第2話:最初の事件(1)
◇ ◆ ◇
とっておきのスーツが馴染まない。仕事で着る物より、生地も値段も格段にいいのだけれど。なんだかゴワゴワした感があって、歩くのまでガニ股になりそうだ。
さておき到着したビルの外観を、スマホの画面と照合した。
うん、合っている。なにより店前の黒板に、
午後六時五十分。スマホの表示と同じ時刻を、腕時計でもたしかめる。指定の十分前、貸し切りの札の下がるドアノブを捻った。
ドアベルの高い音色。板張りの床に、中央へ集められた木作りのテーブル。初めて来たのに懐かしいと感じる、こぢんまりしたカフェバー。
踏み入るなり、十数人の眼がこちらを向く。知らぬ顔はないが、中でも四人が一斉に手を挙げた。
「中洲川こっちこっち。今回は来たんだな、さすが正月から案内出した甲斐あった」
ええと──
「良かった、トリじゃなくて」
「トリ?」
「ああ、ビリってこと。最後の一人じゃなくて良かったって言った」
訊ねた茂部は、店の奥へ手を振っていた。黒いホールベスト姿の女性が、カウンターから出ようとするところ。
「ああ、そんな言葉もあったな。なんか、おっさんくさいけど」
「え、そうか? いやまあ、おっさんばかりの職場だから。言葉がうつってるのかも」
全身、上から下へ。茂部は「へえ」と視線を動かす。どう応じたものか悩むのを、店員の女性が差し出す銀のトレイが救ってくれた。
ウイスキーとビールと、烏龍茶だろうか。それにオレンジジュースの中から、白い泡のかぶったグラスを「ありがとう」と取る。
午後六時五十三分。つい、腕時計を見てしまう。
「あれ、ビールは嫌いなんじゃ?」
四人のうち唯一の女性メンバー、
いや、昔はそんなことも言っていた。思い出すと苦笑を堪えられない。
「最初の一杯だけはね、おいしいと思えるようになったんだ」
「へえ?」
じろじろとした視線こそなかったが、先の茂部と同じ口調。俺の到着前に示し合わせたかと疑いたくなる。
「なに?」
「言葉だけじゃなくて、見た目もおっさんっぽいってよ。スーツも高そうだし」
賀屋が答える前に、茂部が豪快に笑う。
「名誉毀損って知ってるか?」
「そうよ。それに中洲川くんのは、大人っぽいって言うの」
反撃すると、賀屋も援護に回った。二十七にもなって大人っぽいと言われると、逆の意味も考えたくなるが。
「警察みたいなこと言うなよ」
一応は新品らしいポロシャツで、茂部は拗ねた顔を作る。お前も法律を齧った身だろう、とは言わないでおいた。
「刑事だからな」
「えっ、昇進?」
「いや刑事になるのは、単に異動だね。希望してだから、ありがたいことだけど。それとは別に、まあ階級も巡査部長になってるかな」
俺が警察官になったことは、この場の誰もが知っている。もちろん俺も、茂部や他の誰もの進路は把握していた。卒業後、転じていなければ。
「凄い。巡査部長って偉いんでしょ」
「ううん、って否定すると叱られるか。巡査から、一つ試験を受かっただけだよ」
「試験なんてあるんだ。大変だね、難しそう」
賀屋は首を竦め、他の男たちも苦々しい顔を作った。「就職したあとまで試験は、どうもな」とかなんとか。
「大学でやってたことのほうが、よっぽど難しかったよ。警察の試験ってのは、普段の仕事をどれだけ正確にできるのか、検定みたいなもんで」
「それはそれで頭痛がしそうだ」
「考えこみすぎればな。でも本当に、警察の仕事そのものは大して難しくないって。考えすぎで単純なことを見落とすほうが多いし、怖いよ」
同じ大学、同じ学部を卒業したのだ。お前たちなら、すぐにでもこなせる。そう太鼓判を押した。
毎日忙しく、同窓会に参加できたのも運が良いほうとも付け加えて。
