噛み痕に恋の唄。

美澄 そら

噛み痕に恋の唄。



 ――おいおい。


 思わず、嶋田組若頭、東堂とうどう 辰樹たつきは眉間に皺を寄せた。ただでさえ強面だというのに、凄味を増して空気すら重たく感じる。

 眼の前では二十歳になったばかりの小娘が、下から一丁前に睨み上げてくる。

 染めたことのない艶のある処女髪がさらりと胸元を流れていく。東堂の股の間へと挟み込まれた脚は、スカートが際どいところまでたくし上げられ、白い太腿が露わになっている。

 東堂が深く溜め息を吐くと、彼女は柔らかな頬を膨らませた。

 くっきりした二重と、黒曜石を思わせる大きな黒眼。陶器のようなきめ細やかな白い肌、頬はほんのり朱に染まっている。

 嶋田組組長の娘、嶋田 華凜かりんは、二十歳を迎えた花ざかりの女子大生だ。

 まだ、東堂が正式な組員になる前、ランドセルを背負っていた頃からだから、かれこれ十年以上はお世話係をしていたことになる。

 彼女も二十歳になり、やっと手から放れたかと思えばこれだ。

「こんな夜中にどこに行くつもり」

「どこもなにも。仕事ですよ、仕事」

 東堂が邪険に「退いてください」と言えば、華凜は増々頬を膨らませて、左手まで壁に着いて退かないと意思表示する。

 華奢な華凜を無理矢理退かすことなどいとも簡単で、彼女でなければ、こうして進行方向を防がれることに大して意味はない。けれど、彼女は東堂が自分を蔑ろにしてまで強行しないだろうと理解わかっていて行動している。

「お嬢さん」

「急に付き人辞めたと思ったら、若頭になんかなってるし。わたしの付き人そんなに嫌だったってこと?」

「……あんたも大学生になって成人もしたんだ。そろそろ家から離れて、友人やら恋人やら作って楽しむべきだろう」

「そんな言い訳聞きたいんじゃない! 嫌じゃなかったなら、なんで急に距離を取るの」

 東堂は深く息を吐くと、口を噤んだ。

 東堂に返事をする意思がないと察した華凜の表情がくしゃっと歪む。そして隠すように顔が伏せられて、東堂の股の間にあった反抗的な脚は渋々地に降りた。

 東堂は華凜の形のいい頭を慰めるように撫でると、華凜の横をすり抜けた。

 彼女が自分に対して淡い恋心を抱いているのは、知っていた。

 だから、これ以上下手に慰められない。

 東堂は舎弟が回してきた車の後部座席に腰を落ち着けると、煙草を取り出して口に咥えた。

 ジッポライターで火を点けると、深く煙を吸い込む。肺の奥まで満たした煙を吐き出すと、空になった胸が切なくなる。

 蓋をしていた感情が顔を覗かせて、思わず顔が綻びそうになって――また、眉間に深く皺が刻まれた。



 仕事をやっつけて家に帰ってくると、玄関に見覚えのあるベージュのパンプスが揃えて置いてあった。こういう些細なところにも育ちの良さが滲み出ていて、お世話係だった身としては誇らしい。

「兄貴、すいやせん」

 付いてきた舎弟に深く頭を下げられて、背景に起こったことを察する。

「いや、いい。お疲れ」

「はい」

 頭を上げさせて帰らせると、一度玄関を出て煙草を咥えた。ジッポライターを取り出すと、慣れた仕草で火を点ける。

 一服しないと、感情のままに叱ってしまいそうな気がする。

 ここで子供扱いしたら、昼間のやりとりに嘘が生まれる。

 大人になったと手放したはずなのに、まだ子離れ出来てないのは俺の方か。煙草だけではない苦い味が口に広がる。

 酒は飲んでいないので、自分で運転して送ってやるとして……あの小娘が素直に帰るだろうか。

 しかし、無事に帰さなければ、小指が失くなるか破門になるに違いない。あるいは朝日を拝めず海の底か山の中か。

 紫煙が空気に溶けて消えたのを見届けて、もう一度玄関をくぐる。リビングへのドアを開けると、不服そうな顔をした華凜がソファで膝を抱えていた。

「不法侵入ですか」

「ちゃんと開けてもらった」

「あんたに頼まれるアイツらの気持ちにもなってやってくださいよ。もう遅いから送るんで、支度してください」 

「やだ」 

「……まったく。とんだ我儘娘だな」

 ソファの空いている左横に腰掛けると、華凜の体が傾いできて東堂の太股に頭が転がった。黒髪がさらさらと流れていくのが、上質なスーツの布越しにくすぐったい。

 首元が苦しくてネクタイを緩めると、眼の前に垂れたネクタイの先を華凜が食んだ。

 見上げてくる黒曜石を彷彿させる大きな潤んだ眼が、東堂の鋭い眼光と交錯する。

「どこでそんなの、覚えてきたんだか」

 緩くなっていたネクタイが、東堂の首からするりと落ちて、華凜がようやく口から離した。

「……今日はどこに行ってたの? ユキさんのとこ?」

「ちげーよ。アンジュの方でガキが騒いでるから、呼び出されただけだ」

 「ふうん」と返ってきた声は、昼から変わらず不機嫌なままだ。

 仕方がないと髪を梳かすように頭を撫でてやると、華凜は心地良さそうに眼を細めた。ふにゃりと溶けた笑顔は子供の頃と変わらない。指の間を通り抜けていくさらさらの髪の感覚も。

 ほら、まだ大人ぶっているけど子供じゃないか。ランドセルを背負っていた頃と変わらないじゃないか。

 東堂は戸惑っている自分に言い聞かせる。

「辰樹」

「なんすか」

「わたし、辰樹のこと本気で好きよ」

 伸びてきた指先が、東堂の輪郭を確かめるように撫でる。

 耳の奥へと甘く響く声はすっかり大人の女性で、東堂の脳を痺れさせる。

 さっきまで子供みたいに我儘言って、嫉妬していたくせに、突然大人の表情を見せやがって。そのアンバランスさに目眩を覚える。

 握り締めた拳が震えた。

「お嬢……」

「辰樹に出会ってひとめぼれしてから、ずっとずっと変わらなかった。これからもずっと辰樹のことを好きな気持ちは変わらないわ。

 だから、もう言い訳して突き放さないで」

 東堂が困って顔を顰めると、華凜は反対に笑顔を見せた。

「一緒に堕ちてよ。わたしを愛して、組も背負って」

「俺の人生を寄越せってか。随分重てぇこと言うじゃねぇか」

「そうよ。ただの恋愛なんて言わせない。あなたの全部が欲しいから、わたしの全部あなたにあげる」

 華凜の告白が、本気で命を賭けているのだと気付いて、胸が苦しくなる。

 組長の大切な娘だから、ずっと大切に見守っていた子供だから。

 もう、そんな理由では踏みとどまれないと気付いてしまった。

 東堂の喉がごくりと音を立てる。

「……こんなジジィ捕まえて、後悔しねぇんだな?」

 答えを聞くつもりはない。華凜の後頭部を左手で持ち上げると、細く白い首に噛み付いた。

 突然の痛みに華凜は体を跳ね、微かに呻き声を上げた。

 東堂が口を離すと、歯型が白い肌に赤黒く浮かぶ。

「堕ちてやるよ、どこまでも。あんたが望むところまで」

 大きな眼から溢れ落ちた涙を辿って、もう一度首筋にキスを落とす。

 そして、舌先で細い顎を辿り、今度は唇に荒々しく吸い付いた。


 



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噛み痕に恋の唄。 美澄 そら @sora_msm

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