第9話:はなすべき相手(2)
グレーのベストに黒いスカート。スーツというより、いわゆる事務服。つまり今日も仕事を終えて、結愛はここへ来たようだ。
おつかれさま、か。久しぶり、か。いやそれより、どうして騙し討ちのごとく俺は呼ばれたのか。
なにをか言おうと口を開きかけ、そのたびに閉じる。
最初の声から、結愛もなにも言わなかった。俯いて、表情さえ見えない。
彼女も驚いていた気がする。となるとこれは、賀屋の策略だろうか。
「ええと、二人とも。なんか『やあ』とか、それくらい言わなくて大丈夫そう?」
お前が言うなという話ではあった。けれども責めたところで益がない。
「ひ、久しぶり。仕事帰り? おつかれさま」
どうにか、ひっくり返る半歩手前の声をひねり出した。結愛も応じて、頭を縦に揺すってくれる。俯いたまま。
「実はさ、あたしも聞いて十日くらいになるかな。結愛から相談されてたの。でも気休め言うしかできなくて、あとはお巡りさんに言えってくらいで」
埒が明かないと思ったのか、核心のような前置きを賀屋はいきなり口にした。
友人では助力できず、相談するなら警察。そう聞いて、浮かぶのは細間の顔以外にない。
「──俺がなんとかする」
「えっ。頼もしいけど、どうにかできるもの?」
大学時代の俺なら、ここまで断言しなかった。力になれることがあるならなどと、ふんわりしたことを言ったはずだ。
もちろん賀屋も、予想以上の返答だったろう。驚いた声で隣の友人を見下ろす。
「ね、こんなにきっぱり言ってくれるよ。話すだけ話してみようよ」
結愛は俯いたきり。心持ち、さっきより深く沈み込んだかもしれない。背中をさする賀屋へも、答える素振りは見えなかった。
「……前のときもさ、門前払いだったんでしょ? だから言ってもしょうがないって。じゃあ今回は中洲川に言おうって、警察官なんだからってあたしが言ったら、それも迷惑になるって」
相談の概要を、ほぼ言ったも同然。細間に監禁される少し前、結愛は誰かに尾行されているかもと近くの交番へ行った。
結果は賀屋の言うように、気のせいで片付けられたらしい。
「どうにかする。考えるから、なにがあったか教えてほしい。考えさせてほしい」
憎しみと言っていい細間への感情を、今は呑み込む。少し笑ってみるという難しい仕事を顔面に課し、曖昧な言葉を排除して言いきる。
すると結愛から、なにやら聞こえた。
「えっ、ごめん。本当にごめん、聞き取れなかった。もう一度言ってくれるか?」
「お仕事忙しいのに……こんなところまで来させてごめんなさい」
かつて聞いたことのないボソボソした声。語尾などはっきりしないが、おそらく間違えず聞いた。
「そんなの全然だって。結愛が困ってるなら、結愛がどうしても嫌じゃないなら、俺にやらせてほしいんだよ」
「そうだよ。中洲川ね、凄い気が利くんだよ。優しいんだよ」
賀屋の加勢がありがたい。根拠は同窓会だけと、きっと結愛にも分かるはずで、言わせた感が申しわけない。
「友達っていうか、仲間っていうか。そういうのが邪魔でなかったら、話してくれないか?」
これは余計だったかも。元カレである事実が、色々な意味で枷になっていないかと思ったのだけど。
賀屋と二人、結愛のつむじを見つめる。そこへ案内してくれた店員の女性が、コーヒーを運んだ。
どこをも見ない視線、無言のおじぎ。存在しなかったように、そそくさと去る。
「……のに」
「えっ?」
「親戚って言ったのに」
「いや、その、うん、ごめん。中洲川に言うのが一番と思って。あんたも気になってたみたいだし」
床へ向けた結愛の声。天を仰ぎ気味の賀屋。無言の時間が、何十秒か。
「ごめんなさい。私のこと、心配してくれてるのに」
勢いよく、結愛が立ち上がる。グラスやカップがカタカタと鳴り、彼女は慌てて押さえつけた。
「それは謝るの、あたしのほうだよ」
「ありがとう。でもごめん」
以前より長くした髪を振り乱し、結愛は賀屋を乗り越えるようにして通路へ出た。そのまま駆けて、出入り口の扉に触れる。が、また戻って財布を取り出し、千円札をテーブルに置く。
「結愛」
名を呼ぶ俺の声が弱々しい。遂に彼女の顔をまともに見ることなく、束の間の再会は終わった。
──結愛が出ていって、しばらく喋れなかった。賀屋と見つめ合うようで、互いに互いを見ていなかった。
コーヒーを飲みきり、賀屋が結愛のお冷やに手を出したころ。ようやく声を発したのは賀屋のほう。
「あのさ。何回か聞こうとしたことはあるんだけど、結局聞けてなくてさ」
「うん?」
「あんたたち、なんで別れたの」
監禁事件がきっかけとは、言うまでもなかった。それを押して問う賀屋に、俺の口は勝手に動き始めた。
言いわけを取ってつけるなら、きっと俺も相談したくなったのだ。
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