祈り

珊瑚水瀬

祈り

「釈迦の御法は天竺に玄奘三蔵弘むとも深沙大王渡さずはこの世の仏法なからまし」「それ、梁塵秘抄の仏歌12種に含まれる深沙大王の歌ね」

 「さすがは、現役日本文化専攻」

 貴方もでしょと告げる彼女の仄暗く煤けたその瞳は、不自然なほどの色白さを引き立てた。微かな音を吐き出したその口元は儚げな危うさを孕み、表情からは積雪の孤独を滲ませている。

 彼女はバスを降りたところで僕に手を差し出した。

 ふと、自分の意思を忘れていたことに目を見開き、自身の細い手先をじろじろと見た。そして小首を横に振ると、おずおずとその手を自分の手元に手繰り寄せ僕に微笑んだ。決して何事もなかったように。

 そのまま彼女が僕の少し前を歩く。僕は彼女の履物の音だけを頼りにそぞろ歩くことしかできない。彼女の仕草を見てどうしようか迷った僕の手だけが、わなわなと生き物のように生々しく震え、それを隠すように手をポケットに突っ込んだ。


 ――静寂。参道のセミの合唱だけがジージィーと小さなコンサートを開き、七日の命を全うしている。生命を体現する夏の青々しさに辛気臭い僕たちは少々浮いているように感じた。それでも、自然はお前も私の一部だと僕たちを取り込んで一つの自然となそうとする。息を吸うと夏めく空の香りが鼻孔をくすぐった。沿道の万緑はまばゆいほどに照らされた太陽を遮り、カーテンの様にそよそよとそよぎながら心地よさを演出する。この風情の優しさが僕たちの心の淵にこびり付いた物悲しさを吹き飛ばしてくれる様だった。


「ねえ、このお店だったね」


 暖簾をくぐり蕎麦屋さんに案内された席に着いた途端、彼女は伸ばしていた背筋を繭のごとくまるめ、そのまま机の上に突っ伏した。僕は携帯している手持ち扇風機を彼女のほんのり火照った頬の近くに持って行った。


「ああー涼しい。良きかな。苦しゅうないぞ」「どこの殿様だよ!」


そのまま子猫の様にゴロゴロと涼むと、僕の目を見つめる。


「初めての告白の時も深大寺のお蕎麦食べてたよね」「うん。縁結びの神様がいるって噂は予々聞いてたから。それにお蕎麦もお団子もという我儘な誰かさんの為にたくさん食べた記憶が」「なーに。嫌味ですか?」「ははっ、違うよ。ただ……ただ幸せだったなって」


 僕の言葉にゆらめく彼女の魂だけがぽつりと雫を落とした気がした。風鈴の音だけがチリンと二人の会話に参加した。少し沈黙が続いた後、彼女は小さな口でわずかな音を紡ぎ出した。「ええ、本当に――残酷なのは私」

 身分の差というのは、いつだって恋仲を引き裂くにはうってつけの題材だ。僕と彼女もそれに準じている。彼女の親は音楽一家だった。父は世界的なヴァイオリニスト、母はソプラノ歌手。世界を転々とする華麗な一族の一人娘が彼女だった。しかし、彼女は音楽には興味を示さず、国語の教師になりたいという夢を持っていた。

各地を転々とし長らく孤独だった彼女が、唯一心のよりどころとしたのが、日本の古語だったかららしい。それを両親は許さなかった。彼女は果敢に立ち向かったが、最終的にはどう足掻いても彼女は音楽家の人間と結婚をしなくてはいけなくなった。この血筋を途絶えさせないこと。それこそが国語の教師になっても良いという両親の条件であったからだ。――夢を捨てるか僕を捨てるか。音楽を一切しない地味大学生の僕だと彼女と付き合う前から、終わりは見えていた。期限は一年。

 それでも良い?私一年後、どちらにしても日本を離れるから。大量の蕎麦を口に詰め込んで喉がつまって声が震えていた僕が告白したその日に、彼女から淡々と告白された。少しの間でも彼女のそばにいられるなら、それでも良いと思っていた。だが、彼女といるのは泡沫の日々だった。掴んでもつかんでも手に入れることは決してできない。彼女もまたそれに気付きながら、言い出せず心のうちに深い湖をためていた。今日は、彼女と過ごす最後の日だった。だからこそ、どうしてもこの始まりの寺に来たかった、いや来なければならなかった。

――初めては縁結びのために、最後は祈りのために。

 彼女が僕の部屋で語った夢の日々を実現して輝く姿を思い描く。しかし、そうなると永遠に僕らには夏は来ない。その事実が僕の心を掻き乱し、時計の秒針を睨みつけるというみみっちい行為に至らしめる。


