執着の殺人
須能 雪羽
第1話:結愛との時間
「高校のとき、体育の授業とか同じだったけど。覚えてない?」
横並びの席。顔を合わせて一分以内の問い。
どうやら同じ高校の卒業らしいが、体育の時間は男女で分かれていた。同じクラスの女子も怪しいのに、隣のクラスとなると辿るべき記憶がない。
だから結愛にとっては違っても、俺の中の時計は大学一年から動き始めた。
「ごめん。人の顔を覚えるの、得意じゃなくて」
「こういう顔だよ」
すっきりとした、それでいて柔らかそうなほっぺたを、自分の両手で持ち上げる。おどけた仕草というのに、今にも涙のこぼれそうな瞳が気になった。
「ああ、うん。よく言われる、寂しがり屋って。うちの親、二人ともほとんど家に居なくて。ひとりっ子だし、そのせいかな。
冗談めかし、「寂しがり屋だなあ」と言ったことがある。すると困った風に笑いながら、彼女は何度も頷いた。
「うちは鬱陶しいだけだよ。普段はなにも言わないくせに、機嫌が悪くなると『宿題やったか』『提出物はないのか』って文句ばっかり。ちゃんとやってるって答えても、褒めもしない」
「あはは。八つ当たりもあるかもだけど心配してくれてるんだよ、きっと」
女の子でも小柄なほうだろう。肩にも触れない短い髪型も合わさって、幼い印象が強い。けれど俺の親を憑かせたように苦々しい声、尻を落とした眉。優しい人なんだな、という俺の感想は間違っていないはず。
だからというわけでもなく、大学に居る時間は結愛と居る時間と言って差し支えなくなった。なにしろ俺が大学へ近寄った途端、どこからともなく飛んでくる。
「他に、一緒に進学した友達とか居ないの?」
「一緒に受験した子は何人も居たんだけど、みんなもっと頭のいいほうに受かっちゃって」
同じく受験したのに、すべて落ちた自分が悪い。付け加えた結愛は、なにか別の言葉を呑み込んだ気がした。
それがどんなものか、想像はいくらでもできた。良いようにも悪いようにも、尽きることなく。尽きさせることもせず。
「いやあ。チャレンジしてるだけ、俺よりよっぽど凄いよ。偉いと思う」
偉いとは偉そうに。そう思うものの、これ以上の褒め言葉を見つけられなかった。同じ大学を受ける者はないと請け負った担任へ、心の中での非難に傾いていた気もする。
だというのに「篤志くんに褒められちゃった」と結愛はにんまり。
「あれ、でも」
「ん?」
「受験、一つしかしなかったってこと? 凄いね、はっきりしてるんだね。自信があるんだね」
褒めるところなのか。首を傾げたが、眼を見張ってまでの歓声に悪い気はしない。同時に、単騎決戦に臨んだ理由も思い出され、失笑と苦笑が混ざり合った。
「あはは──俺は逆に、一人がいいかなって。なにがまずいわけじゃないけど、新しい場所で前からの知り合いと会ったら気まずいことない?」
新しさは関係ないのかも。親に頼まれてスーパーへ行ったとき、クラスメイトを見かけたら回れ右をする。おそらくは、それに類する感情。
「えっ。じゃあ、私も迷惑だった?」
「いやっ、違う! そんなことない、絶対。ほら俺は、隣のクラスって気づいてなかったし」
結愛からすれば、当然に思い浮かぶ帰結。彼女の瞳が潤むことを予測しなかった、俺の迂闊が過ぎる。
「本当に? じゃあ、これからも話しかけていいの?」
「いい。ていうか俺も、今さら結愛と話さなくなるのは困る」
まだ、恋とか愛とかでない。けれども「結愛と居るの、楽しいからさ」などと吐くことに、ためらいはなかった。
ゼミの方針なのか、課題には複数人でかかれという指示が多かった。俺と結愛と、それ以外のメンバーも段々と固定されていく。
「じゃあ私と篤志くんで
意外だったのは、各々の役目を割り振るのが、多く結愛だったこと。つまり俺も従う側で、洗い出すべき条文、判例の一つとして取り逃がすものかという方向に心血を注いだ。
ただ、結愛の控えめなリーダーシップは課題に対してだけで、メンバーたちとの飲み会ともなると逆転する。
「大丈夫だって。ビールくらい、みんな飲んでるんだって」
「ええぇ? 篤志くんは飲んでないよ」
「しょうがないよ、中洲川は『まずいものは飲みたくない』って言いきるんだもん」
大学一年生の多くは未成年だ。昨今その定義もややこしいが、飲酒に関しては間違いなくダメだと定められている。
