「カップ一杯のコーヒー」(第28回)

小椋夏己

カップ一杯のコーヒー

 一杯のコーヒーから俺の朝は始まる。


 コーヒーサーバーにフィルターをつけたドリッパーを乗せたらコーヒー豆をスプーンで測って一杯分。

 沸騰して少しだけ冷ましたお湯をゆっくりと回し、粉がお湯を吸って膨らむように数回に分けてかけ、コーヒーが抽出されたら、温めておいたカップに入れる。


 コーヒー本来の味を楽しむのなら砂糖やミルクは邪道だ。

 そうして俺はゆっくりと、ブラックコーヒーを口に含み……


「うげっ! にがっ! まじっ!」

「あんた何してんの」


 小学校3年になる悟はお母さんにコーヒーカップを取り上げられた。


「あ、何すんだよ、俺のコーヒー! 俺のコーヒーなのに!」

「この間お小遣いで何買ったのかと思ったらこれ? 呆れた!」


 お母さんはドリップセットを見て首を振る。


「返してよー!」

「もう、仕方ないわね……」


 お母さんはカップのコーヒーを「バトルモンスター」のキャラのついたマグカップに少し入れ、砂糖と牛乳をたっぷり入れて渡してくれた。


「こんなんコーヒー牛乳じゃないか!」

「子供はそれで十分」


 悟はしぶしぶ受け取ったコーヒーならぬコーヒー牛乳を飲む。

 悔しいがおいしかった。


「朝から何してんのかと思ったら。今日は始業式でしょ、遅刻するわよ」


 悟はコーヒー牛乳を飲み干すと、しぶしぶのような顔をして家から出た。


 見た目だけはみんなと同じ様に「夏休み終わって悲しい」表情だが、実は心はルンルン(死語)だった。


 教室に入るといた!

 悟のマドンナ、担任の絵美えみ先生。

 今日からまた毎日会える。

 そう、悟の初恋の花房絵美はなふさえみ先生だ。


 夏休み前、ある日のホームルームで、


「みんなの今朝の朝ご飯はなんでしたか? 先生はね」


 と、先生が黒板にこう書いた。


・目玉焼き

・サラダ

・トースト(バター付き)

・コーヒー


「せんせーコーヒーはインスタントですか?」

「はい、ゆかちゃん。先生はドリップコーヒーです」

「ドリップって?」

「えっとね」


 そうして先生が説明してくれたのが「ドリップコーヒー」で先生は「ブラック」で飲むと言った。

 それで悟はどうしても先生と同じブラックコーヒーが飲んでみたくなり、お母さんにコーヒーが飲みたいと頼んだのが、


「子供にカフェインはよくない」


 と、飲ませてくれなかった。


 なので悟はためたお小遣いでコーヒーのドリッパーセットと豆を買った。

 入れ方はネットで調べ、先生と再会できる始業式の朝、入れてみた。

 学校に行ったら先生とコーヒーの話ができる、そう思って。


 だけど大失敗だった。

 なんでコーヒーってあんなに苦いんだろう。


 悟は先生とコーヒーの話をできなかったことを心底残念に思いながら「終わりの会」を迎えた。


「みんなーちょっと聞いて、みんなに報告することがあります」


 教室中のみんなが先生に注目した。


「えっと、先生は、夏休みに、名字が変わりました」


 え、どういうこと?


「ええっと、先生は結婚をして、旦那さんの名字の」


 と先生は黒板に漢字で「山形」その横にひらがなで「やまがた」と書き、


「に、なりました」

「わあっ、先生結婚したの!」

「おめでとうございます!」


 先生の言葉に重ねるように大騒ぎになった。


 悟は雪だるまのようの固まってしまって動けない。


(嘘だ……)

 

 いつか、悟が大人になったら先生に「結婚してください」って言うつもりだったのに。


 先生は、少し赤くなってみんなにお礼を言うと、


「ありがとう。それでね、新婚旅行のお土産です」


 そう言ってみんなの机の上にお土産を一つずつ置いていってくれた。

 もちろん悟の机の上にも。


「学校で食べちゃだめよー持って帰ってね」


 にこにこしている先生はとってもきれいだった。


 でも悟はどうやって家まで帰ったか分からない。


 悟は家に帰るとランドセルをテーブルの上にどんと音を立てて置いた。


「絵美先生結婚したんですってね。お土産もらったんでしょ」


 お母さんが誰に聞いたのかスマホをかざしてそう言うので、悟は嫌そうにランドセルから出して見せた。


「よかったわねえ」


(よくないよ)


「早く食べないとお兄ちゃんに取られちゃうわよ」


 新婚旅行のお土産なんぞ見るのも嫌だったが、先生にもらったチョコをお兄ちゃんに取られるのはもっと嫌だ。

 それで悟は金の文字がある黒い包み紙を破り、いやいや口に入れてみた。


 チョコは口の中でほろっと溶け、中からナッツが出てくる。


「苦い……」


 どうしてかな、甘いはずのチョコが苦くて苦くて涙が出てきた。

 悟は黙って泣きながらチョコを一つ食べ終えた。

 お母さんはその様子をじっと見て、なんだかピンと来たようだ。


 次の朝、


「あれ、お母さんこれなに?」


 お兄ちゃんが聞いたのは黒い液体。


「ノンカフェインコーヒーって言うの、これなら子供も飲めるから」


 悟にもカップに入れて出してくれる。


「いつか悟もブラックをおいしいと思うかも知れないけど、まだ今はこれ」


 と、ガムシロップを入れてくれた。


 苦いはずのコーヒーが、ほんのり口の中で甘く広がって、悟はちょっぴり大人になった気がした。

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「カップ一杯のコーヒー」(第28回) 小椋夏己 @oguranatuki

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