第4話 胎児の声

 杉田彩花は四年前に邦日銀行の入社式後のレセプションで取締役となっていた阿久田匠に声を掛けられ、すべての持てる力を出し切って近づこうと媚を売った。

阿久田が冗談ぽく「君の連絡先教えてもらえたらこの上なく嬉しいよ」と囁く。すかさず用意していた電話番号に氏名と住所を添えたメモを周りに気付かれぬよう渡した。

吐気がするくらい嫌なのを歯を食いしばって我慢し、無理に笑顔を作って「いつでも連絡ください」

そう囁くと阿久田がにやりと嫌らしい笑みを浮かべる。

 

 それから一年もしないうちに何回かデートを重ね愛人にされた。

五十を過ぎた阿久田はベッドでひと汗かくとすぐ寝入ってしまう。

彩花は会う時は常にナイフをバッグに忍ばせていて、寝入っている阿久田の顔を憎しみを込めて睨みつけて殺ろうとナイフを握るのだが、その瞬間、強烈な電気が頭から足先に向け流れ全身が固まってしまう。

無理に動かそうとしばらく葛藤を続けても身体は動かず、逆に全身汗まみれになってしまい、殺意が薄らいでゆく。

そうすると呪縛が解かれるのだけれど、疲れ切ってしまいナイフをバッグに戻してシャワーを浴びることになる。

そんなことを二回、三回と繰返していて、次こそ絶対に殺すと自分に言い聞かせながら出勤していた。

 

 そんな時に同じ北道大学経営学科の先輩で同じアパートの隣室に住み、毎日のように挨拶を交わしている下高康之(しもたか・やすゆき)に誘われた。

サスペンスが好きだという彼は彩花に「花嫁の死化粧」と言うミステリー映画を一緒に観に行かないかと声をかけてきたのだ。

初めてデートに誘うのにそれは無いだろうと思ったけど、殺人トリックでも参考になればと思い直して頷いた。

 観終わってからレストランで食事をしている時、「付き合って欲しい」と告げられ、彩花は深く考えもせず、映画くらいなら付き合った方が良いかなと思い頷く。

もちろん、「友達として」と前置きは忘れなかった。

 数回映画を観に行った後、食事をしながら互いの感想を話しているとき突然「いつも何考え込んでるの?」と訊かれた。

まさか「殺人トリックを考えて……」なんて言える訳もなく「そう見えたのなら、その時はただぼんやりしてるだけです」と答えておいた。

しかし、会う度に「何か心配事が有るんじゃない? 心ここにあらずって気がするんだけど」とか訊かれる。

何回も繰り返されるのも嫌なので、「実は、私、両親を阿久田取締役に殺されたんです」

下高は凄まじい驚きの表情を浮かべた。

……

「……どう言う事?」

しばしの沈黙の後ようやく彼が口にした言葉だった。

彩花は復讐する為に阿久田に近づき、愛人となって殺すチャンスを窺っていることまで喋り、「だから、下高さんに声をかけて貰って嬉しかったけどお付き合いは出来ないんです。下高さんも嫌でしょう上司の愛人の女なんかと付き合うの。それに人殺しになろうとする女なんか……」

彩花はぜーんぶ告白してすっきりした。「なので、もうこれ切りにして下さい」

何故か涙が零れたが、立ち上がって一礼をし小走りにその場を後にした。

――私、いつの間にか下高さんを好きになっていたのかしら?……部屋に帰っても涙が止まらず彩花はそう思った。

 

 ところが、数日後下高さんに呼び出された。

断ったのだが、どうしてもと譲らないので「じゃ……」と言って何時も利用していたレストランで、コーヒーを啜りながら下高さんの話を聞いた。

「阿久田とホテルへ行くときには普段とまったく違う、例えば派手な色の服装で行くんだ。ウイッグも派手な色のつけて、サングラスにマスク。そして殺害後その姿でホテルを出て渋谷へ行くんだ。で、彩花の良く行く店で俺が予め何か服を買ってそのレシートを渡すからそれをアリバイに使うんだ。そしてそこでその服に着替えて、髪の長さの違う地味なウイッグとかつけてタクシーで帰るんだ。どうだ? こう言うトリックで自分はホテルへは行ってない、ショッピングをしてたと言うんだよ」

