月と鎮魂歌
ニル
アオスジアゲハ
おじいちゃんが死んだ。
夏休みの二週間前。そんな知らせを聞いて、あたしは山に囲まれた田舎にある我が家へ帰省した。今、目の前では白くて冷たいおじいちゃんが、棺の中で目を閉じている。隣では、おばさんが目を真っ赤にしてあたしの手を握っていた。
「こんなに突然……。あーちゃんもまだ高校生になったばかりなのに…」
おばさんは、あたしのことをまだあーちゃんと呼んでいた。
「ずっと病気してたし、これでもう苦しまなくて済むんです。きっと安らかに天国へ行ったと思います」
「でもねえ…」
おばさんがふくよかな腕であたしを抱きしめてきた。ちょっと苦しい。
「あーちゃんを一人残して死んじゃうなんて。かわいそうなあーちゃん」
違う。おばさんの言葉に、反射的にそう思った。まず、あたしは一人残されたなんて思ってないし、自分がかわいそうだとも思わない。だって、あたしはもとから一人ぼっちだったし、だからおじいちゃんが死んでも、涙が出ないんだ。
あたしがおじいちゃんに引き取られたのは、中一の頃だった。気難しいおじいちゃんと、甘えることも、割り切ることもできなかったあたしは、打ち解けるタイミングをつかむことができないまま三年間一緒に暮らしてきた。いつも無口なおじいちゃんが、あたしは苦手で仕方なかった。地元から通うのが難しい都市部の高校を志望したのは、そんなおじいちゃんとの息苦しい生活から逃げ出したかったからだ。
おばさんがどこかへ行ってしまったので、あたしも棺のある和室を出た。狭い廊下を、喪服の大人たちがせわしなく行き来していた。邪魔になってはいけないと思い、あたしは縁側へと移動した。
いつもおじいちゃんがぼうっとしていた縁側。あたしはそこに腰かけて、草の生い茂る庭を眺めた。アオスジアゲハ、というのだろうか。黒と青の綺麗な蝶が、くるくると宙を舞っている。おじいちゃんは、この小さな庭を眺めて、何を思っていたのだろう。少し気になった。でも、それを尋ねる相手はもういない。
「悲しい…」
声に出してそういってみたけど、私の心には、淡白で薄っぺらい哀惜しかわかなかった。そこで改めて思い知る。あたしとおじいちゃんは、その程度の仲にしかなれなかったのだ。結局、あたしとおじいちゃんは家族になれなかったのだと。
ぼんやりと時間を過ごしているうちに夕方になって、お通夜が滞りなく終了した。あたしは何も変わってない自分の部屋に移動して、持ってきた宿題を済ませた。いつの間にか日付が変わっていて、そろそろ寝ようかな、と思った時。
「La―La―LaLa―La」
女の人が歌っている。暗い廊下から、鈴のような凛とした声が聞こえた。おばさんがラジオでも聞いているのだろうか。ほうっておいてもよかったのだが、あたしは引っ張られるようにして、その歌の発信源を探し始めた。
「La―LaLa―LaLa―La……」
それにしても、なんてキレイなメロディだろう。クラシック? 聖歌? いや、もっと素朴で、切なげで……
ここだ。あたしはふすまの前で立ち止まった。今はおじいちゃんの棺が置いてある和室。このふすまの向こうから、歌が奏でられていた。怖くなって引き返そうかと思った。だけど歌があたしを呼ぶように部屋の中から聞えてくる。あまりにも美しいその音色にすっかり魅了されてしまい、あたしはとうとうふすまを開けた。
「LaLa―La」
からりとふすまが開いたのと同時に、歌が止んだ。そして部屋には―—。
「……あらま」
「おや、これは……」
黒服の男女が月明かりに照らされながら、棺を囲んでいた。
「な、誰……」
二人は少しの間顔を見合わせていたが、やがてあたしの方を向いて交互にしゃべった。
「いやいや夜中に失礼、御嬢さん」
「できたら、大声を上げたり誰かを呼ぶことは控えてくれないかしら」
「我ら決して怪しいものではないゆえに」
いや、怪しい。かなり怪しい。
ほんの少し残っている冷静な思考が、あたしの気持ちを落ち着けた。
男の方は、真っ黒な燕尾服に真っ黒なシルクハットという格好だった。袖口を縁取る青が、月の光を反射して美しい。シルクハットにも、同じ色のリボンがあしらわれていた。目深にかぶったそれのせいで、顔がよく見えず、肌が褐色であることだけがわかった。女の方も真っ黒なロングドレスをまとい、袖口には青い縁取りがあった。長い黒髪をゆるく束ねるリボンも同じ青。肌の色も男と同じだけど、ベールで隠されているから顔もわからない。
