第8話 女装
一心が事務所で浅草署の丘頭警部から捜査状況を聞いていると、三階から美紗が下りてきた。
「おぅ親父、杉田彩花を尾行してる男見つけた。行員だ」
テーブルに置かれた写真を見ると、銀行の行員出口付近、浅草雷門付近、もう一か所はショッピングモールの店内の監視カメラの写真だった。
「名前は?」一心が訊くと「人事台帳から瀬田だとわかった。名前は解像度悪くて読めんかったから銀行へ行って訊いてくれ」
「美紗、ありがとう。早速私が確認する」そう応じたのは丘頭警部だった。
言うより早く事務所の階段を駆け下りて行った。
「それから、荒川の海道彰の事件で八月末前後一週間川沿いの道十キロ範囲にあった十台の監視カメラの映像を確認したけど、海道彰が運転する車に同乗していた男の姿は写って無かった」
「二十四時間チェックしたのか?」
「当たり前だ。だから、監視カメラのない道を、歩いたか予め車を用意していた車で走ったのか分かんないが、何処かに姿を消した。あるいは、川を泳いだか?」
「現場にタイヤ痕しかなかったようだし、泳いだか……」
美紗の「泳いだ」と言う言葉を一心は考えていなかったが、有り得るなと思った。
「親父、想像より現場へ行って見てみないか? 何か気付くかもよ。俺が、ふふっ」
「何でお前なのよ。俺が気付くだろう?」
「まぁまぁ、喧嘩せぇへんで仲良く行ったらどないなん?」
いつの間にか静がやり取りを聞いていたようだ。
事務所を出て一時間、現場付近に着いた。
「親父、川に入って見ないと分からんじゃないの?」
そう言いながらも岸辺の草をかき分けながら歩いていると「あれ?」
美紗が素っ頓狂な声をあげる。
「なんかあったか?」
「おぅ、この杭ってボートを繋ぐやつじゃないか? ほら擦れた跡が残ってる。
「美紗、触るな。あとでそれが物証になるかもしれん。そっかぁ、ボートで川を下ったら監視カメラには写らんか……」
即、一心は丘頭警部に一報を入れた。
「美紗、鑑識連れてくるからちょっと待ってよう」
三十分ほどして警部と鑑識らがきた。
「良く見つけたな。私もボートは頭に無かった。下流域を捜索するわ。ありがとう」
「美紗、褒められたぞ」
「へへっ、俺がくれば、ざっとこんなもんだ」
またしても鼻高々な美紗。父親としては嬉しいが、一緒に現場を捜索したものからすれば悔しい。
現場は荒川と言っても埼玉県。東京湾までは三十キロほどあるからそう簡単に発見できるとは限らないし、東京湾へ出てしまったら発見は無理だろう。
それに道路からすべてを見渡せるわけではないから警察もボートを浮かべて三十キロ探す必要がある。時間のかかる作業だ。
事務所に戻った一心に丘頭警部から電話が入った。
瀬田と言う行員は名前を勇気(ゆうき)と言ってシステムエンジニアとしては優秀らしく多少の問題は銀行も目をつぶってたらしい。
浅草の瀬田の住むアパートの部屋に入ると、天井や壁に隙間が無いくらい杉田彩花の写真が貼ってあって驚いたと言う。
だが、それだけは無かった。ほかの女性行員も多数写真を撮られていたし、中には駅の階段やエスカレーターでスカートを下から盗撮したらしいものまである。
これから事件当日の行動を問い詰めて行くと言っていた。
翌日、また美紗がにやにやしながら自慢気に写真をちらつかせ事務所でコーヒーを啜っている一心の向いに座った。
「数馬から行員の歩く姿の映像を貰ったのでマッチングして、一心、見つけた」美紗はそれだけ言って数枚の写真をテーブルに並べる。
ホテルだろうか、ガラスの自動ドアが開いていて女性がひとり入ってくるところを写したものだ。
もう一枚は同じ場所で女性が外へ出るところだ。
最後の一枚は邦日銀行のストーカー男で今丘頭警部が取調べしている瀬田の免許証の写真だ。
「なんだこれ? この女と瀬田の関係は?」
一心が訊くと美紗が大笑いする。
「はぁ、何おかしい?」
「ふふん、それが同一人物だったのさ。顔のマッチングアプリじゃ分からんかったが、歩行マッチングアプリで見つけたのよ」
「えーーっ、だって、こっち女だぞ!」声が大きくなり過ぎちゃって裏から家族がぞろぞろ出てきた。
「どないしはったん?」家事をやってたんだろう割烹着姿の静が言う。
「どうもこうも、男と女が同一人だって美紗が言うからよ、ちょっと驚いてたんだ」