「はい、盛り蕎麦二人前ね」


 トンと目の前に出てきた蕎麦は、あの日のままだった。蕎麦が自然光に乱反射してぬらりぬらりと輝きを放つ。そばつゆが底まで透けて煌めく海を彷彿させ、僕の唾液腺を刺激する。良い香りだ。蕎麦の香りは不思議と僕たちを当時の記憶に引き戻すかのようだった。日本の家屋で過ごした日々とその深淵の歴史を思い出させる香り。水の心地よい響きに誘われながら一口口に含む。

 ほどよい弾性とピリリと効いた薬味が良いコントラストになり、鼻から抜ける蕎麦だしとの相性の良さが顔全体に綻びを与える。彼女の方はずるずると音を立てさせながら一思いに掬っては一音一音噛み締めるように小さく美味しいと呟いた。段々と蕎麦がなくなるにつれて僕たちの終焉の気配がして美味しいそばに哀愁が混じる。彼女が食べながら、ぽとぽとと雫を蕎麦の上に落とした。「ど、どうした?」

慌てふためいた僕に彼女は手で静止し、ティッシュペーパーを自身の鞄から徐に取り出す。

「ううん、違うの。ちょっと辛かったかな」

 へへっと満面の笑みを浮かべる彼女は、晴れた空の上でぽつぽつと堰き止められなくなくなった雨を静かに降らしているようだった。「もう食べ切っちゃおう」

 赤くなった目を擦り、朗らかに彼女は言い切るとそのまま思いっきり啜った。それを聞いた僕も最後の一麺を一思いに喉の奥に押し込んだ。「この後の蕎麦湯が絶品なんだよね」

食べ終わった彼女は、もう泣きはしなかった。前だけを必死に向いて蕎麦湯を心ゆくまで飲み干していた。

 外に出ると、そよ風とともにもわっとした夏の大気が全身を包み込み、太陽がジリジリと皮膚を焦がす。緑のにおいが一層濃くなったような気がした。急に風が騒めき立ち、僕たちの髪の毛を揺らす。彼女のワンピースが風を一身に受け止めひらひらと舞う。山門前、見えない誰かがこちらへおいでと朧げに手招している様だった。彼女は誰かに導かれるように山門を抜けてわき道に逸れる。引かれるままにたどり着いたのは、深沙堂だった。

「ここが、深大寺の深沙大王が祭られている場所。前も来た?」深大寺にある深沙大王についての説明をちょんちょんと指さす。「ああ、僕はここに来るために今日来たんだ」

――深沙大王にまつわる縁起の中にこのような伝説がある。

 福満が、郷長右近の娘と恋仲になったことを右近夫妻は悲しみ、娘を湖水中の島にかくまった。悲嘆にくれる福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願すると霊亀の背に乗って右近がいる島に渡ることが出来るようになった。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許した。と。

 僕が恐れ多くも福満だとすると、彼女は右近だ。もしこの伝説が僕たちに奇跡を起こしてくれればと祈りを込めたのが今回の目的だったのだから。

「釈迦の御法は天竺に玄奘三蔵弘むとも深沙大王渡さずはこの世の仏法なからまし」  先ほどバスの中でつぶやいた一言をもう一度歌に乗せて響かせる。


「それ、三蔵法師とも呼ばれる彼が、仏法の教えを得るために天竺を目指した。深沙大王が助けて砂漠を越えさせなければ、この世に仏法はないでしょうね。という意味よね」「うん、諸説はあるけど。玄奘を天竺へ赴く途中で砂漠の難から救ったことから病気、悪厄から身を守ってくださる仏教の守護神として崇め奉られているんだ」「そんな彼が恋愛事まで救ったのだから、凄い神様よね」「ははっ、確かにそうだね。さしずめ、深沙大王へ祈らずば、この二人の愛なからまし。ってところ……かな」

 急に太陽に夏雲がかかり照り陰った。

彼女の眼がぎゅっと真ん中に引きつり、額にしわが寄る。唇は少し戦慄いて彼女の苦痛を一層際立てる。

 もう互いの時計の針は合わないのに、願わずにはいられない彼女に切なさを感じる。心の何かを口にすることすら憚れる。ぬぐっても消え失せない寂しさを埋めるのはこの祈りしか無かった。ゆっくりと目を瞑り、静かにそのまま手を合わせた。願わくば、恋人になれますように。と純粋な僕が一年前にここで祈った事を昨日の事の様に鮮明に思い出す。彼女の幸せそうな笑み、雪に濡れる彼女の苦痛、夜空を覆う果てしない孤独、それでも捨てない一輪の希望。決して忘れないと誓う。

 長い年月を経れば、僕との記憶なぞ薄れていってしまうかもしれない。それでも僕だけは。悲しみや恐れや不安の感情は、ただすべて彼女の幸せへの祈りと嵩じる。――願わくば彼女が幸せになれますように。様々な事を救済してくれた深沙大王なら多少無理を言っても「仕方ねえな」と笑って考えてくれるかもしれない。少しだけ僕の欲を乗せて、一心不乱に彼女の幸せを祈り続ける。

深沙大王へ祈らずば、この二人の愛なからましと

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祈り 珊瑚水瀬 @sheme

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