第6話:最初の事件(5)

「さあて、手がかりがないな。こっちの手はどう動かす?」

「あ。手と言えば、被害者の指紋が」

「指紋がどうした。潰されてやしなかったろ」

「ええ。だから刑事課長はじめ、身元隠しじゃないだろうと仰ってましたけど」


 発見者の女性ではないが、指紋から個人を特定できることくらい誰もが知っている。ゆえの予測に、しかし達先警部補は渋い顔を拵えた。


「決めつけるなよ。完全犯罪を気取った大マヌケってのも、世の中にゃ案外と居るんだ」

「ですね、そう思います。ただ、そこじゃなくて。指紋を消そうとした痕はあったみたいなんですよ」

「うん?」

「指先の皮膚が溶かされてたそうです。いえ指紋の採取に影響ない程度ですけど。アルカリ性の反応が僅かに残ってたと」


 警部補はゴソゴソと身を捩った。座席から落とした身体を元へ戻そうというらしい。思いのほかジャストフィットして、結局は一旦降りて乗り直す。


「アルカリ性なあ」

「まだ理科の分野ですよ」

「うるせえ」


 たいていのことに薀蓄うんちくを抱える達先警部補だが、数学だの化学だのといった分野はてんでだった。もちろんそういうために鑑識や科捜研があるのだけれど。


「やっぱり大マヌケですかね」

「さあな、決めようとするな。仏さんが誰だか突き止めて、『ああそうか』ってなるほうが早い」


 言って、警部補は唇を結んだ。助手席の前に据えられた無線や照会機器を睨んで。たった今からなにをすべきか、考えているに違いなかった。

 寄依署に、捜査本部の札はもうあった。だが聞き込みのような人海戦術は始まったばかりで、俺たちは遊撃隊の位置。

 どこへ矛先を向けるか。当てがないと、どうにも一人の男の顔がちらつく。


「細間ってのは」

「えっ?」

「細間だよ。やつは、なんの仕事だったっけな」

「ええと、イマダ電器の店員だったんじゃ? 今は知りません」


 報道では、会社員としか出ていなかった。大学生だった俺が知るはずのない情報。

 なんのことはない、書庫に保管された捜査書類を盗み読んだだけだ。いや盗み読みも俺の気分的なもので、なんら規定違反でもない。


「そういうとこじゃ、アルカリ性の薬品だのを使うもんかな」

「どうでしょう。修理とかの、大きな作業場みたいなところでなら、使うかもですね」

「行ってみるか、瓢箪ひょうたんから駒を出しに」

「了解です」


 すぐ、イマダ電器の本社に問い合わせた。携帯式の警察電話端末があっても、番号を調べるのは自前のスマホが早い。


「それはその、令状などがあるということでしょうか」

「いえいえ。関係があると判明しているわけではなくて、なにか解決のヒントを見つけられないかと。ご協力をお願いしてるわけです」


 こちらの身分と捜査協力を伝えると、最初に電話を取ったオペレーターらしき人から三人を経由した。

 最後に広報の係長と名乗る男性は、三十そこそこと感じる若い声。


「本当に警察の方であれば、もちろんご協力します。なにか証明できますでしょうか」


 電話越しに、どうやって? 逆にどうすれば信用してくれるか、方法を教えてもらいたい。

 こういう反応に当たる確率は、個人相手でも日本最大の家電量販店でも変わらない気がする。


「うーん。とりあえず作業をされる施設の方に会わせていただいて、そこで証明するというのではダメでしょうか」

「──分かりました。ではそれで」


 背後の誰かと相談する気配を挟み、渋々というていで了承をもらった。痛くもない腹を探られるようで、気分の良くないのは理解するが。


 指示されたのは、大宮おおみやにある配送修理センター。そう聞けば誰もが想像するだろう、巨大な四角い箱状の建物。

 午後五時十二分。事務所入口と書かれた扉でインターホンを鳴らせば、今度はサクサクとセンター長という人物が迎え出てくれた。


金屋かなやといいます。うちの建物が、なにか事件に関係してるとか?」

「いやいや全然。ちょっとヒントをもらえるかもというだけで」


 総白髪が、定年間際という空気を醸す。警部補にも俺にも握手を求めるフレンドリーさで、口調も溌溂としていたが。