彩花はややこしくてよく理解できなかったが、それより下高さんが共犯となってしまうようなことを考えてくれたことに心が震えた。申し訳ないとも思った。

「その話、もう一度ゆっくり聞かないと分からないわ」彩花は迷いながらも殺害後逃げられるのであればそうしたいと思った。あんな男の為に刑務所に入るなんて嫌だった。

「じゃ、……ホテルで話そう。そこなら個室だから絶対に人に訊かれない」

えっと思ったが、仮にそこで何かが起きてもどうせ殺人者になっちゃうんだからその場限り、お礼だと思えば良いか、と覚悟を決めて、頷いた。

 ホテルでは、下高さんが買う服のサイズや色までも細かく決めて、机上で繰り返し手順を確認する。

何回も繰り返して上手くやれる自信がついてきた。

「下高さん、ありがとう、もう大丈夫自信がついた。後は決行の日だけは阿久田の都合に合わせないとね……」

「そうか、良かった。やっと彩花の役に立ったみたいだね」

「ほんとに、ありがと。何でもお礼する」彩花は覚悟して言った。

……

しばらくの間天井を見上げていたが、「じゃ、渋谷の『ボンボンスークレ』ってお菓子屋さんのアップルパイが美味しいって友人が言うんだが男同士じゃ入れないので付き合ってくれ。良いだろう?」と、下高が言った。

「はっ? そんなんで良いの?」

「なんで? お菓子嫌いか?」

「そうじゃなくって、あのー、今、私達、ホテルにいるよね。……」彩花はそれ以上恥ずかしくてもじもじしていると、「あー、分かったぁ……ははは、彩花はセックスしたいんだ」

「な、な、な、なにバカな事言わないでよ」彩花は自分が真っ赤な顔をしているのを感じ必死に否定した。

「彩花、俺さ、彩花の事好きだから、抱きたいとか思うよ、正直。でもさ、今の彩花は俺の事が好きで抱かれたいんじゃ無くって、トリックのお礼する物がないから、自分の身体を好きにしてって感じだろう。そんなの受けたら、俺もあの阿久田のジジィと同じになっちゃうだろう? そんなのは嫌なんだ。……かっこつけ過ぎか?」

「……」何か言おうとしたのだが、言葉が彩花の胸につかえて、出たのは涙だった。

「ありがと……」それだけ言った。

 

 その店ではコーヒーとアップルパイを食べてお土産にケーキをふたつ買った。

「ねぇ家寄ってかない?」帰り道彩花は誘った。

「そう言われてもさ、隣だからさ……」

「あっそっか、あはは……」

「じゃ、一旦帰ってからコーヒー飲みに来て、ケーキご馳走する」

せめてものお礼の積りだった。

 

 彩花は両親が生きていたころの話をした。辛い思い出と重なるから今まで誰にも言ったことは無かったけど、下高さんなら話しても良いかなって思った。

下高さんも子供の頃虐められてた話をしてくれた。死のうとまでしたと言う。

そんな話から始まってしだいに音楽とか映画の話になって彩花が楽しいなと思っていると、「俺の嫁さんになってさ、会社なんて辞めてさ、どっか遠くで暮らせたら良いんだけどなぁ……」下高さんがなんの脈絡もなく突然呟くように言った。

「ごめんなさい。私みたいな汚い女、きっと身体に触るのも嫌でしょう?」反射的に言った。

言ってしまってから、やばっと思ったが、間に合わなかった。

確りと抱きしめられた。

……

明け方になって慌てて下高さんは自宅へ戻って行った。

彩花も慌ててシャワーを浴びた。

心も身体も満たされていた。

――やっぱ、好きな人に抱かれると全然違うなぁ……彩花はまた泣いた。

 

 しばらくの間、彩花は、阿久田が忙しいのか声を掛けてこないので下高と毎日のように部屋を行ったり来たりし、愛をさらに大きく育んでいた。

そして三月、年度替わりの取締役会で定年退職する取締役専務の後任に阿久田が昇進したという異動情報が行内に回覧された。

その日の夕方だった「彩花、今夜は俺のお祝いをしてくれ」

阿久田が満面の笑みを浮かべて彩花に言ってきた。

「今夜こそ絶対に殺してやる」彩花は心の中で何回も、何回も繰り返し叫ぶ。下高さんにも決行を伝えた。

下高さんはどことなく寂しげだったが「頑張れ」と言ってくれた。

 

