第3話:最初の事件(2)
同窓会の翌日。つまり月曜日も、いつものように出勤しなければならない。埼玉県警察本部、入口の自動扉を午前七時五十五分。
「おはようございます。今日も階段で?」
たまに出会う一般職員の女性。もの珍しさを湛えた視線で問うけれど、あなたも階段愛好者だ。梅雨の谷間だが。いや、それゆえ蒸し暑いのに。
昨日と違う、生地も値段も薄っぺらなスーツがちょうどいい。
「ええ。もうこうなると、エレベーターを使うのが犯罪みたいな気がしてて」
「あはは、そうですね。ガタピシいって、怖いですもんね」
「そういえばそうですね。
俺は怖いと言った覚えはないのだが。でもたしかに、数日前に使ったときにも音が気になったのだった。
女性は会釈で、二階のどこかへ消えていく。俺は四階、目の前の
「おはようございます、
見慣れたヨレヨレのスーツ姿に、背中から声をかけた。並んだ隣のデスクに腰を下ろしながら窺うと、舟を漕いでいた。
まだ定時まで一時間近くと言え、姿のある二十人からは既に忙しそうだ。もちろん警察無線の通話も途切れることがない。
それでも気休めに、音を立てぬよう鞄を置く。直ちに席を立ち、デスクで作られた島の端へ置かれた冷蔵庫を開けた。
俺のストックしているアイスコーヒーをプラカップに入れ、達先警部補の前へ置いた。すると、からくり人形みたいにずるずると手が伸びる。
「朝はコーヒーだな」
「昼も夜もでしょう?」
「同窓会はどうだった。一張羅、着てって良かっただろ」
「ええ、警部補の仰るとおりでした。昨日は休ませてもらって、ありがとうございます」
「休んだ? 俺ぁ、ボケちまったかな。昨日の朝もお前のコーヒーをゴチになった気がするんだが」
「訂正します。昨日の午後は休ませてもらいました」
「馬鹿。親方日の丸は、日曜が休みって決まってる」
正確には聞いていないが、五十も半ば。俺が異動してきて、休暇を取ったことのない人。実際のところ、さらに何年も記録更新中らしいけれど。
「髭、三日目はヤバいですよ」
「お。そうか」
顎を撫でて見せると、達先警部補も同じようにした。白黒のワイヤブラシみたいな音が激しい。
喧しく軋む引き出しから電動シェーバーを取り出し、内壁に設けられた洗面台へ向かった。外国タバコのハーブめいた匂いを撒き散らして。
「なに書いてんだ」
「エレベーターの軋む音が怖いと聞いたもので」
物品破損箇所報告書に、ボールペンを走らせる。官職、氏名、場所と簡単な状況を書くだけの簡素な書式。取り出して記入し、
「そんなもん、気づいた奴に書かせろよ」
はて、警部補が使っているのは丸鋸だったか。金属音と聞き違う騒音の中、怒鳴られた。
「いやいや、俺も気づいてたんですよ。うっかり書くのを忘れてました」
「はあ……いいから、その暇に昇任試験の教科書でも開けよ。次のは受けられるんだったろ」
大卒の警察官が巡査部長になってから、警部補の昇任試験を受けるには二年を待つ規則がある。俺にとって今年がそうとは、直に話した記憶がないけれども。
「
「ええっ? 怖いですよ」
殺人や強盗で立てられる捜査本部とか、一つの事件に張り付けられることを専従と言う。そうでなければ暇かといえば、まったくそんなことはない。
たとえば達先警部補のように。
「せっかく、一発合格の優等生が部下になったんだ。早く上司になってもらって、俺をサボらせてもらう」
「またそんな」
「嫌なのか」
「いえ、そうなれるよう頑張ります」
サボりたいなんて、心にもないことを。
ツッコもうとすると、鋭い睨みが飛んだ。真意の底は定かでないが、まあ遊んでくれているのには違いない。
あえて棒読み風の宣誓に、「よし」とお許しをいただいた。
「次になにかあったら、お前をぶち込むしかないからな。ほれ、すぐ教科書出せ」
「了解です」
抱えた仕事をそっちのけにできるはずもない。しかし恰好だけ、試験の参考書類を取り出して重ねる。
『至急、至急。司令室から全署へ。現在、殺人と思われる百十番を受電中。繰り返す──』
百十番司令室の落ち着いた口調。無線の音量を誰が変えたでもないのに、矢文のごとく耳へ刺さる。
「ほれみろ」
午前八時十七分。舌打ちの達先警部補が、シェーバーと覆面パトカーの鍵を投げて寄こした。
階段の隣、四基並んだエレベーターはどれも忙しそうだ。しかしほとんど待たずに乗れて、「たしかに、うるせえかもな」と警部補。
一階で降り、地下駐車場への別エレベーターに向かう。途中、警務の一般職員の女性が二人、各々重そうなダンボールを抱えたのとすれ違う。
「あっ。中洲川部長さん、おはようございます」
「おはようございます。すぐに現場へ行かなくちゃいけなくて、手伝えなくてすみません」
「ええっ? いえ、あたしたちの仕事ですから!」
きゃっきゃと楽しげに、二人はエレベーターを待つ。少し離れて、それを達先警部補は振り返った。
「よく餌付けされてるよな」
「餌付け? 誰か猫でも飼ってるんですか」
「さあな。聞いた話じゃ、何十匹もらしいが」
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