第5話:最初の事件(4)

 鑑識が間もなく遺体から離れ、入れ替わりに近づいた。遺体の周囲が冷やとする、のは気のせいでなく実際に涼しいらしい。

 寄依署の刑事と、機動捜査隊きどうそうさたいだろう。ほかの数人と、合図もなく合掌が揃う。


「達ちゃん、どう思う?」


 真っ先に座り込んだ達先警部補へ、同年代と見える刑事が問う。


「刺身にしようってんなら、下手くそすぎる。でも、なめろう・・・・って言うには手を抜きすぎってとこだ」

「なめろうねえ。うちのカミさんが、ネットの動画にハマっててさ。肉の塊からミンチを作れって、やらされたんだよ。うまい料理になるからって言われても、途中でどうでも良くなったな」


 その年配の刑事は、振り向いてくれない達先警部補の代わりに、俺へ向いて言った。たった今のできごとみたいに、両手をぷらぷらさせながら。

 場違いでバチの当たりそうな話ではあるが、要するにかなりの労力を傾けていると。


「ええと──」

「ああ、寄依の刑事課長だよ。達ちゃんとは同期でね」

「それはどうも、部下の中洲川です。ええとそれで、よっぽどの恨みがってことでしょうかね」

「普通に考えたら、そうだろうねえ」


 刑事課長は柔和に頷き、達先警部補の手もとを覗き込む。俺も小さく頭を下げ、警部補の対面へ回った。

 刺身となめろうの中間とは、写真以外で伝えるならまさにと思う。溢れていたはずの体液はすっかり乾いているが、腐臭が強い。少なくとも昨日や一昨日の遺体ではなかった。


 顔面だけでは、元の肌の色を知れない。首を見れば、うなじだけが日に焼けた色白と分かる。やはり十何箇所かの刺傷があるけれども。

 反面、肩より下には刺傷がなかった。一つたりと。皮膚があちこち裂けているのは、おそらく枝に引っかかったもの。二センチほどの短い毛髪の中にも、頭蓋骨の陥没は見当たらない。


「たぶん二十代。死斑が薄いってくらいしか、すぐには分からねえな。そっちは鑑識さんが結果出してくれるし、あとはよく見つかったなってくらいだ」


 ブツブツ言って、達先警部補の腰が上がる。


「そうですね。道路からじゃ、臭いもしなかったのに」

「発見者なら、もううちの署へ行ってもらったよ」


 応じて見上げた俺に、刑事課長は言った。やはり達先警部補にではなく。

 なんだろう。同期なら、俺の話の一つや二つはしているかもだが。


「じゃ、お邪魔させてもらうかな」

「達ちゃん。捜査本部に入ってくれるの?」

「そりゃあ、うちの課長の決めるこった」


 愛想のない返答をニヤリと。年配の二人はハイタッチならぬ、ハイシェイクハンドで別れた。

 寄依署へ向かう途中、本部の鑑識ともすれ違った。振り向いて見送る達先警部補は「雨がなあ」とポツリ。


「雨?」

「今年は梅雨らしいというか、土砂降りばかりだろうよ」

「ああ……」


 そうだった。ここ数日、晴れと曇りが続いただけで、その前はずっと雨。表面になにが付着していても、全て洗われたはず。

 あの谷底に川は見えなかったが、さすがに雨となれば流れがあったかもしれない。


「身元、割れますかね」

「さあな。そのときゃ、俺らの手間が一つ増えるだけだ。余計な心配してないで、目の前のもんから片付けろや」

「……はい、すみません」


 腕組みのあくび混じり。どうやら小言は、これだけのようだった。




 寄依署の刑事課で第一発見者の所在を訊ねると、まだ居残っていた。と言っても作成した調書の読み聞かせ中で、行き違う寸前。


「あ、すみません。ご協力いただいてお疲れのところ申しわけありませんが、もう少しだけよろしいですか?」


 作業が終わり、取調室から出てくるところを通せんぼにならぬよう。頭を下げつつ問う。

 七十歳近い女性で、あの林道を散歩に使うとまでは既に聞いた。


「あらあ、構わないわよ。なに? 私が疑われてるの?」


 なぜか女性は、満面と言っていいくらいに笑みを浮かべた。


「いえいえ滅相もない。一つのことも別の人間が質問すると、忘れていたことを思い出すってことがよくありまして」

「ああっ、そうね。警察って、そういうこともするのよね。科捜研かそうけんの男で言ってたわ」

「あはは。よくご存知で」


 ドラマ好きらしい女性は嬉々と戻り、訳知り顔で奥の椅子へ座る。お茶のお代わりが必要か訊ねれば「悪いわね」と、かぶせ気味に答えた。


 既に取られた調書のコピーを、俺より年下の刑事が気を利かせて持ってきてくれる。それは脇へ置き、「同じ質問ばかりになると思いますが」と断り、やはり嬉しそうな女性と話す。