 夕方、仕事を終えて退行すると真っすぐ花屋へ行った。

赤いバラの中に「復讐」を花言葉に持つシロツメクサと「恨み」を花言葉に持つ黒ゆりを混ぜて綺麗にラップして貰った。

店員は怪訝な顔をして彩花を見たが、きっと険しい表情を見てだろう何も言わずに渡してくれた。

そして用意してあっためちゃくちゃ派手な服装にウイッグつけてサングラスにマスクも忘れずに待ち合わせ場所へ行き、会うとすぐに花束を渡す。

「なんか今日は派手な格好だな。まぁめでたい席だそれも良いだろう。ありがとうな」

思った通り阿久田は単純に花束のプレゼントを喜んでいる。

――今夜が最期の晩餐になるとも知らず、ばかな奴……彩花は心の中で呟いた。

 

 夕食はおすし屋さんで普段は目にすることも出来ないようなご馳走がテーブルに並んでいた。サングラスとマスクを外さないわけには行かず髪で顔を隠すように垂らしておく。

阿久田は昇進を手放しで喜び、彩花の理解できないような難しい話をペラペラと喋り続ける。

彩花の計画なんて思いも寄らないだろうと思うと、何か可笑しくなる。

 

 お決まりのホテルで阿久田がいつも通りにひとりで燃え尽き、寝入る。

「絶対に殺る。胸に力一杯刺す。必ず殺す……」呟きながら彩花は裸のままナイフを持って仰向けに寝ている阿久田に跨る。

ナイフを振りかざして、刺す場所に集中する。

そしてナイフを握る手に力を込めて振り下ろそうとしたその瞬間「待って、ダメ。止めて!」

いつもみたいに電気は走らなかったが誰かの声が聞こえて、ドキッとして周りを見回す。

誰もいるはずもないラブホテルの一室。隠れ部屋など無い。

気のせいだと思い直して、再びナイフを振り上げる。手に力を入れると汗が滴り落ちた。

そして振り下ろそうとした瞬間「待って、ダメ、止めて!」

今度は、はっきりと声を聞いた。

「誰?」

また、部屋の中を見回すが誰もいない。

――きっと、自分の心の中の神様が言ってるんだ……彩花はそう思って、三度目ナイフを構えた。

突然、阿久田が大きな声で寝言を言って、寝返りしようとする。

彩花がその身体を押さえつけると苦しそうな声を上げて阿久田が彩花の身体を押した。

「きゃっ」思わず叫んでしまった。

ベッドから落とされてしまった。

阿久田は身体を横向きにして寝ている。

彩花は、起き上がって、首を切ってしまおうと思いナイフを阿久田の首筋へ当てる。

そのまま力一杯引けば作業は終わる。

そして力を込めた瞬間「止めて! ダメ! 止めて!」

小さな声だけど頭の中に鋭く響く。その声には逆らえない気がする。

もう一度と繰返すと、やはり最後の一瞬「止めて……」

息が切れ、汗だくになってしまった。目に汗が入りどうしようもなくなる。

ずっと力一杯ナイフを握っていたせいか手が震えて止まらなくなった。

仕方なく彩花はナイフをバッグに戻そうとするが、指が固くなって動かせなくなっていた。

左手で右指を一本ずつ伸ばしてナイフを外しバッグへ。

シャワーを熱くして顔にかける。

涙が止めどもなく流れる。

声を上げて泣いた。阿久田に聞かれても良いと思った。

両親のぶら下がっていた遺体を見た時のことが頭を過り、同じくらい思いっきり泣いた。

……

 

 ひとしきり泣いて、諦め、身支度をしていると急に具合が悪くなってきた。

緊張していたせいかとも思ったが、堪え切れずトイレで吐いた。

 

 ひとりホテルを出て、泣きながらアパートに帰った。途中、渋谷で待っている下高さんに中止を告げた。

階段を上ると部屋の前に下高さんが大きな紙袋を持って立っていた。

「どうした。何があった?」

そう聞かれて頭を強く振って「出来なかった。刺そうとしたら誰かが止めてって、何回も、何回も……」

下高の胸に顔を埋めて泣いた。声を上げて泣いた。

部屋に連れて行ってくれて優しく抱きしめてくれた。その胸で一層大きな声を上げて泣いた。

具合の悪さは変わらず続いていた。

「彩花、どうした。具合悪いの?」

声を出せなかった。吐きそうだった。慌ててトイレへ行って吐いた。

 