二人は古い畳の部屋の中で、あまりにも浮いていた。あたしはその異様な姿に、呆然と突っ立っていた。彼らはそんなあたしを放置して、何やらぼそぼそと話し始めた。
「我としたことが……。生きる者との接触はなるべく避けねばならなかったのに」
「いいんじゃないの? 別に。……それにしても、人に見られるのって久しぶりね」
「おお、いやまったく」
「……今、人に見られるのはって言いませんでした?」
我に返ったあたしは、女の言葉に感じた違和感に眉をひそめた。まるで二人が人間ではないような言い方だ。すると男が口の端をくいっと引き上げた。笑っているらしい。そしてやけに芝居めいた口調で言った。
「紹介が遅れてまことに申し訳ない。我らは天へ導くつばさ」
「疲れ果てた魂を歌で癒し、来世へと案内することが務め」
「ちなみに彼女が歌姫で、我の役割は魂を肉体から解放することである。以後よろしく、御嬢さん」
そんな自己紹介信じられるものではない。でも、彼らの現実離れした奇妙な雰囲気に、あたしは妙に納得してしまった。
「来世への案内って…天使? それとも死神?」
「我らの存在をどう解釈してくれても結構」
「あたしたちに特定の呼称はないから」
「ふうん。じゃあ、今日はおじいちゃんを連れて行くためにここへ来たんですか?」
「そのとおりよ」
「正確には、連れて行くのはこの御老人の魂のみであるが」
「へえ」
じゃあ、棺に入っているおじいちゃんは、もうすぐ空っぽの入れ物になってしまうのか。男が棺を撫でたのを見て、特に悲しみがこみあげてくることもなく、そう思った。
「あら、あんまり悲しくなさそうね」
あたしの表情から察したのか、女が不思議そうに尋ねてきた。
「ふむ、確かに。御嬢さん、この御老人は君の祖父であろう? それなのに君からは悲しみどころか、何らかの感情が高ぶっている様子すら感じられない。この御老人とは不仲かね? 嫌でなければ聞いてもよろしいかな」
「別におじいちゃんと仲が悪かったってわけじゃ…」
全く赤の他人(人?)だし、事情を知られて特に嫌とも思わなかったので、彼らにあたしが悲しくなれない理由を話した。お母さんはあたしが赤ちゃんの頃に死んじゃったこと、お父さんは六年生の時に女の人と出て行ったこと、それでおじいちゃんに引き取られたこと、でも無口で無愛想なおじいちゃんとの生活が息苦しくてたまらなかったこと。あたしがひととおり話し終えると、男が「ふむ……」と小さくうなった。
「すると御嬢さんは……御老人が死んで心が軽くなったということかな?」
「あ、それ全然違います」
人が死んで嬉しくなるほど、あたしは曲がっていない、と思う。
「じゃあ、何故?」
女が首をかしげた。ベールのうちからじっとこっちを見ているのが分かる。ちょっと不気味なその立ち居振る舞いに、背中を嫌な汗が伝った。
「心が軽くなったとか、そんなことありませんよ。悲しくないのも事実ですけど」
「では、何も感じない、ということかな?」
「ああ、そんな感じです。なんかもう、どうでもいいって思ってしまうんですよ」
「あらまあ、仮にも三年間育ててくれたのでしょう?」
「……感謝はしてます。でも、それって愛とか、親しみとかからくる感謝じゃないし」
「ほほう。御嬢さんはこの御老人との間に愛はなかったと」
「……そうかも、と思っています」
あたしにも、おじいちゃんにも。
ああ、何であたしはこんなことを正直に話しているのだろう。話すことを許したのはあたしだけど、傷をえぐるような彼らのぶしつけな質問の数々に、だんだん腹が立ってきた。そんなあたしを気に留めることもなく、漆黒の二人は交互に話す。
「何か楽しい思い出とかはないのかしら?」
「……ほとんど会話もない毎日でした」
「御老人は君に何か残したんじゃあないのかな?」
「……きっとありませんよ、そんなもの」
「そんなことはないんじゃないかしら」
「探せばきっと何か…」
「ああ! ないって言ってるじゃないですか!」
とうとう怒鳴ってしまった。こんなに大声を出したのに、あたりはしんと静まり返っていて、生き物が目覚める気配はなかった。あたしはすぐに我に返り、大きく息を吸った。落ち着け、あたし。