静もそれを見て「ほんまやわ、これ同じおひとなんか?」
「あぁ、歩行マッチングアプリがそう言う答えを出したんだ」
「そーかー、なら、そうなんやろな」
「だから、一心、桃子はんとこへ持っていきよし」静の真似をして美紗がふざけて言った。
「あら、あてそんな変な声でしたかいな……ふふふ」静が軽くいなした。
「じゃ行ってくるな」
一心はいなされた時の美紗のふくれっ面が可笑しくて思い切り吹き出すところだったが堪えて階段を駆け下りた。
そして道路を歩きながら「ぎゃははっ」と笑ってやった。
「一心どうした? なんか嬉しそうに」一心のにやついた顔を見て丘頭警部が言った。
応接テーブルに写真を置いて「いや、何でもない。これ杉田彩花のストーカーの写真だ。あのホテルへ行ってる」
写真に手を伸ばした丘頭警部が不思議そうな顔をする。そして一心に視線を走らせ「何これ、男の写真が瀬田だと分かるけど、この女もそうだという訳?」
「あぁ美紗の歩行マッチングアプリの判定結果だ」
「そういうこと。瀬田はこの変装に自信があって俺は知らない。行ってないなんて言ってるのね。わかった。ありがとう、とっちめてやるわ」
丘頭警部はにこりと笑みを残してさっそうと取調室の方へ歩いて行った。
一心はその後ろをついてゆきマジックミラー越に取調べ状況を見させてもらう。
丘頭警部が早速写真を瀬田の目の前に並べる。
瀬田は平然として「この女誰よ、俺知らんぞ」
「とぼけないで、この女があんただってスーパーコンピューターがはじき出した。顔だけじゃなくて監視カメラに写ってるこの女の歩く姿と銀行にあんたが出勤したときの歩く姿が同じだってコンピューターが言ってんだ。
それに、このホテルから出るところの写真は、ほら日付みて、殺害事件のあった翌朝の七時七分でしょ」
丘頭警部は指をさして瀬田に見せつけている。
「ほれ、今迄みたいにあーだこーだ言ってみなさいよ」
瀬田が落ち着かなくなってきた。
「落としたな」一心が呟く。
一緒に見ていた刑事が「あれ、一心さんの提供ですか?」と訊いてきた。
「あぁうちの美紗というスーパーコンピューターが発見したんだ」一心は自慢げに言う。
「さすがですねぇ」
「取り調べ終わったら、警部はあんたらにホテルへ行って女の写真をみせてその日泊ってるか確認して来いって言うぞ、そしてその部屋の指紋でも頭髪でも見つけて来いってな。日にち経ってるから無理かもしれんが」
「そ、そうですね。それがでたら状況証拠はばっちりだ」
「しっかりな」一心はそう言って事務所に帰ることにした。
その日遅くに丘頭警部がやって来た。
「こんばんわ。この時間でも暑いねぇ……静、悪いけど冷たい飲み物もらえる?」
どっかとソファに腰を下ろしてタオル地のハンカチで汗を拭う。そして静の差し出した麦茶を一息で飲み干して「瀬田は白だったわ」残念この上ないと言った表情で言う。
「えっだってホテルへ行ってたろ」
「えぇ間違いなく行ってたし、殺害現場の隣の部屋に架空の女の名で泊ってた」
「なら、ストーカーだし状況証拠は揃ったって感じじゃないのか?」
「それがさ、男ってどうしてあーなんだろ」丘頭警部がそう言うと、静もじろっと一心を睨む。
「な、なんだよ。どうしたのよ?」
「確かに隣の部屋で彩花と阿久田の会話を聞いていたらしいのよ。そのうち会話が途切れてベッドに横なるような衣擦れの音がしてきたんだと。それが十時頃。で、好きな女のそんな声聞きたくないと思ってデリヘルの女呼んだそうよ。十一時に来て延長してだと、日付が替わって一時半ころ女を返したと言ったのよ」
「で、その業者に確認したら間違いなく女を派遣してたってか」
「そ、正解。その女も言ってたけど、男は始め隣の部屋の物音を気にしてたけど、自分が話しかけたらいきなり自分に絡みついてきて、しつこくて気持ち悪かった、ってさ」
丘頭警部がそう言うとまたふたりは一心を睨む。
「なによ。俺はそんなことしてないぞ。無実だ。な、静お前は俺を信じるだろ?」
「さぁ、どうでっしゃろ? あやしおすなぁ。せやないか桃子はん?」
「そうだな。特に一心はな。数馬と一助は恋人いるから大丈夫だと思うけど、静がいるのに一心ときたら……」
「おいおい、止めてくれ。冗談じゃない、俺は静一筋だ」