 それから二日間具合の悪さが治らず、銀行も休んで下高に病院に連れて行って貰った。

検査の結果、「つわりですね。おめでとうございます」と言われた。

彩花は返事ができなかった。

ただ、呆然としていた。

「杉田さん。杉田彩花さん! ……」名を呼ばれ、肩を揺すられて気付いた。

「あっ済みません。あまりに突然だったもんだから……」

診察室を出て待合室へ行くと、心配そうに下高が駆け寄ってきた。

「大丈夫か? どうだった? なんか変な病気じゃ無いよな?」

畳みかけるように言う下高は今にも泣き出しそうな顔をしていて、思わず「ふふふ」彩花は笑ってしまった。

「何? 可笑しい? どうした?」

「落ち着いてください。下高さん、……」彩花はそこまで言って、彼の耳を引っ張って口を近づけ「子供ができた」と告げた。

「えーーっ」下高さんがいきなり大声で叫ぶ。

周囲の人に一斉に注目され、恥ずかしくて頭を下げた。

「嬉しいけど、どうしよう」

彩花はそう言って下高の目をまじまじと見た。

「怒らないで聞いてくれ。……俺の子で良いんだよな?」申し訳なさそうな下高が言った。

下高は気持がすぐ顔に出るタイプ。真に疑って済まないと言う気持がそのまま顔に出ているから、怒れない。

「えぇ、阿久田とはひと月半以上何も無かったから、四週目に入るところってことは初めてアパートで……」

「あぁあの時に出来たんだ。やったぁー」下高がまた叫ぶ。

慌てて下高の口に人差し指を立てた。

 

 ふたりで彩花の部屋に戻り、「コーヒーでも飲もっか」

「ダメダメ、彩花は牛乳かジュースにして」

下高が勝手に彩花の冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出してコップに注ぎ、「はい、身体を大事にしないとね」

笑みを浮かべて言った。

言葉が出なかった。

――こんな人と結婚したら幸せになれるんだろうなぁ……そんな風に彩花は下高を見詰めながら思った。

「ねぇ、止めてと言ったの赤ちゃんじゃない。きっとそうだよ。赤ちゃんが、人殺しなんか自分のお母さんにやって欲しくないと思ったんじゃないかな」

ショックだった。言われてみれば……。

「でも、この子下ろさないと……」彩花が呟く。

「バカ言うんじゃない、せっかくできた子供を下ろすなんて、そんな身勝手許さないぞ!」

えっと思った。これまで彩花を怒ったことなんか無かった下高さんが怒ってる。

「ごめんなさい……」

言った途端に涙がぼろぼろと零れる。

「彩花、こうなったのは運命だと思わないか? だから、もう殺人は止めだ。これからは子供のためにふたりで生きよう。俺も会社辞める。俺の家は千葉で漁師をしてるんだ。まだふたりとも元気で働いてる。そこで彩花が子供産んで家族で育てよう。俺は漁師をやる」

「……」言葉が浮かんでこない。どう言えば良いんだろう……。

「週明け彩花も辞表を出すんだよ。理由は結婚。良いね」

なんか変な気がした。「私、まだプロポーズもされてないのに、結婚なの?」

「ははは、まぁそうかもね。でも、それしか選択肢ないだろう?」

「ありがとう。こんな私で良いの? 汚い女よ……」

「ふん、そんな汚れ、とっくに俺が洗い流した。文句あっか?」

下高の優しさにまた涙が止まらなくなってしまった。

下高の胸に顔を埋めて泣いた。

「だから、結婚してくれ……彩花」下高が囁いた。

彩花はその胸で泣きながら頷いた。

 

 七月の中頃、行内の男女が心中したという事件が起きた、僅かな時間を見つけては女の子が集まってはその話で持ちきりで、警察やら探偵やらが行内をうろついていて異様な雰囲気に包まれていた。

彩花は阿久田に恋人の存在を告げ妊娠し結婚するので銀行を今月一杯で辞めると告げ、辞表は本店長宛てに出したと言った。

「それ俺の子じゃないのか? 結婚なんて嘘ついて、辞めてから認知しろとか養育費寄越せとか言うんじゃないのか、下ろせ! そんな子下ろせ! 産むなんて俺は許さんぞ!」

阿久田がまくし立てる。

何回も同じ説明をしたが、阿久田の主張が変わることは無かった。

「もう、二度とお会いしません」彩花はそう告げて、その後の呼び出しにも一切応じなかった。

その内阿久田から何も言ってこなくなったので、ほっとし下高にもその旨告げた。

七月末になり各部署へ退職の挨拶回りをして、人事部の後専務室へ行った。

綺麗に別れたかった。

「長い間お世話になりました。ありがとうございました」彩花は深く頭を下げた。

「おー、こっちもな。でな、最後に八月の十五日に送別会をしてやる。あのホテルでな。……変な事を考えてるんじゃないんだ。将来の幸せを願って祝ってあげようと思ってな。是非、そうさせてくれ」