「……すいません。でも、本当にないと思います、そんなもの。だって、おじいちゃんがあたしを大切に思ってくれていたのなら、きっとそれはあたしにも伝わっていたはずですから」
自分でも信じられないくらいの無表情だったと思う。悲しみも、怒りも何も無い空っぽのあたしは、彼らを真っ直ぐ見つめた。男はしばらく何も言わなかったが、
「御嬢さんがそういうのなら、そうかもしれないな。いやいや、怒らせてしまって大変申し訳ない。我らはそろそろ立ち去るとしようか」
男がちらりと女に顔を向けた。するとそれが合図であったかのように、女が歌いだした。さっき歌っていた曲だ。
「La―La―LaLa―La……」
歌に聞きほれていると、男が棺に手をかざした。棺からぬっと白い光が出てきて、男の手に絡みつく。真っ白に光った人のシルエットだった。それが男の手を借り外へ出てくると、女が歌うことをやめた。あたりに再び夜の静寂が訪れる。男がシルエットの手を取りながら、月光の漏れる窓まで歩み寄ると、女もシルエットに寄り添った。
「それじゃあ、さよなら」
「もう会うことのない御嬢さんよ」
二人が振り返ったが、その顔はシルクハットとベールの向こうに隠されていた。あたしはその様子をただぼんやり見ていた。
「ああ」
男がおもいだしたように声を上げた。
「ひとつ御嬢さんに知っておいてほしいことがあるのだが」
「……なんですか」
月明かりに照らされた口元が、くいっとつりあがった。笑っているのだろうか。
「受け止めようとしない者には、伝わるものも伝わることはないのだよ」
あたしの視界に真っ先に飛び込んできたのは棺だった。畳で眠ってしまったせいで、体中が痛い。
「……夢、だよね」
奇妙な黒服の男女のことを思い出し、無理やりそう思うことで納得した。きっと寝ぼけてこの部屋に来てしまったんだ。おそるおそる棺の中をのぞいてみたけど、おじいちゃんは昨日と変わらず両手を組んで目を閉じていた。昨日より、どこか現実味にかけていると感じるのは気のせいだろうか。
和室を後にして台所に行くと、おばさんがすでにお葬式の準備をしていた。
「おはようございます」
「あら、おはようあーちゃん。ちょっと待ってて」
おばさんはにこやかにそういうと、何の脈絡もなく食卓へと歩いて行った。そしてすぐに戻ってくると、あたしにどこにでも売っているノートを渡した。
「これね、さっきたまたまおじいちゃんの机の引き出しから見つけたの」
あたしも見覚えがある、おじいちゃんの日記だった。
「中身は見ないようにしようと思っていたんだけど、一緒に暮らしてたあーちゃんなら、見てもいいんじゃないかって」
「ありがとう、ございます」
夕べあんな夢を見てしまったせいで、ノートを受け取るのを少しためらってしまった。でも、おばさんが心配そうにこっちを覗き込んできたから、仕方なく受け取った。
少しだけ読んで、おじいちゃんの棺に入れよう。そう考え、和室に戻ってノートを開く。
「……何、これ」
そこには短く、しかし毎日欠かさず、あたしとの生活が記されていた。
20xx年、x月x日。明純が風邪を引いた。病院へ連れて行こうと思ったが、一人で大丈夫と言っていた。早く治るか不安。
20xx年、o月o日。明純が街の高校へ行くために引っ越しの準備をした。向こうでしっかり生活できるか心配。
何ページも続くおじいちゃんの思いを知り、あたしは肺が締め付けられるような錯覚を覚えた。なんだ、おじいちゃんがあたしを愛してないんじゃない。あたしがおじいちゃんを避けてたんだ。後ろめたい気持ちが、津波のように押し寄せてきた。後悔しても遅い。もう、謝る相手は、感謝すべき相手は、どこにもいないのだ。ノートに涙が零れ落ちて、
暗いしみをつくった。そこで自分が泣いていることに気づいた。あとはもう、声を押し殺してひたすら泣いた。
――受け取めようとしない者には、伝わるものも伝わることはないのだよ。
「……ごめ、なさ」
あたしは何も受け止めようとしていなかった。それが悔しくて悲しくて申し訳なくて、あたしは言葉にならない声で謝り続けた。
どこから入ってきたのか、蝶が部屋の中をひらひらと舞っていた。黒と青の美しいそれは、棺の端にとまり、やがてどこかへ姿を消した。
月と鎮魂歌 ニル @HerSun
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