第6話

 九月のある日、老婆はいつものように畑仕事に精を出していた。

 息子夫婦と連絡がつかなくなって、どれくらいの時が経ったのか。老婆には見当もつかない。悲しくはあったが、高齢の自分には生活を維持するのが精一杯だった。

 その日も八月の残滓である日射しが照りつけ、老婆は元々少ない体力を消耗しきっていた。

 今日はもう止めよう。そう考えた老婆は重い腰を上げて家に帰った。

 家に着くと、老婆はすぐに汗を流して洗濯機に服を放り込んだ。着替え終わった老婆は小さなリビングに腰を落ち着けると、リモコンのスイッチを押した。


「……車田首相の発表によりますと、自衛隊による安全区域の拡張は現在のところ順調に進み、来年三月までには藤波市全体の安全区域化が終了すると……」

「……」


 老婆は無言でテレビを見ていた。彼女の家は藤波市の郊外にあり、二キロほど北上すると別の市に入る。それでも電気とガスと水道が通っているというのは、まことに国の努力が功を奏したのだと老婆は考えていた。

 不意に玄関からピンポンの音が鳴った。最後に聞いたのは半年前に息子夫婦と孫がやって来た時だろうか。


「今行きますよ」


 弱々しい声で一人言を口にすると、老婆は玄関に向かった。


「誰ですか……」


 引き戸を開けた老婆が目にしたのは、息子夫婦とその孫だった。


「あれぇ、生きてた?!」

「母さん!」


 老婆と息子は抱き合い、互いの無事を心から喜んだ。感動の再会を演出した張本人たちは、かれらの後ろで車に乗っていた。


「……今日の仕事はこれで終わり?」

「いいえ。この地区を回って、転化者を見つけたら排除する仕事が残ってるわ」

「最悪」


 ハルとユノだった。二人は柊機関のエージェントとして様々な任務に従事していた。



 短い、ほんの短い時が過ぎ去った。

 その間にも、人々は生き残るために様々な方策を実行に移していた。

 日本は、首都圏の藤波市を確保し、そこを中心として国の復興を始めることにした。

 パンデミック前の政権で唯一生き残っていた車田ユキヒロ文部科学大臣を首班とした臨時政府は、奪還された藤波市庁舎で地固めに奔走している。

 アメリカからやって来た軍産複合企業カサンドラ・テック・インダストリー(KTI)と自衛隊は協定を結び、共に治安維持と生存者の救出に勤しんでいた。

 これらの動きには、全て柊機関という機密組織が介在していた。〝国家の維持〟を目的として発足されたこの組織は、人間をおぞましい怪物へと変貌させるウイルスがパンデミックを起こした後も、日本を存続させるために活動していた。

 そんな中、藤波市の高校生だった夕凪ゆうなぎハルは、片想いの相手である柊ユノに連れられ、社会の裏側の存在と邂逅した。

 一般人としては非凡な才覚を示したハルは、すぐに柊機関に迎い入れられた。一員となってまだ日は浅いが、ハルは忙しい日々を過ごしている。


「こんな郊外にって思ったけど、やっぱりいるんだね」


 よろよろと動く転化者を目の前にして、ハルは拳銃を構えた。


「この家は事前調査によると一家全滅の可能性があるわ。人数は五人」

「じゃあまずは一人目だな」


 ハルは拳銃のトリガーを引く。サプレッサーによって抑制された銃声が二つ。

 転化者が倒れると、それに呼応するように家中からうめき声が聞こえ始めた。


「かわいそうに。餌も無いのにずっと家にこもってたのか」

「私たちが餌になる可能性は考えてないの?」

「そんな簡単に死んでたまるか!」


 自分を勇気づけるように大声を出し、ハルはトリガーを引き続ける。ユノも迫り来る転化者にキックを食らわせ、倒れたところに銃弾を叩き込んだ。

 二人の連携ぶりは機関でも評判だった。まるで物心つく前から一緒だったかのように、二人は息を合わせることができる。

 これには教育係のヒースたちも認めるところだった。ヒースたちはKTIの戦闘部隊としてアメリカからはるばる日本にまで来ていた。


「二人の活躍でハリウッド映画が一本作れるんじゃないか?」


 ヒースの部下、ビクターの口癖だ。ビクターはハルの射撃教官を務め、物覚えの良い生徒を面白そうに見ていた。


「それならあなたが悪役として登場すれば良い。麻薬密売組織のチンピラとかで」


 いたずらっ子のような無邪気な悪意を込めて言うのは、ビクターの僚友ニールスだった。兄のモーリス共々、ヒースの下で世界中を飛び回り、様々な作戦を成功させてきた手練れである。


