第16話 ガラスノナカ10
「あの」
「ん?
どうしたの?」
「社長の……息子さんって、今どうしてますか?」
そう
屋上からナナシに叩き飛ばされた絢は、本来であればあのまま落下死するはずだった
そんな絢の命を救ってくれたのは、あの日いきなり殴りかかって発狂していたはずの彼
社長の息子、太郎だった
看護師に話を聞いたが、あの場で倒れていたのは絢だけだった
その後、彼がどうなったのかは知らない
だが間違いなく大怪我を負っていたはずだ
最初の印象は最悪だったとはいえ、命を救ってもらったのは事実で
どうしても安否が気になった
思わず口には出したものの、果たして深山さんは知っているのだろうか?
「あぁ
あの子なら、今朝退院したよ〜」
…はい?
「え、退院…ですか?」
あの大怪我で退院するとか正気ではない
それとも、思っている以上に傷が浅かったのだろうか?
いや、そんなわけないな
足は確実に折れていたはずだ
「うんうん
身体の治療はだいぶ前に終わってたから、あとは実家で奥様と一緒にリハビリするんだって」
「そ…うですか」
「無事に退院できて良かったよね〜
…って、そうだコレ、絢ちゃんのじゃない?」
そう言って手渡されたのは古書と転印紙、それと鏡だった
「あ…!
そうです、俺のです」
「落とし物で届けられてたよ〜」
「ありがとうございます!」
…って、あれ?
俺、深山さんに古書とか見せた事あったっけ…?
「大変
そろそろ仕事に戻らないと〜」
受け取った古書から顔をあげると、深山さんは立ち上がり手をひらひらと振りながらドアに向かっていた
「次からは気をつけてね」
いつもの柔らかい笑みを浮かべながら優しい口調で「またね〜」と挨拶をし、彼は静かに閉まるドアの後ろへと消えた
『まぁ、ご無事でしたのね?』
『悪運がお強いようで
こんなに早く手足がなくなって今後どうしましょうと危惧しておりましたが、安心しましたゎ』
「あんたら、もう少しまともな声の掛け方ってものを覚えろ…」
幸い、気絶はしていたが大した症状ではないという事で、すぐに退院できた
助手席に置いたバッグの中の鏡が点滅し、姑と小姑のような2人が話し始めて絢はうんざりして口を歪める
『それよりも聞いてくださいな』
「…何だよ」
いつもは冷静な藤が、少し食い気味に言う
『今回捕まえていただいたナナシなのですが
下位のものだったのです』
「下位?
それって弱いってことか?」
『一概にそうとも言い切れませんが…あのナナシは弱い方ではありますね
位というものは、危険度だけではなく知能数も含まれて決められますので』
「なるほどな
つまり、毒が弱くても頭が極端に良い奴は位が高くなったりするってことか?」
『そう言う事ですゎ』
『ただ、今回のナナシは思っていたよりも人を捕食して力を蓄えていたようで、そこそこな量を吸い取れそうだと旦那様が褒めてくださったのです』
それはもう嬉しそうに2人は笑った
というか、量ってなんの量だ?
深掘りしてもどうせ躱されるのは目に見えているから、聞きはしないけども
「はぁ…それはようござんしたね」
『えぇ
だから、これからも頑張って私達の手足となってくださいませ』
「断固拒否する!」
ナナシが人を食べるなんて聞いていないし、もう自分の命を危険に晒すなど、真っ平ごめんだ
…が
『8000万』
「ぐっ…あぁ、もう!
分かったよ!!」
『うふふ…人間、素直が一番ですゎ』
信号が赤でなければ、腹立たしさでアクセルを強く踏み締めているところだ
『ところで
そろそろ妖にも慣れてきたのではありませんか?』
「は…?
何を言ってるんだ?
妖に慣れるも何も、妖怪や幽霊なんてのはこの世にいないし、俺はそんなモノを見てない」
『『え?』』
絢の発言に、2人は半笑いの状態で固まる
「ナナシは…未確認生物だったか?
