カップ一杯のコーヒー

 俺の朝は一杯のコーヒーから始まる。


 そうだな、今朝の気分はモカだ。甘みとコクがありフルーティーで爽やかな風味が特徴。今日から9月。まだまだ暑いが月が変わって心機一転、気持ちを引き締めるにはぴったりの豆だ。

 コーヒー豆をスプーンで一杯分計る。一人分なので10グラム。ペーパーフィルターをつけたドリッパーに入れたら、軽くとんとんと底を叩いて粉を広げる。このひと手間が大事だ。何事も簡単に流れるのはいいことではない。基本に忠実、これを守ることがいい仕事をする第一歩だと言えるだろう。完璧なフィルターをコーヒーサーバーに乗せて準備は整った。

 沸騰して少しだけ冷ましたお湯をゆっくりと回しかける。最初はほんの少しだけ。粉全体にお湯が行き渡ったら20秒ほどじっくりと待つ。蒸らし終わったら今度は中央から外に向かってお湯を回しかけていく。この時、フィルターを濡らさないように注意だ。半分ほどお湯を入れたらぽたぽたとお湯が落ちるのを待ち、完全に落ちきる前に次のお湯を足す。こうして粉がお湯を吸って膨らむように数回に分けてかけ、琥珀色のコーヒーが抽出されたら、コーヒーサーバーから温めておいたカップに入れる。


 コーヒー本来の味を楽しむのなら砂糖やミルクは邪道。そうして俺はゆっくりと、ブラックコーヒーを口に含み……


「うげっ! にがっ! まじっ!」

「あんた、何してんの!」


 俺は飲みかけていたコーヒーを、横から伸びてきた女の手によって取り上げられた。


「あ、何すんだよ、俺のコーヒー! 俺のコーヒーなのに!」


 「俺」こと小学校3年生の悟はお母さんにコーヒーカップを取り上げられた。青い陶器製で何も模様が入っていない、落ち着いてコーヒーを飲むのにふさわしい、大人の雰囲気を持つ大事なカップを。


「この間お小遣いで何買ったのかと思ったらこれ? 呆れた!」


 お母さんはコーヒーカップとドリップセットを見ると、軽く目を閉じて首を振る。


「返してよー!」

「もう、仕方ないわね……」


 お母さんはカップのコーヒーを「バトルモンスター」のキャラのついたマグカップに少し入れ、砂糖と牛乳をたっぷり入れて渡してくる。大人のブラックモカが一瞬で子どもの飲みものに成り下がってしまった。


「こんなんコーヒー牛乳じゃないか!」

「子供はそれで十分」


 悟はしぶしぶ受け取ったコーヒーならぬコーヒー牛乳を飲む。悔しいがおいしかった。


「朝から何してんのかと思ったら。今日は始業式でしょ、遅刻するわよ。あらおいしい。うまく入れてるじゃないの」


 悟は取り上げたコーヒーをおいしそうに飲む母親を恨めしそうに見ながらコーヒー牛乳を飲み干すと、しぶしぶのような顔をして家から出た。


 見た目だけはみんなと同じ様に「夏休み終わって悲しい」表情だが、実は心はルンルン(死語)だった。


 教室に入るといた! 悟のマドンナ、担任の絵美えみ先生。

 今日からまた毎日会える。そう、悟の初恋の花房絵美はなふさえみ先生だ。


 夏休み前、ある日のホームルームで、


「みんなの今朝の朝ご飯はなんでしたか? 先生はね」


 と、先生が黒板にこう書いた。


・目玉焼き

・サラダ

・トースト(バター付き)

・コーヒー


「せんせーコーヒーはインスタントですか?」

「はい、ゆかちゃん。先生はドリップコーヒーです」

「ドリップって?」

「えっとね」


 そうして先生が説明してくれたのが「ドリップコーヒー」で先生は「ブラック」で飲むと言った。それで悟はどうしても先生と同じブラックコーヒーが飲んでみたくなり、お母さんにコーヒーが飲みたいと頼んだのが、


「子供にカフェインはよくない」


 と、飲ませてくれなかったのだ。


 なので悟はためたお小遣いでコーヒーのドリッパーセットと豆を買った。今は100均で全部揃う。便利な時代になったものだ。もっとも、100円でなかった物もあったので、思った以上の散財にはなったが、絵美先生と同じ朝を迎えるためにはそんなものなんてことない。