「あん? そこはリーダーだろうが。冷酷で、実は暗い過去を持ってるっていう……」

「別に良いですけど、できるんですか? あなたに冷酷なリーダー役が」

「……黙って聞いてれば……」


 ビクターが腕をまくる。ニールスもそれに応えるように拳を構えた。


「二人とも! まだ仕事中だろうが!」


 熱くなったビクターとニールスをなだめる役はモーリスが務めている。彼はヒースの三人の部下で一番真面目で一番まともなため、隙あらば喧嘩をしようとする年少の戦友に目を光らせていた。

 それをいつも面白そうに見ているのはヒースである。本来ならばヒースがビクターとニールスを止めるべきだが、何しろ喧嘩に発展した二人の様子があまりにも面白いので、彼は見物人に徹しているのだった。


「戻りました」


 柊機関本部となった洋館にハルとユノが戻ってきた。二人は建物の地下にある訓練場で喧嘩に発展しそうな先輩たちと出くわした。


「ちょうど良かったぜハル。俺の前にあるアホ面のフランス男をおさえててくれないか? そうしたら一方的にぶん殴れるからよう」

「いいえ。私の前にいる下品の塊こそをおさえなさい。そうしたらもう少し女性にモテるような顔に整形してあげられます」

「やっぱおもしれぇなあ」


 ヒースは笑いを込めて言った。


「やりませんよ、そんなの」

「じゃあユノが」

「断固拒否です」

「しゃあっ、てめえの拳だけでやるかッ!」

「望むところッ!」

「バカ! 暴走するな!」


 取っ組み合いを始めたビクターとニールスにモーリスが割って入る。端から見ると乱闘にしか見えない。が、ハルとユノはいつものことだとして放置した。


「ところで、最近はお母さんと会っているの?」


 私室に入ったユノは、櫛で髪を整えながらハルに訊ねた。


「うん。最近は結構会う機会があるよ」


 ハルの母親であるルミは、藤波市の自衛隊駐屯地である藤波駐屯地で看護師として働いていた。ハルは週に数回藤波駐屯地に赴き、母親との時間を過ごしている。

 ルミには〝学校が行っているボランティア〟に参加していると言っているが、ハルには母が自分の嘘を見抜いている気がした。駐屯地には有原学園の生徒が何人か避難生活を送っているし、どんなに誤魔化そうとしても硝煙の匂いは消せないからだ。

 しかしルミは息子が何をしているかは全く訊いてこなかった。いけないことだとは分かっているが、ハルはそれに甘えていた。


「今はありがたく甘えておきなさい。あなたは組織の一員として能力を発揮する義務があるんだから」

「うん……」

「そんな君たちの能力を活用したい事案が発生したんだけどなー」


 声の方に振り向くと、そこには柊トウカがいた。柊機関の長であり、ユノの伯父にあたる人物である。


「伯父様……」


 ユノは不愉快な気分を隠そうともしない。ハルは自分のパートナーとトウカの間に感情的対立が存在していることを少し前に知った。それがユノにとってどうしても許せないことをトウカがしでかしたからだということも何となく察知していた。

 だが彼はそれに突っ込まない。そんなことをしたら、きっとユノに永遠に嫌われてしまう。だが、いつかは知ろうと思っている。その時まで、自分とユノが良きパートナーでいられたならの話だが。