どうしようか、一度は断ったがしつこく言われ頷いてしまった。

阿久田には「彼氏には言うな。焼きもちを焼かせてしまうのは申し訳ないからな」

と言われたが、専務室を出てすぐに下高に連絡した。

嫌そうな口ぶりだったが最後だからと言って許してもらった。

ただ、「何かありそうだったらすぐ電話寄越せ、乗り込むから」

と言われ、それで少し安心できた。

それが銀行務めの最後の仕事だと思って割り切ることにした。

 

 

 横里奈美子(よこさと・なみこ)と言う女性が探偵岡引一心のもとを訪ねてきた。

その女性は室蘭で心中の疑いのある死に方をした横里駿太の妻だった。

「夫が私以外の女性と心中なんて考えられません」声を大にして美奈子夫人が言う。

理由を問うと「私は子供を産めないので夫婦二人だけで二十年も暮らしてて、いまだに週末はふたりで遊びに行ったり、買物だったり、泊りがけで出掛けたりいつも一緒だったし、平日だって主人が外泊したことなんて一度も無いし、亡くなった日の翌日には温泉へ行く予定で主人も楽しみだと微笑んでくれていたんです。そんな夫が心中なんて言われて信じられますか?」

すでに警察から聞いていた話しだった。

夫人は身を乗り出してまるで一心を問い詰めるような迫力で訴える。

「それに、亡くなる前の週末だって千葉の温泉付きのお部屋に泊りに行ってきたばかり……」

言いたいことを大方言って一息つくと今度は肩を震わして泣き出した。

随分感情の起伏の激しい女性のようだ。

「それで、俺に真相を突き止めてくれと言うんですね」

「えぇ、私、五年ほど前まで同じ銀行に勤めてましたので、行内の情報はある程度お話できますから聞いてください」

 

 面談後一心は浅草署の丘頭警部を訪れた。

「心中捜査の進展は?」

一心が訊くと丘頭警部は部下を手招きして、「室蘭の件、資料コピーしてきて」と命じた。

「資料に書いてあるけど、女性は妊娠してた。相手は海道彰だと断定されたし海道も認めた。けど、三月には別れたと言ってるわ。私の友達の行員から聞いたんだけど、女性は阿久田専務に海道の子を妊娠しているなんとか取り計らってくれと言いに行ったらしい」

「阿久田は何か関係あんのか?」

「えぇ大銀行には良くある派閥ってやつ、専務派と常務派があって女性は専務派。海道もそうなのよそれで専務から海道に言って欲しかったらしいの」

「別れる理由は父親の持って来た縁談だったな」

「それがさ、あんた滋賀グループって知ってるでしょう?」

「あぁあの飲食から初めて、今じゃ産業の中で参入していない事業が無い位手広くやってる巨大企業グループだろう」

「まぁ大体そんなとこね。その会長の孫娘との縁談が降って湧いてきたようなの」

「海道彰にか、それはすごい」

「えぇそれにグループのメインバンクが邦日銀行な訳よ。で、一層関係を深めたい銀行と拠出金をさらに増額させたいグループの思惑がその縁談になった訳」

「なーる。それじゃ海道も嫌だとは言えないはずだ、納得だな。さらに言えば、身を綺麗にしたいって訳か」

「そ。だから海道側からすれば、盛井淳子は極めて邪魔な存在になっちゃった訳。わーわー騒ぎ出して始末に困った」

「じゃ、海道が殺した可能性が高い。だがよ、相手の男は? 女だけ殺すんならわざわざ心中なんて……」

「そこよ、監査部主査の横里駿太が何故殺されなければならなかったのかが分からないの」

「主査って偉いのか?」

「部長の下らしいわ。だからまあまあ力は有るんじゃない」

「海道と横里の関係は?」

「さっき言った友達の行員が言うには、横里は腹の中で何かを企てているような人物らしいわ。時折専務のとこへ行ってるらしい。けど、元々常務派らしいのよ、何故専務のとこへ行ったのかを本人に訊いても話さない。業務上の事で呼ばれたとかと言ってたらしい」

「そうか、いや今日その横里のカミさんが事務所に来て『主人は不倫なんかするはずありません』って言って、調べてくれって来たんだ」

その後、警部に夫人の言ったことをなるべく正確に伝えた。

「こっちで聞いた話と同じね。その話しが本当なら動機は行内にあるってことになるわね」

「もうひとつ、俺、能登頭取から顧客情報の漏洩について調べてくれと言われてるんだ」

「あぁテレビでも報道されてたわね。でも、よく頭取があんたのこと知ってたわね」

「へへっ、実は近所に住んでて、前から猫の捜索とか頼まれてたんだ。それで……」

「ふーん、頭取に横里の事聞けないかしら?」

 