 入れ方はネットで調べた。何度も何度も繰り返し入れ方を読んで勉強し、今では何も見なくても完全に手順を覚えてしまった。


「先生と再会できる始業式の朝、入れて飲むぞ。そうしたら……」


『あら、悟君ってコーヒーに詳しいのね、素敵だわ~」


 先生がそう言ってキラキラした目で褒めてくれる。いや、うっとりとした目で自分を見てくれる。そう想像するだけで悟の顔は全体的にだら~んと下に垂れるようだった。


 だけど大失敗だった。なんでコーヒーってあんなに苦いんだろう。砂糖とミルクを入れたコーヒー牛乳はおいしいのに、なんで大人はあんなものをおいしいと言うのか全く理解できない。


 悟は先生とコーヒーの話をできなかったことを心底残念に思いながら2学期初日を過ごし、「終わりの会」を迎えた。


「みんなーちょっと聞いて、みんなに報告することがあります」


 教室中のみんなが先生に注目した。


「えっと、先生は、夏休みに、名字が変わりました」


 え、どういうこと?


「ええっと、先生は結婚をして、旦那さんの名字の」


 と先生は赤くなった顔を隠すようにさっと背中を向け、黒板に漢字で「山形」その横にひらがなで「やまがた」と書き、


「に、なりました」


 と報告した。


 なんだって?


「わあっ、先生結婚したの!」

「おめでとうございます!」


 先生の言葉に重ねるように教室中が大騒ぎ。


「先生の旦那さんどんな人?」

「いつから付き合ってたの?」

「旦那さんのどこが好き?」


 主に女子が中心となって、そんな質問を先生にぶつけてはキャッキャと喜んでいる。


(何がそんなにうれしいんだよ……)


 悟は雪だるまのようの固まってしまって動けない。教室の中の騒ぎももう何も耳に入ってこない。


(嘘だ……)

 

 いつか、悟が大人になったら先生に「結婚してください」って言うつもりだったのに。


 先生は、少し赤くなって、それでも教師らしく「静かにー」とかなんとか言ってから、


「ありがとう。それでね、新婚旅行のお土産です」


 そう言ってみんなの机の上にお土産を一つずつ置いていってくれた。もちろん悟の机の上にも。


「学校で食べちゃだめよー持って帰ってね」


 にこにこしている先生はとってもきれいだった。


 でも悟はどうやって家まで帰ったか分からない。


 悟は家に帰るとランドセルをテーブルの上にどんと音を立てて置いた。


「絵美先生結婚したんですってね。お土産もらったんでしょ」


 お母さんが誰に聞いたのかスマホをかざしてそう言うので、悟は嫌そうにランドセルから出して見せた。


「よかったわねえ」


(よくないよ)


「早く食べないとお兄ちゃんに取られちゃうわよ」


 新婚旅行のお土産なんぞ見るのも嫌だったが、先生にもらったチョコをお兄ちゃんに取られるのはもっと嫌だ。それで悟は金の文字がある黒い包み紙を破り、いやいや口に入れてみた。


 チョコは口の中でほろっと溶け、中からナッツが出てくる。


「苦い……」


 どうしてかな、甘いはずのチョコが苦くて苦くて涙が出てきた。


 悟は黙って泣きながらチョコを一つ食べ終えた。

 お母さんはその様子をじっと見て、なんだかピンと来たようだ。


 次の朝、


「あれ、お母さんこれなに?」


 お兄ちゃんが聞いたのは黒い液体。


「ノンカフェインコーヒーって言うの、これなら子供も飲めるから」


 悟にもカップに入れて出してくれる。


「いつか悟もブラックをおいしいと思うかも知れないけど、まだ今はこれ」


 と、ガムシロップを入れてくれた。


 苦いはずのコーヒーが、ほんのり口の中で甘く広がって、悟はちょっぴり大人になった気がした。



※「カクヨム」の「クロノヒョウさんの自主企画・2000文字以内でお題に挑戦」の「第28回お題・カップ一杯のコーヒー」の参加作品です。

2022年9月22日発表作品になります。


ストーリーはそのままですが、多少の加筆修正をしてあります。


元の作品は以下になります。

よろしければ読み比べてみてください。


https://kakuyomu.jp/works/16817330647584687344/episodes/16817330647584762441

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