「この歳でね。旦那もあっさり逝っちゃって、暇なのよ。だから少しくらいの雨でも、毎日散歩してるの」

「それは心強いです。正直、あの山の中だと目撃者の期待が薄いもので」


 言葉にしたとおり、ありがたいことだ。あの林道を毎日歩いたのなら、なにに気づかなかったとしても気づかなかったことそのものが証拠になる場合だってある。


「あらら、本当に同じこと言うのね」

「と言いますと?」

「毎日散歩してるけど、緑地へ行くのは月に一度なのよ。ほかの日は、平地を回るの」


 申しわけなさと意地悪っぽさと、半々の顔で女性は苦笑した。たぶん先に調書を取った刑事も、肩透かしに言葉を見失ったのだろう。


「だってずっと上りなのよ。帰りは下りだけど」

「それはそうですね。で、今日がたまたま月に一度の?」

「ええ。何日って決めてるわけじゃないけど、そろそろひと月かなって。そしたらビックリよ、マーニーが急に吠えだすから」

「マーニー?」

「うちの子。コーギーなの」


 つまり発見者の女性は、おそらく腐臭を嗅ぎつけた飼い犬に連れられて谷底へ下りた。「それにしても、藪を掻き分けてまで?」と問えば、またよく分からない喜色を浮かべる。


「そうよね! それがね、二十年くらい前なんだけど、同じようなことがあったのよ。それを見つけたのが旦那で、なにかっていえば自慢してきて。このままじゃ、おちおちあの世にも行けないと思ってたの」


 老夫婦の対抗心はさておき。二十年も前となると、俺の知識にはなかった。そっと取調室の隅に立つ達先警部補を見ると、なんの感慨もなさそうに頷いた。


「ところで奥さん。ご自宅は林道から近いんで?」


 まま、今度は警部補が問う。見上げる女性の頬に、わくわくと文字が見えるようだ。


「ええ、そうよ。あの道に繋がる道路の、最後に平屋があるのご存知?」

「ああ、あの道沿いのお屋敷。すると夜、車が通ったのは音で分かりますね」

「お屋敷なんて、あんなボロ家。分かるけど、ほとんど毎日のように通るんじゃないかしら。ひと晩に一台か二台だと思うけど」


 毎日、同じ車両が通行するのなら、訪ねていく価値がある。けれど、どんな車かという問いに、女性は首を横へ振る。


「さあ、車って言ったけど、オートバイかもしれないし。乗り物には興味がなくて」

「この一週間くらいで、やたら慌てたような音とか」

「気づかなかったわねえ。車が慌てるって、どんな感じ?」


 残念ながら、女性から聞き出せたのはここまでだった。検死の結果が出れば、また問うこともあるだろう。そう告げて帰宅してもらう。

 ──その検死結果が、芳しくなかった。


「死んだのは、七日から十四日前? 随分と幅広くとったもんだな」

「枝と葉っぱに半分埋もれてたでしょう? それで腐敗が遅れた可能性が高いのと、あの下に水が流れてるらしいんですよ」

「天然の保冷庫ってか」

「そうです。その上に雨ばかりで、あの現場の気温がまるで分からないからって」


 同じ日の午後三時五分。報告書の写しを読み上げると、達先警部補は盛大な舌打ちをした。飲みかけの缶コーヒーを咥え、助手席のシートからずり落ちる仕草まで。


「いや、その。あまりにも分からないんで、司法解剖に回すそうです」

「ったりめえだ。現場の気温とやらも調べるんだろ?」

「だそうです」

「クソが。死因くらいは特定したんだろうな」


 鑑識係が怠けているのではない。などと俺が、この大先輩を窘める必要もない。先に予言したとおり、雨のせいだ。

 それにほかの誰の前でも、こんな悪態を見せることはないのだから。


「首です、動脈をスパッと。あとから付けた傷が重なってて、最初の深さがはっきりしませんけど。得物は刃渡り十五センチ以上の万能包丁と思われます」


 俺自身の首に手刀を当てて見せた。左側だ。

 リクライニングしていないシートの座面近くから、警部補の大きなため息がする。


「十五センチ以上も突きこんだ傷があったってことだな」

「ええ。俺が今から、狙ってやれと言われてもできるかどうか」

「随分と血も飛んだだろうな」


 動脈の切断による失血死。バケツで受けても間に合うか。屋外か、屋内か、どちらにせよ真っ赤に染まった光景が目に浮かぶ。

 こればかりは視線を逸らしたくとも、どうやっても逸らせない。

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