第8話:はなすべき相手(1)

 賀屋との対面は、翌日ということになった。今日これからでは遅くなりすぎる。そもそもの相談相手へ、あらためて時間のすり合わせをするとも。

 場所が馬谷市というのには首を捻ったが、あちらの都合が良いというなら異存はない。

 午後八時五十八分。寄依署へ着いたときには、喫茶店らしき店舗の地図が送られていた。


「あれ、中洲川部長」


 すぐ近くのコンビニで買い物をした、レジ袋を二つ。ガサガサさせながら正面入口を入ると、先んじて声をかけられた。警察手帳を出そうと立ち止まり、レジ袋を持ち上げたところだ。


「ん? あっ、お久しぶりです」

「どうもどうも。今日はなにか?」

「中尾平の林道の件で」

「ああ、そうか。そりゃそうですね」


 カウンター内に、当直勤務中の制服姿が三人。一人が腰を上げ、カウンターに手をついて頭を下げた。

 見覚えはある。話しながら記憶を探すと二年前、捜査一課へ配属されて最初の事件で会った。


「ええと、すみません、お名前が──そうだ、園田そのたさん」

「そうですそうです、さすが。でも僕なんかに割いてちゃ、脳みその容量が足らなくなりますよ」


 俺と同年代の彼からすれば、普段の交番勤務とは違う環境へ呼びつけられ、そこに居た本部からの僅かな応援の一人が俺。

 対して、聞き込みなどの人海戦術のために集められた何十人の一人が彼。組んで歩いたというわけでもなかった。

 内心で冷や汗ものだったが、思い出せて良かった。対面した相手に忘れられるのは、悲しすぎる。


 ともあれレジ袋の一つを渡す。何名体制か分からなかったので、適当に六本の飲み物が入っている。園田さんは「ええっ?」と驚いた顔をしながらも、サッと受け取った。


「捜査本部でも、いつもお土産を買って帰ってましたよね。そんなにして大丈夫なんです?」

「いえいえ、好きでやってるっていうか。お世話になってるんで」


 お土産か、観光のつもりはなかった。言葉の綾と理解していても、そう受け取られていたと考えると噴き出した。


「いやあ、サラッと笑って言えるって。あのときも思いましたけど、底抜けにいい人ですよね」

「いやほんと、そんな風に言われても。恥ずかしいだけなんで勘弁してください」


 逃げ腰で、階段の方向へ後退る。奥に座っていた警部の階級章の人まで「悪いねえ」と腰を上げかけて、「じゃ、お邪魔します」と本当に逃げた。


 不要な照明を落とされ、薄暗くなった階段を上る。それぞれの部屋に入りきらなくなったキャビネットやロッカーが廊下を圧迫するのは、古い警察署のあるあるだ。


 職務内容も相まって、独特の雰囲気。と言いたいところだが、たぶん多くの人が似たような空気感に出合っていると思う。

 夜の警察署は、夜の学校とよく似ている。

 まあ刑事課などは照明の消えることがなく、取調室から興奮した某の怒声なども聞こえたり。毎日が学園祭前夜と言うと、叱られるか。


 午後九時六分。三階の講堂から、薄暗い廊下に射す煌々とした明かり。薄いガラスの嵌まった古めかしい木製の両開き戸が、無音で入室することを許してくれなかった。

 およそ五十帖の隅へ、長机がロの字に置かれている。そこへ三人、ほかに五人がてんでに長机を置いて作業中だ。

 中でもロの字の窓側へ腕組みだった人と目が合う。現場で会った、刑事課長。


「おかえり。達ちゃん、すぐには来れないって?」

「あっ、そうなんですか? 私はまだ聞いてなくて」

「うん。でもあとで来るって言ってたから」


 刑事課長は長机に置いたダンボール箱をゴソゴソ探った。取り出した紙と、ズボンのポケットからなにかを握って俺のほうへ。


「これ、官舎の鍵ね。電気もガスも使えるけど、布団はないよ」

「うわあ、丁寧にありがとうございます」


 受け取った紙は、捜査の進捗を示したものだった。一枚目に何千軒かを対象とした聞き込みの地区とか、歯科医師会にデンタルチェックを頼んだとか、項目がリスト化されている。