現実には、当然という顔で飲む連中も少なくないが。
「うん、飲んだことはあるよ。で、おいしくなかった。から揚げでも冷ややっこでも、冷たい烏龍茶が合うし。だから結愛も、好きなのだけ飲めばいいよ」
「うん。そうする」
俺が庇えば、「へっ、爆散しろ」などと強めの冷やかしが浴びせられる。
まあ、お約束というのを求められていたのだろう。俺もそういうやり取りを、心地良く感じていたはず。
入学から半年も過ぎたころには、彼氏でも彼女でもないと言ったところで誰も信用しなかったろう。
事実として、告白という儀礼を通過していなかったが。
それでも最初の年度が終わるまでに、結愛との時間は限りなく増した。校外でもとは、もちろんのこと。二人で遠出したのは数えきれず、泊まりがけも両手の指で足らなくなった。
「ねえ。篤志くんと私で、一緒のとこに住むのってどうかな」
結愛が言いだすのも、不思議はなかったのだと思う。二年の最初の授業の日だったのは、彼女なりのケジメみたいなものか。
もしかすると数日前に購入したという、パステルカラーのスクーターをお披露目したせいかもだ。
中古で「今日も急に調子悪くなって、直してもらったの」と言うが、そうは見えないハンドルを押して、いつものバス停までの道を行く。
いつもなら、その後の予定を話すところだ。バスでどこか食事にでも行くのか、今日は疲れたから帰って寝るのか。
結愛がスクーターとなったら、それができない。いや、できなくはないが勝手が狂う。誓って腹を立てたのでないが、なにかマイナスの心持ちがあったのも間違いない。
「同棲かあ。そんなの結愛のお父さんとお母さんが許してくれるの?」
「うん、いいって」
足を止めず、結愛のまぶたが閉じる。時間にすれば二秒くらい、重いシャッターを下ろしたように見えた。
再び開かれるのには、大きく吸った息を吐く儀式が必要だった。
「あはは、もう聞いてるんだ」
「うん。どの辺がいいかな」
あえて、明るく笑って見せた。彼女もふわっと笑い、先にあるカフェへ視線を向ける。
「あ、いや、その。相談しとくのはいいけど、俺も勝手にはできないからさ。決めるのは、親に話してからでもいい?」
「もちろん。篤志くんの親は、心配性だもんね」
難しい顔を作る結愛だが、すぐに「ふふっ」と声を上げた。おかげで俺も息を噴き出したが、それが笑声だったかは定かでない。
それからカフェに立ち寄ったものの、住む場所については話さなかった。帰宅後に親へ相談することもなく、結愛からの再提案もなかった。
ただ一度、そんなことがあった。これに目を瞑れば、結愛とケンカらしいケンカさえしたことはない。
地元の埼玉県を離れ、北海道や沖縄にも行った。などと自信を持って言えるのは、大学四年に上がるまで。
あれはゴールデンウィークが終わってしばらく、梅雨のただ中。
毎日、午後十時から十一時には必ずあった、結愛からの連絡がこなかった。いくら眺めても、スマホの画面に新たな通知がない。
とはいえ居酒屋のアルバイトが遅くなっているのだろう。そう考え、「大丈夫?」とだけメッセージを送り、午前零時まで待った。
しかし状況は変わらず、通話を試みる。
電源が入っていない。いかにもひとごとの自動音声が、不安を煽り立てて感じた。
どうする? 親御さんに訊ねてみるか。思いついても、連絡先を知らなかった。
では警察に? 通報するのは簡単だが、本当にそれだけの事態か。今どき、成人が日をまたいだくらいで大騒ぎするなと。彼女に恥ずかしい思いをさせはしないか。
迷って、あと一時間だけ待つことにした。十分ごと、電話をかけメッセージを送りつつ。
三回目は五分で辛抱できなくなった。四回目は二分。六回目は家を飛び出し、タクシーの中で。
初めて会う結愛の両親の前が、何回目だったろうか。
その日、次の日、その次も、彼女と連絡はつかなかった。再会したのはちょうど一週間後、
結愛は何者かに連れ去られ、監禁されていた。
俺はあのとき、どうすれば良かったのだろう。どうもできなかったのか、本当は正解があったのか。少しばかりの年月が過ぎたところで、まるで分からないでいる。
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