 事務所に戻って昼食の後、一心は邦日銀行のサプライ品を扱う子会社を訪れた。海道彰はそこの取締役だそうだ。

「探偵? 盛井淳子のことか?」一心が問う前に海道が喋り出した。

「えぇ、亡くなった日の午後五時には百四十キロも離れた温泉にいたということは聞いています」

「なら、あと何聞きたいのよ?」

「監査部の横里駿太さんのことです。ご存じの事をお話頂きたいと……」

「警察にもしつこく訊かれたけど、別会社の人間の事なんか知る訳ないだろう」

「でも、盛井さんは恋人だった」

「あれは、会社とは関係なとこでたまたま知合ったら行員だったって話しだ」

「妊娠しているのを知って嬉しくなかったです?」

「そんなこと今更聞いてどうすんのよ。はーん、俺が誰かに淳子を殺せと言ったとか考えてんだろう」

「いえ、政略結婚の場合互いに愛人がいるなんて良くある話なのに、なんで別れるなんて言ったのかなと思って」

「お前、随分、ずけずけと言うな。俺がどっちを選ぼうが勝手だろ。別れたら、その後子供を産もうが俺にはもう関係のない話だ。あいつが産むと言うなら勝手に産めば良い、けど認知なんかしない。俺は下ろせと言ったんだからな」

海道は貧乏ゆすりをしながら視線をあちこちに走らせ、まったく落ち着きがない。

海道の怒る姿を見てみたいと思った。

「そうですか、アリバイはあるけど殺意もあったという事ですね」

一心は故意に嫌らしく言ってみる。

「ばかやろーっ! 誰がそんな事言った。帰れっ!」怒鳴り散らして海道はさっさと応接室を出ていった。

――ふふふ、やはり笑い飛ばすのではなくマジに怒った。……一心は海道彰と言う人物が分かった気がした。

 

 そこから徒歩五分のところに邦日銀行本社はある。

人事部へ寄って名刺を差し出し頭取に面会を求めた。

「何か分かりましたか」

頭取は笑みを浮かべ言った。

「いえ、今日は別の事件のことできました」

「心中かな?」

「はい、横里駿太さんを殺害するような動機をお持ちの行員がいないかと」

「ふふふ、単刀直入ですな……うちの行員にそんなふとどきな奴がいるはず無い、と言いたいところなんだが、まずあれは心中では無いだろう。盛井は海道の息子の恋人だったはず、横里はかみさん思いの優しいところのある奴なんだが、少々金にうるさいと言うべきか汚いと言うべきか、上司でも誰でも弱点を掴んで飯を奢らせるって彼の同期の行員から聞いたことがある。……どうかな? 参考になったか?」

「過度なご馳走を要求して殺害されたと……」

「ははは、その辺は何ともだな……岡引さんなら追求できるじゃろう」

「いや参考になりました。さすが頭取だけの事はある」

部屋を出ながらこれで調査の方針が見えた。もう一度夫人に会おう……。

 

 それと海道のあの自信は疑問だ。

これまで疑われてアリバイを主張した人間は、あれこれ思いだしながら一生懸命に答えてきたが、海道の場合は予めアリバイを用意していたような言い方だった。ってことは、トリックの可能性がゼロじゃない……一心の探偵の勘がそう言っている。

 

 八月に入り暑さが熱さになって古いクーラーはガーガーと音だけはうるさく、働いているぞって主張しているが効果はさっぱりだ。子供らの部屋にクーラーが有る訳じゃないから美紗は水着に毛の生えたような格好をしているし、ボンズらは上半身裸に海パンのような半ズボン姿。

静だけは着物を脱がない、毎年の事だがその辛抱強さに恐れ入る。

俺はと言えば、ランニングに海パンとしたいところだが来客はいつあるのかも知れないので、開襟シャツに半ズボンだ。

 全員食欲だけは相変わらずだ。なので食後はたっぷり掻いた汗を流すため、順に冷たいシャワーのお世話になっている。

氷をたっぷり浮かせた麦茶を飲みながら「暑い、暑い」と言って扇子で仰ぎテレビを眺めていると、まただ。

「……邦日銀行の行員がホテルで死んでいるのが発見されました。死亡したのは身分証などから、邦日銀行本店で窓口を担当していた杉田彩花さん二十六歳です。警察の発表によれば、ホテルの従業員が、ホテルに宿泊していた杉田さんが朝起きてこないので部屋へ行って、腹にナイフが刺さった状態でベッドの上でぐったりしているところを発見したという事です……」

