まあ」
浅い。我ながら恥ずかしいくらいの浅慮を見透かされ、冷めきったコーヒーを飲み干す。
「なにも反省しないよりはマシだけどね。それに、あたしも同じ」
「賀屋が?」
「あの子が来なくなっても、連絡しなかったもん。最初の同窓会の出欠を訊くときまで」
同じなものか。否定しても、賀屋は応じなかった。代わりに店員を呼び、「あんたの奢り」とフルーツパフェを注文した。
「だから。結愛が嫌でなかったら、嫌だとしても、今回は俺がどうにかしてやりたい。また俺を好きになってもらおうとか、そんなのじゃなく」
運ばれたパフェを掻きこむ賀屋に、脈絡のない告白を試みる。頭ごなしに否定されるのも予想にあったが、意外にも意外な返答を聴いた。
「いい方法があるならね。あの子が危ない目に遭うよりはマシだし」
俺はよほど驚いた顔をしたらしい。賀屋は続けてこう言った。
「一度の間違いでなにもかもダメになるって、よく聞くけどあたしは嫌いなの。だけど間違えた分のハンデは抱えなよ」
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