 それでも一応ということで、警察手帳の確認と名刺は渡した。するとすぐさま、金屋さんは出てきたばかりの扉を開いた。


「扉は全部、オートロックなんですか」


 扉の脇の機械に、首から提げた社員証を読ませていた。「さあどうぞ」と扉を押さえ、金屋さんは頷く。


「ですなあ、部外者を入れるとトラブルしかないってんで。世知辛いことにね」


 なにやら先に釘を打たれたようで、警部補を振り返った。が、返答は早く進めと顎を動かしただけ。


「──細間くんが? 彼、またなにか」


 応接室へ入るのに、また社員証が必要だった。合皮のソファーに腰掛け、達先警部補は細間剛の名を出した。


「なんの事件とは、まだ言えんのですがね。なんであれ、その近くに居たかもというだけの話です。関係ないなら、早くリストから除きたい」

「はあ。それで具体的にはなにを」

「金屋さんは、細間をご存知の様子ですな」

「ええまあ。彼もうちの会社じゃ、悪い意味で有名になっちゃったけど。それとは関係なく、馬谷うまがい店からの連絡係みたいになってたんで」


 金屋さんの細まった眼が、壁のカレンダーを向く。


「なるほど。直に話すことも多かったんですか」

「ええ。ご存知かもしれませんが、かなり内気な子でねえ。だから店頭じゃなく、トラックにばかり乗せられてたんだろうけど。カメラとか、好きな物の話となると盛り上がったんですわ」


 誰しも、そういう面は持ち合わせるだろう。頷きかけた自分の首に、急ブレーキをかけた。


「へえ、カメラが」

「だけじゃないですよ。オーディオとかゲームとか、うちの売り物でもいわゆる男の子の好きなもんは大概。マニア、というか専門家レベルですわ。恥ずかしながら、あたしも同類ですけどね」


 苦笑の金屋さんの向こうに、楽しい思い出が透けて見えるような気がした。これが演技だったら、とんでもない名役者だ。


「ふむ。私は疎いんですが、そういう物の掃除に強い薬品を使ったり?」

「ええ? うーん、あるようなないような。薬品とは、なんのことですか」


 首を傾ける金屋さんに、達先警部補は「あー」と返答を捜す。しかし一秒ほどで視線のバトンが俺に投げつけられた。


「ええと、そもそも伺ったのが、こちらで修理なんかも行われるということで。そういうときに強いアルカリ性の薬品を使うようなら、教えていただきたいなと」

「ああ、理解しました。でも配送修理センターと名乗っていても、もうやっとらんのです。本当に表面をサッと拭くくらいならともかく、それ以上はやるなってメーカーさんが。十年、十五年以上になりますかね」


 ハズレか。残念だが、いちいち落胆はしない。ハズレをどれだけ重ねても、最後に正解を引けばいい。もし全てがハズレだったとして、それは無関係という正解を引き当てたことになる。

 警部補から教わったことを、無言で唱えた。


「では薬品は置いていない?」

「置きっぱなしの物なら多少は残ってますが」

「それらを勝手に持ち出されたということは」

「ないですな。部外者を入れるとトラブルにっていうのが、まさにそれで。この建物じゃありませんが、昔あったんです」


 それでも念のために、薬品を見せてもらった。やはり社員証の必要なオートロックの室内。さらに錠のかかる薬品庫に保管されていた。

 同じ室内に持ち出し禁止と書かれたあれこれもあって、部外者が入室するのも難しそうだ。


「安心しました。しかしまあ、なにか気づいたことがあれば連絡を」


 決まり文句を残し、配送修理センターをあとにする。と、達先警部補は「大宮駅で降ろしてくれ」と言いだした。


「なにか用事ですか? そこまで行きますけど」

「いや。本部に戻って、課長に報告してくる。お前は現場で、なんか捜してこいや。寝る場所は官舎を使わせてくれるように言っとくから」

「なんか、って」


 不満げに言ってみたものの、必要な報告だ。今日は事件当日の緊急対応であって、正式に対応を命じられたわけではない。

 次の指示まで、一人でいられないのか。本気で引き止めたとしたら、そう返されるだけだ。

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