 二枚目からは被疑者や被害者の立ち寄りそうな場所の一覧。なにやら色付けをした地図などなど、既に膨大となった捜査結果が続いた。

 交換に。まったく釣り合いもしないが、残るレジ袋を渡す。栄養ドリンクが二箱入りの。


「期待してるからさ、頑張ってよ。達ちゃんから密命もらってんでしょ? 自由にさせてやれって」


 言って、刑事課長はレジ袋へ顔を突っ込むように見た。「ありがとねえ」と。


「密命ですか」

「ああ、うん、大丈夫。なんだか知らないけど、達ちゃんの言うことだから」


 二度、音を立てて肩を叩かれた。なにを言うべきか、なにか言うべきか。逡巡した一瞬の間に、「課長」と座っていた別の刑事が呼ぶ。

 地元の店舗や、防犯連絡会の人物名だろう。にわかに議論される商店や個人名を、俺は一つも知らない。


「すみません、お先に」


 誰にも聞こえない声で、誰にともなく頭を下げて講堂を出た。




 昭和中後期築の官舎に、エアコンは常設されていない。入居者が自分で手配するものだ。しかし窓へ網戸はあったし、朝からシャワーも浴びられた。捜査の進捗を読み込み、スマホの充電をするには十分すぎる環境だった。


「密命ってなんですか」


 午前七時二分。警察電話の携帯端末で、捜査一課の達先警部補のデスクを鳴らした。ワンコールで出た声は寝ぼけていたが、気づかぬふりで問う。


「そんなもん、お前が考えることだろうよ」

「だと思いました。念のためです」

「寝て起きたら元気いっぱいか。へっ」


 最後の声は失笑か嘲りか。表面上はどうあれ、あの人なりの「頑張れ」だろう。

 朝日の中。官舎の目の前を塞ぐ寄依署は、いまだ薄暮れて見えた。その表へ回り、覆面パトカーに乗り込む。

 正直なところ、聞き込みのローラー作戦の一員に加えてもらうことを考えていた。けれどもひと晩を明かし、達先警部補の声を聴き、やはり密命・・を果たすことにした。


 まずは、さいたま市の俺の官舎へ。いつもは出先で買う着替えだけれど、今日はついでがある。次に向かうのは川越市の細間の家。本人はもちろん、その周辺の聞き込みは誰も行っていない。

 それから結愛の家の周囲も。結愛の名前を出さずとも、情報を得ることは可能だ。


 ──午後六時五十分。賀屋の指定した、馬谷市の喫茶店前へ立った。ウェブサイト上の画像と、濃いスモークガラスで囲われた外観が一致している。


 疲れた。

 最高気温のニュースとなると常連の、馬谷市だからではなく。一日じゅう、歩き回ったせいでなく。午後から降り始めた雨のせいでもない。

 言ってしまえば、過去の自分のせい。

 だがそれは、賀屋には関係がない。きっと居るはずの、相談をしたいという人にもだ。深呼吸で表情を引き締め、昔ながらという空気に踏み込む。


「おそれいります。待ち合わせをしていまして」


 案内に来てくれた店員の女性に断り、十数テーブルの店内を見回す。しかし「それでしたら」と、女性が手を差し向けたのはすぐ目の前。


「おいす」


 四人掛けの向こう側で、賀屋が手を持ち上げる。「忙しいのに、ありがとね」などと、手前の席へ動いた。

 店員の女性にコーヒーを頼み、空けてもらった席へ腰を下ろす。賀屋の隣の女性には、あまり目を向けないように。


 しかし、それはできなくなった。その女性が目を丸くするのとは無関係に。「えっ」と、俺と同時に同じ音を発して、喉を詰まらせたのもだ。


「結愛……」


 昨日とほぼ同じ恰好の、元恋人が居た。

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