第4話:最初の事件(3)

 サイレンを響かせ、アクセルを踏み込む。達先警部補の指し示すまま。

 備えられたナビを使うでなく、地図を開くでなく。警部補は油断のない視線を行く手に配る。


中尾平なかおだいらなら花園はなぞのインターか。所沢から関越だな」

「中尾平って、大きな公園のあるところでしたっけ」

「ああ。どこを向いても葉っぱしかない、まるっきり山ん中だ」


 近隣へも行ったことはなかった。訊ねて、埼玉でも左上のほうだったかなとは、なんとなく思い浮かぶ。これから最短で行くとなると、まったく役に立たないが。

 言われたとおり、所沢料金所を通過したのが午前八時四十一分。ラッシュ時間にしては早かったと思う。


「なぁに時計なんか見てる。俺がナビってんだ、そんなオンボロに頼ってんじゃねえ」

「酷いなあ。たしかに一万もしてませんけど、絶対に狂わないやつって、店の人に保証してもらったんですよ」

「へっ」


 歩行者や信号のなくなったせいか、雑談が混じる。タバコに火を点け、脚を組んで、次は缶コーヒーでも求めそうに。

 さすがにそこまではなく、三十分ほどで花園インターを降りた。警部補が言うには「あとはだいたい真っすぐで着く」と。


 片側二車線の、ゆったりした交通量の道路。三階建てより高い建物は見当たらず、むしろ田畑が目立つ。


「あの辺だ」


 助手席の窓越し、遠く見える山を警部補の指先がぐるっと囲む。

 もうすぐだ。強張りかけた手を片方ずつハンドルから離し、薄く滲んだ汗を袖で拭う。

 殺人事件の現場に行くのは何度目だったか。これから先、きっとどれだけ重ねても汗をかくに違いない。

 こっそり、溜まった唾を飲み込んだ。


「えっ……?」


 視界の端に、信じられないものを見た。まさか、なぜ、どうして、と疑問の言葉が頭の中を埋めていく。

 堪えられず、既に過ぎた道路端を振り返った。

 道の駅がある。その前の歩道に、一人の男が立っていた。ガードレールに手を置き、俺のほうを見て。


 いや、すぐに視線が動いた。後ろから迫る、別のパトカーに興味が移ったらしい。

 のどかと言っていい街並みに、緊急車両の見物で足を止める人など他になかった。

 遠目にも分かる小汚いTシャツ、同じく汚れた七分丈の綿パン。俺の記憶より、随分と太っていたけれど。


「しっかり前見ろ!」


 怒声が俺の首を前に向けた。そうでなければ、ずっと振り返ったままだったかもしれない。

 前方にぶつかる物はなかった。しかし赤信号。アクセルを緩め、慎重に交差点を通過した。


「なんだ、素っ裸の女でも居たか」


 常になく抑えた、震える声。


細間ほそまが居ました」

「なんだ?」

「細間です。細間ごう


 直に会ったのは初めて──違う。以前と同じだ、東松川署でガラス越しの面通しをしたときと。

 あのときは担当の刑事に「知らない人です」と答える以外になかった。が、今はそうでない。


「だからなんだ」

「えっ」

「牧添結愛の監禁犯が居たから、どうだってんだ。これから行くところに、なにか関わってるとでも言うつもりか」


 ふつふつと湯の煮えるような声に、「いえ」としか答えはない。


「でも、あいつの家は全然遠いですし」

「もう裁判は終わった。罰も受けた。それで自由に出歩いてる男を、どうしようって?」


 そのとおりだ。でも、と駄々をこねたくなる。

 自然公園に近い道の駅で、なにをしようと勝手と理解していても。


「どうもできません。すみません」


 なにか大きな塊を、喉の奥へ呑み込む。あとは呪文のごとく、「関係ない」と自分に言い聞かせ。

 達先警部補の返事は聞こえなかったが、ゆっくり頷いたのは見えた。




 午前九時二十分。大郷おおさと寄依よりい町、中尾平緑地へ至る林道の途中。最初に警部補の言ったとおり、車幅しかない道路が山と山の間を縫う。松や椚の枝が屋根となって、どこも薄暗い。


 道路脇をずっと、小さな谷が並走する。というより、谷を無理やりに広げて作った道路なのだろう。

 ともあれ遺体は道路から四、五メートル低い谷底にあった。

 折れた枝が降り積もり、生えた草や落ち葉が絡みつく中へ。それは道路から覗いたのでは、まったく見えない。


「放り投げられたっぽいな」


 仰向けで、四肢をでたらめに投げ出した恰好の被害者。

 鑑識の構えるカメラに入らぬよう十歩を残し、二人して両手を合わせる。それから達先警部補は、ひとまず視線を上向けた。


「ですね。上からじゃ分からなかったけど、途中の枝なんかが折れてる」

「しかし、かわいそうなことを」


 再び遺体へ顔を向けるのに、舌打ちが聞こえた。気持ちは分かる。少なくとも俺の眼に写した中では比較にならないほど酷い。

 きっと俺と同じ百七十センチそこそこの背丈。スポーツなどはやっていそうもない、痩せ型の男。

 離れていても分かるのは、一糸纏わぬ全裸だから。


 ただ、衣服を剥がれた遺体は珍しいと言うほどでなかった。身元を隠すため、衣服についたなんらかの痕跡をなくすため、理由は幾らでも思いつく。

 だがこの時点で推測するなら、身元を隠したいのだろう。なぜなら個人を特定するのに最も重要な、遺体の顔が無数の傷で潰されていたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る