「あらまぁ、一筋やて、……」
「ははーん、一心、どこの飲み屋へ行ってもそう言って女口説いてんな……」
「違うってば、信じてくれよ……」
そこへ美紗が部屋から下りてきた。
「一心なに汗かいて必死に言訳してんのよ」
三対一じゃ勝ち目は無いか……とほほ。
「なーんてな。あー面白かった。ね、静」
「へぇたまに、こんくらいかもうたら、すっきりしまんな」
ふたりは満面の笑顔で麦茶を飲む。
――くそーからかわれただけか……いつか、やってみるかな……密かにほくそ笑む一心だった。
「でよ、上まで聞こえてたけど、あの女犯人じゃなかったのか?」
「そうなのよ。せっかく美紗が調べてくれたんだけど。ただ、ストーカー行為ははっきりしてるから逮捕するわよ」
「そっか、じゃもう一度ホテルの入退館チェックしてみるな。他にも変装女いるかもだからな」
*
皆月冴子(みなつき・さえこ)は夫と中学生の娘との三人暮らしだったが、今年の五月入って夫の様子が可笑しくなった。
明るかった夫が俯き加減で口数が少なくなり、可愛がっていた娘の紗理奈にちょっかいを出すことも無くなり、娘も手持無沙汰な感じで夫を見ていた。
そして二十日銀行から帰宅し夕飯を食べながら話しかけるけど、それには何も答えず「冴子、しばらく家に帰って来れなくなる。誰かに行く先を訊かれても言わないで欲しいからお前に言わないで行く。けど、こっちから連絡はするから心配しないで欲しい。それで一週間ほど旅行する支度をしてくれないか」
悲壮感の籠った表情で言うので、色々言いたいことはあったが、言われるままにバッグに一式を詰め込んで渡すと、夫は冴子を抱きしめて「済まない」そう言って家を出ていった。
それから長かった四カ月が経過した。
時折電話で話すほか、遠くから姿を見せてくれる。
今夜は家を出た理由を話すと夫が言ってくれたのでスマホを握り締めて待っている。
九時を回った時バイブが唸った。
「元気か?」夫の声だ。
「えぇ私も紗理奈も元気よ。あなたは?」
「あぁ一応な」
そう言う夫の声は覇気がなく、とても元気だとは思えない。
「大丈夫なの。帰って来たら色々お世話もできるのに……」
「すまん。実は、銀行の秘密を知ってしまって、その証拠を持ってるんだ。それから誰かに尾行されるようになって、それで狙われてると……だからお前たちの傍に居るとお前たちも危ないと思って姿を消すことにしたんだ」
「えーっ! そんなあなた映画みたいな事って……じゃどうして警察へ行かないの?」
「それは銀行の秘密だから公にするわけにはいかないんだ」
「だって、あなたが狙われてるんでしょ。最近銀行のひとが何人も死んでる。殺されたのかもしれないんでしょ! 嫌よ私、あなたが殺されちゃうなんて!」
「大丈夫だ。絶対に殺されたりはしないよ」
「何言ってんのよ。何人も死んでるでしょ!」
「それはそうだけど……」
「で、どうするつもりしてるの? 一生隠れたままで紗理奈にも会えないであなたそれで良いの?」
「いや、お前達には会いたいし、家に戻りたい……」
「じゃ、私の言う通りにして! その証拠捨てちゃいなさい。そして銀行辞めてあなたの実家の北海道へ行こうよ。そして新しい生活を始めるのよ」
「証拠を捨てても奴らにそれは伝わらない。きっと隠し持ってると思って狙ってくるよ……」
「そっかぁ、じゃ、証拠を銀行に送り返すの。それなら相手にも分かるはず。でしょう?」
「……それはそうだが……」
「何よ、なんかあるの?」
「いや、悪事が闇に葬られてしまう……」
「だって、あなた警察へは行けないんでしょう? 銀行の秘密だからとか言って」
「そうなんだよなぁ……でも、お前の言った事考えて見る。それで、今、居間の電気消してベランダに出てくれ」
「えっ何? どうして?」
「出たら分かる」
夫がやけに自信ありげに言うのでしぶしぶ熱帯夜のベランダに出る。
「出たけど、何も無いわよ……」
道路を見ても夫らしい人影もない。
「真っすぐ前を見て、向いのアパート」
言われるままに見ると、カーテンを掛けずに煌々と明かりをつけている部屋が真正面にあった。そこで誰かが手を振っている。変態かと思った。
「あっパパだ! ぱぱーっ」紗理奈が叫んだ。
「大声出すな!」振っていた手を交差しダメダメと言ってる。夫だ!