テレビの中でアナウンサーがうんざりしたような顔をしてペーパーを読んでいる。

「静、まただぞ、また邦日銀行の行員が自殺か他殺か分からんが死んだ」

言うのと同時にスマホの電話帳を開いて……。

 

 丘頭警部が言うには、死因は腹をナイフで刺したことによる失血死。前日の十五日深夜の十一時から十一時半が死亡推定時刻、部屋は専務の阿久田が二名で予約し午後八時からそこで食事をしたらしい。専務の話では杉田が退職するのでお別れ会をし、杉田が酔ったので寝かせ自分は十時にはホテルを出て、行きつけのバーなどで十二時過ぎまで飲んでいたとアリバイを主張しているという事だった。裏はこれから取ると警部は言った。

ただ、使用したナイフが室蘭の心中で使われたものと同じだという。

量産されているナイフなのでたまたまかも知れないとも警部は言った。

 

 翌朝、丘頭警部から連絡が入った。

「昨日は専務を疑ったんだけど、バーのママや従業員以外に専務が乗ったタクシーのカメラでもアリバイの裏付けがとれたし、情交の痕跡も無く、着衣に乱れも無かった。自殺と考えるのが自然かもしれない」

「えーっ、先月心中事件があったばかりだぞ、同じ銀行の行員が二件も続くなんてあり得ないだろう」

「私もそう思うわよ。だけど他殺を疑う様な証拠がないのよ」

「ナイフは心中と同じものだったんだろう?」

「でもね、大量生産されててどこでも売ってるものだから、たまたま一緒だった可能性が高い」

「ただ、解剖の結果妊娠してるのが分かった。それが専務の子だとすれば、産む下ろせの喧嘩の果て、という事は考えられるから今DNA鑑定してもらってるのよ」

「またか、妊娠。邦日銀行って不倫の温床か?」

「ははは、バカ言わないで、行内で事情聴いて回ってるからまた連絡するわね」

気にはなるが、どこからも調査依頼が来てないから動けば自腹という事になってしまう。

――警部の話しからだと事件性は無いようだが……お腹に子がいても自殺するか? ……頭の中で何かが釈然とせずモヤモヤする一心だった。

 

 二日後、依頼者がやって来た。

下高康之と言う邦日銀行のシステム部に勤務する三十四歳の男で、故杉田彩花の彼氏だと名乗った。

「ご依頼は杉田さんの自殺とされている事件の調査ですか?」

一心は待ってましたとばかりに勇んで言った。

「えぇ、先月末で僕も彼女も退職してるんです。僕の実家が漁師をしてるんでそこで子供産んで育てようと話してたんです。それを、阿久田が殺したんだ! 奴は奥さんが大手企業の娘なんで不倫だ妊娠だなんてことがばれたら離婚騒ぎになって、そしたら今の地位にもいられなくなると心配して、……そんな事の為に僕の子供と妻になるひとを殺したんです」

下高は拳を固くして膝に乗せ流れる涙を拭おうともしないで喋る姿でその必死さを表している。

そして「自分がスマホに出ない彩花を心配して夜中から何度もホテルに確認してくれと電話したんだけど、午後の十時半頃食器を片付けに入った時に、係りの者が寝ているのを確認し施錠しているから朝までは無理ですと応じてくれなくて、朝五時にホテルに行って確認してくれと頼んだんだ。

フロントは渋ってたが奥から偉い人が出てきて事情を話したら電話を入れてくれたけど彩花が出なくて、それで一緒に部屋へ行ってドアを叩いたんだけど応答無くて、ドアを開けてもらって一緒に中に入ったら彩花の胸にナイフが刺さったままで、名前を呼んで身体を揺すったけど反応なくて……しばらくして警察が来た。もう八時近かったんじゃないかな、だから俺が電話したときすぐに確認してくれてたらまだ生きてたかもしれないのに……」涙ながらに言った。

さらに細かく話を訊くとお腹の子の父親は下高だというのは間違いなさそうだった。

「誰がどうやって殺害したのか、はっきりさせましょう」

一心はそう言って調査を引き受けた。

 