と、茂部が自嘲気味に頭を掻く。
「同じ卒業って言ってもな。俺は牧添とお前が居なかったら、無理だったよ」
茂部を除くメンバーが、息を止める。だけでなく近くに居た何人もが、ひゅっと喉を鳴らす。
そろそろと窺う視線が集まる中、「いやあ」と笑い飛ばす声だけが虚しく響いた。
「馬鹿……!」
気づかぬ茂部に、賀屋が肘を喰らわせる。ようやく、おどけた笑声が窄んでいった。
「あ」
ひと声を漏らし、悲しげに眼を細めた男。俺はその先を言わせなかった。
「結愛──牧添は?」
自ら言って、店内を見回す。俺のあとにも何人か増えたが、一人ずつの顔を見るのに困難はない。
「行けないと思います、って返事があったから」
黒いポーチから、賀屋はスマホを取り出した。画面を表示させるでなく、視線を落とす。
出欠確認を含めた連絡は、すべて同窓会のグループチャットで行われたのだ。だから俺も、結愛の返答は知っている。
それでも、なにかの気紛れで現れたりしないかという下心に抗えなかった。
「うん、そうだよな」
午後七時五分。腕時計を見たところで、場を和ませるなにごともない。
「あれから、やりとりないの?」
「だな。時間を置けば置くほど、俺にできることも言えることもなくなってさ」
賀屋の諦めた風のため息を、俺も倣った。
取り繕っても仕方がない。結愛がストーカーに監禁されたこと、それから一度も大学へ来なかったこと。既に条件が整っていて、卒業はできたこと。
誰もが知っているのだから。
だとしても数分の沈黙が訪れるのは、避けようがなかった。
もちろん俺も例に漏れず、賀屋にローストビーフなんかを取ってやってごまかした。ついでに茂部たちにも。
「我らが教授の到着でーす!」
午後七時九分。救いは店外からやってきた。ドアベルが高らかに鳴り、記憶よりおじいちゃん然とした空気を増した教授が。
最寄り駅まで迎えに行ったらしい二人が、能天気な拍手で賑やかす。
すぐ、俺も出迎えに走った。鞄を受け取り、一つだけ用意された椅子へ案内する。
最初に挨拶と握手を交わす役得に預かり、囲む輪から抜け出す。
午後七時十三分。たしかめた腕時計の盤面を「ねえ」と、つつく指があった。教授への挨拶は、波が落ち着いてからにするようだ。
「ん?」
「さっきから時計ばかり気にしてるよね。後の約束でもあるの?」
賀屋がなにを問うたのか、理解するのに二拍ほどを必要とした。
「ああ、いや。ないよ、時計を見るのは職業病みたいなもん」
「職業病?」
「警察の書類になにが重要かって、時系列が整然としてることでね。辻褄が合うから、証拠として扱われる」
現場に出たてのころ、時刻を記録していなくて殴られた記憶が夥しい。それだけズボラだったのだけれど、慣れれば慣れるものだ。
「うわあ。そんな変な癖になるくらい、叱られるんだ?」
「まあね。仕事中はどんな些細なことも記録するようになるし、そこには必ず時刻を入れる。そうしたらいつの間にか、時計を見ると落ち着くようになる」
うわあと開けた口を、さらに賀屋は広げた。
「変態」
「酷いな。間違ってないけど」
「嘘。気苦労が多そうで、大変ね。でも中洲川は、警察官になって良かったんじゃない?」
これくらいの罵倒なら、言ってもらったほうが話しやすい。警察官になって良かったとは、そう言う根拠が分からなかったが。
「そうかな」
「うん、だって変わったよ。大学のときより、いい男になった」
「気持ち悪いな」
偽りなく、正直な感想を声に出した。だのに賀屋は、俺の腕を殴りつけた。
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