「紗理奈、静かに」そう言って娘の口を手で塞いだ。
「どう言う事?」
「お前たちを見たくてここに部屋を借りたんだ。別人の名前でな。だから、こっそりお前たちの顔を見ることができる……」
夫はそう言ってすすり泣いているようだった。
冴子も久しぶりに見る夫の姿に涙が溢れた。紗理奈も冴子にしがみついて泣いている。
「じゃ、毎日、九時になったらベランダに出てみる。あなたも都合が良かったらその時間にベランダに出るかカーテンを開けて……」
「すまん。俺が決断するまでこれで我慢してくれないか?」
「ねぇママ、パパはどうして家に帰れないの?」
「パパね秘密諜報員なの、敵のスパイに見つかると大変。でも紗理奈の顔を見たいのよ。だから、学校へ行ってもこの事言っちゃダメよ。言ったらパパは何処かへ逃げなくちゃいけないからね。分かった?」
紗理奈は頷いたが、こんな子供だましすぐに見破られると思った。
「冴子、お前上手い事言うな。驚いたよ、ははは」
「笑い事じゃない! あなたのせいなんだからね」
「ごめん、悪かった。じゃまた明日な」
暗かった家の雰囲気が少しだけ明るくなった気がする。紗理奈も笑顔で勉強すると言って自分の部屋へ軽い足取りで姿を消した。
静かな部屋でひとりになるとやはり寂しい。
テレビのお笑い番組で主人の好きなコンビが定番のネタをやっている。かつてはその場面でふたりして大笑いになるところだけど、今は、何が可笑しくて笑ったんだろうって思う。虚しくてテレビを消してラジオを掛けてみる。
声を聞いただけですぐにそれとわかるような名の知れた女優がパーソナリティーを務める音楽番組のようだ。リクエストに答える形で色々のジャンルの楽曲を流している。
歌は良い。
心が安らぐ。
でも悲しい歌は何倍にもなって冴子の心に染み入る。涙を浮かべながら聴いている。
片付けをしてベッドに入る前にカーテンの隙間からそっと向いを覗いてみる。
暗がりにぽつんと赤い点が見える。
……たばこの火だと気付いた。
ベランダに出て窓ガラスを閉めて、電話を入れてみる。
「はい」
素っ気ない返事が聞こえた。
「たばこ吸ってるでしょう。ふふふ」悪戯っぽく言う。
「えっ、お前出たのか?」
「寝る前に覗いたら赤い点が見えたのよ。それで、ちょっと外の空気でも吸うかなって……」
「そっか、俺、眠れなくてな」
「ふふっ、家に帰って来たら、私が子守歌でも歌ってあげるわよ」
「そうだな。それなら眠れそうな気がする」
早く帰って来てと言おうとしたら、紗理奈の部屋から物音が聞こえてくる。
「紗理奈が来るから、おやすみあなた」
居間に戻るのと同時に紗理奈の部屋のドアが開いた。
勉強終わったから寝る前に水飲んで顔洗うと言う。
紗理奈が寝るまでと思って音量を絞ってテレビをつけておく。
そしてワインをグラスに三分の一ほど注いで口にする。
平凡そうに見える我が家だけど、夫の身には危険が迫っている。そう思うだけで身体が強張る。
神棚に祈りを捧げて横になった。
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