「一週間ほど前から変な人たちが来てるんだ」


 図書室に偽装されて作られたブリーフィングルームで、トウカは開口一番そう言った。


「もう少し詳しく言ってください」


 うなるようにユノが言った。


「じゃあ若嶋。お願い」

「はい。これは二日前に撮影された写真です」


 部屋の中央にあるテーブル型モニターに数枚の写真が表示される。


「なんですかこれ」


 ハルは思ったことを素直に口にした。写っていたのは白装束に身体全体を包んだ集団だった。


「端的に言うとね、新興宗教の集団」

「……あまりにもテンプレ過ぎませんか?」

「こういう非常事態に宗教モドキがはびこるのはよくあることだよ」


 トウカは面白そうに言った。


「あまりバカにはしていられません。この集団はかなりの規模を誇っているようで、市外の建物を拠点にしています」


 若嶋が次々と写真を表示する。一同の注目を引いたのは、どこかの山中にある白い建物だった。


「これが集団の根拠地だそうです」

「で、私たちの任務は?」


 待ちきれずユノが訊ねる。


「こいつらの調査だ。安全なら余裕が無いので放っておく。危険だったら……」


 トウカは指鉄砲を撃つフリをした。


「分かりました。こいつらを見つけ次第殲滅ですね」

「違うよ~。これだから反抗期は。ハルくん、ユノから目を離さないでね」

「は、はい……」


 パートナーに睨まれつつ、ハルは返事をした。



 任務を明日に控え、二人は調査の準備を始めていた。


「本当にこんなのを着るの?」


 ユノは専用の塗料で汚された服を気持ち悪そうに眺めた。二人は〝安全を求めてさまよう避難民〟という設定で集団と出会い、そして潜入する手はずだった。


「我慢して。任務のためだよ」

「あなたにそんなこと言われる時が来るなんて思いもしなかったわ」

「俺もユノさんにこんなことを言う日が来るなんて思わなかった」

「……」

「……」


 二人はしばし見つめあった。特に意味も無く。ややあって二人は照れくさくなって顔を背けた。


「明日は早いし、もう寝ようか」

「そうね」


 ハルとユノはそそくさと就寝の準備を始める。元々互いを意識していた二人は、パートナーとなってからますます互いのことが気になっていた。ハルにいたってはもっともっとユノとの関係を深めたいと夢想している。彼女の美しい身体に触れて、その匂いをもっと近くで感じたいという欲求に駆られる時もある。

 だが、今はその時ではない。今はそんな余裕はない。もっと安全になって、もっと生活にゆとりができてからだ。それから全てが始まるのだ。

 一方のユノもハルと同様の思いを胸に秘めていた。初恋というのはこんなにも胸が踊るものなのか。彼と一緒にいるだけで安心感が充足されるようなこの感覚ほど甘美なものはない。できることなら永遠にこんな時間を過ごしたい。

 そのためには、与えられた任務を完璧にこなさなければならない。私と夕凪くんの関係を壊さないためだったら、どんなことだってしてやる。

 二人にとって幸いなのは、互いの目的が互いに良い作用をもたらしているということだった。自然に互いのために行動できている。これが任務の成功率の高さの所以だった。



 翌日はこれ以上ないほどの快晴だった。まるで任務に臨もうとする二人を快く送り出そうとしているかのようだ。


「行ってらっしゃいな~」


 呑気に見送るトウカを背に、ハルとユノは自信を持って歩いていた。


「郊外まで車で移動して、そこからは歩きか」

「大丈夫? へこたれない?」

「ずっと体力作りしてたんだ。今までの俺じゃないよ」

「そう? なら、今回の任務で見させてもらおうかしら」


 世界は滅び去り、人類の時代は終わろうとしている。数百年をかけて築き上げた秩序は霧消し、混沌と暴力が世界を包みつつある。

 しかし、それでも二人の心は晴れ渡っていた。まだ自分たちは負けていないと信じているからだ。

 車に乗ったハルは、エンジンをかけたユノに声をかけた。


「今日も頑張ろうか」

「今日だけじゃなくこれからも頑張りなさい。……冗談。そうね、今日も頑張りましょう」


 車が走り出す。二人分の希望を乗せて。これから先、ハルとユノは今までとは比べ物にならない困難に直面するだろう。しかし二人はそれを苦だとは思わない。自分たちなら、どんな困難でも克服できる。



 パンデミックよりおよそ三ヶ月。人類はまだ敗北していない……。


(終)


 

 


 











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Emergence of Infected(エマージェンス・オブ・インフェクテッド) 不知火 慎 @shirnui007

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