実物を見たからな
ああいう生き物が存在するって事は信じる」
『え、でも……ご冗談でしょう?』
『転印紙から繋がる道も見ておきながら、まだそんな事をおっしゃってますの…?』
先ほどまでの笑顔はどこへやら
ありえない、と藤は綺麗に整えられた眉を寄せる
「未確認生物はいる
紙と鏡、あと【道】も俺が知らない特殊な技術で作られた物なんだろ
実際に使ったからそれも信じる
だけど、それ以外は信じない」
信号が青に変わる
車を発進させ、冷蔵庫の中が空なことを思い出してスーパーへと向かう
腹が減ったから、出来ればガッツリとした物が食いたい
『自棄に妖の存在を否定しますね
…もしかして、過去に何かございましたか?』
藤のその問いに、絢は答えなかった
「うーん…やっぱり今日は豚肉にするか」
手に持った買い物かごに、閉店時間が迫っているからなのか値引きされている豚肉を放り込む
ピーマンと筍も放り込み、会計を済ませてスーパーを出た
雨が降ったおかげで不純物が混ざる空気が洗い流されたのか、昨日とは打って変わって澄んだ空には綺麗な星々が輝いて見えた
「そういえば、あのナナシって奴
2匹いたがもう1体はどこに行ったんだ?」
絢が目覚めた時、それが気がかりでずっと警戒していたのだが、退院するまで襲われることはなかった
パンパンに膨れたエコバッグを助手席に乗せ、口煩いからと置いていった鏡に向かって問いかける
『あら、やっと帰ってきましたね
…それとあのナナシは正確には2匹ではなく、複数存在しておりますゎ』
「はぁ!?」
そういえば、忘れていたが同じものをマンションで見た
そちらも捕まえに行かないといけないのかと、嫌々聞くが
『それなら大丈夫ですゎ』
『アレらは、元々根っこが同じ
ですのでどの個体を捕まえても、1つの個体を送りさえすれば全てアチラへと連れて行かれます』
だから問題ないと、湯呑みで最高級であろう玉露を味わいながら2人は言った
「ふーん…
ナナシはどこに送られるんだ?」
『企業秘密ですゎ』
「またそれか…」
『そういう謝華さんも、妖を否定する理由を教えてくださらないではありませんか?』
先ほどの仕返しと言わんばかりに、拗ねたような口調でチラりと流し目を送られる
まぁ、実際のところ演技で拗ねてなどいないのだろうが
「…そうだな」
コツコツとコンクリートで出来た外付けの階段を上がる
煩い2人は力、もとい電池が無くなるとか何とか言って一方的に鏡の通信を切ってしまった
ナナシがまた出たら、絶対に捕まえるようにと言い残して…
「自分勝手な奴らだ」
寮に戻る前にまだ会社に残っていた社長にも迷惑をかけたと謝罪をしに行ったのだが、こちらの配慮ミスだからと逆に謝られてしまった
過労ではないので謝罪が心に刺さったが、未確認生物を捕まえている途中で紐なし空中バンジーをしたから気絶しました
…とは流石に説明できないので、体調が戻ったので出勤させてくださいと渋る社長にお願いして、明日からいつも通り仕事に行ける事になった
明日からまた頑張ろうと意気込み、扉の鍵を開けるためにポケットに手を突っ込んでキーケースを取り出す
「…?」
鍵を開けて玄関にエコバッグを置いたのだが、耳に馴染みのない音が聞こえた
それは家の中ではなく扉が閉まりきる寸前、外から聞こえてきたようだ
閉まる扉の前に、絢は立ち竦む
まさか…またナナシだろうか?
今まで殆ど出会った事がないのだ
そんなにポンポン現れるわけがないとは思いつつも、バッグを手繰り寄せ、転印紙と古書を手に外へ出た
階段にはいない
「そうなると…1階か?」
息を殺し、足音を出来るだけ立てずに下りると、声がこちらへと近づいてきているのが分かった
そう、聞こえていたのは声だった
だがそれは人のものではなく、どちらかというと…
「……なんだ、コイツ?」
1階の玄関の前に【ソレ】はいた
絢が来るのを待っていたのか
それとも偶々居合わせただけで、どうでも良い人間が来たとでも思ったのか
大きく尖った耳に毛足の長い尾を持つ【ソレ】は、こちらを一瞥する
僅かに沈黙が流れた
どう動くべきか…と絢が考える間もなく【ソレ】はどこか気怠そうに踵を返し
そして振り返ることもなく、絢に背を向けて電灯が届かない闇へと静かに消えていったのだった…
贄牢の蒼狐【ガラスノナカ】完
贄牢の蒼狐 -絢の怪異譚- ミカズ @mikazu
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