 その話を丘頭警部に伝えると、丁度良かったと言って捜査状況を教えてくれた。

「DNA鑑定の結果は、愛人関係を認めた阿久田の子では無かった。それを阿久田に伝えた時の顔を一心にも見せたかったわよ。天地がひっくり返ったような顔してた。その下高の子供なんだろうね。一応そっちも鑑定するわ。システム部って言ったわね。それで杉田彩花の遺書がスマホに残されてたのよ。下高に子供を下ろせと言われて喧嘩別れし、生きてく希望が無くなったと言った主旨のね」

「ほう。その阿久田のアリバイは?」

「前にも言ったけど、夜の十時頃フロントに、相手が酔って寝てしまったので鍵を開けっぱなしにしてるから食器類を片付け終わったら鍵を掛けてくれと頼んで、馴染みのバーへ行き、腹が減ったと言って寿司をホステス三人とボックスで食べて飲んで十二時頃タクシーを呼んで貰い帰宅したと彼は言ってるわ。そのバーの裏は取ったし、タクシーのドライブレコーダーにも阿久田が写っていた」

「じゃ、死亡推定が十一時過ぎなら、阿久田は白だな」

「えぇそれに、鍵が室内にあったからフロントで鍵を借りるか、本人がドアを開けるかしないと室内に入れないわ。だから自殺説もありなのよ」

「だけど遺書の内容を考えたら、阿久田と部屋で二人きりで飲食するってのは変だろ。それに彼氏のことは康之と書くんじゃないか?」

「やけになったんじゃないかと捜査会議では結論付けたんだけど……」

「ふふふ、警部、上層部の早く事件を終わらせたいって意向が見えるようだぜ」

「ふふっ、やっぱり一心もそう思う? 当然か……、だから、上司には内緒で他殺の線で捜査してるわ。けど、密室のトリックを解決しないと先へ進むのは難しいわね」

「よくドラマで見る様なトリックは使えないのか?」

「まあ無理ね。ドアの隙間は床との間数ミリしかないし、鍵はベッド脇のテーブルの上に置かれていたのよ、うちにもトリック好きはいるけど無理だと言ってる」

そう言いながら警部が室内の写真を複数枚送って来た。

「それ見て、トリックを思いついたら教えてね」

確かにドアと鍵を直線で結ぶことは出来ない。トイレの陰にベッドがある。

サイドテーブル上には電話とナイトライトのスタンドがあって、鍵は電話の横に置いてあったと食器を片付けたホテルの従業員が証言したし、遺体発見時もそこにあったようだ。

「……出来るんじゃないかなぁ」少し考えて一心は思った。

「えっどうやる?」

「言葉で説明するのは難しいから、現場でやってみたいな。ダメかもしんないぞ」

警部の都合で実験してみることにして電話を切った。

 

 

 夜、丘頭のところへ救急センターから電話が入った。友人の才川鈴子が浅草駅の階段から落ちて怪我をしたという内容だった。本人が連絡して欲しいと言ったらしい。

 

 ベッドで寝ていた鈴子は手と足と頭を包帯で巻かれ、顔にはあざが出来ていた。

「どうしたの?」

鈴子は元浅草署の交通課に勤務していた。丘頭より八つ年下だが気が合って一緒に食事したり飲みにも行った親友。

署内の恋愛問題でいずらくなって辞め、邦日銀行に中途採用されて警察出身という事で監査に回されたのだった。

「実は、誰かに押されたの」

「えっ、なんで? で、その犯人見た?」

「いや、一瞬だったしなんとか落ちるの止めようと必死だったから……」

「そうよねぇ、でもどうして? 何か心当たりある?」

「……今はちょっと言えないんだけど、証拠揃ったら話す。でないと桃子さん動けないでしょう?」

「まあ、そりゃそうだけど、あんた命狙われてるってことだよ」

「えぇ、でもこう見えても元警官です」そう言って鈴子は微笑む。

「そう、なら無理には言わないけど、危ないことはしちゃだめよ。証拠を探すのも私の仕事だからね」

「はい、そう言えば浅草で一緒に働いてた時の写真とか、大学時代のもまとめてアルバムにしてるから、今度見せるわね。懐かしいわよ」

「えぇ是非見たいわ。で、いつまで入院なの?」

「二、三日って言われてるから」

「そう、大事にしてね。それと傷害事件として一応駅の監視カメラチェックする。今日の午後六時十五分頃ね」

 

 丘頭は病院を出て真っすぐ浅草駅事務所へ行って構内に二十カ所ほどある監視カメラの映像をダビングして貰った。

 

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