第15話 ガラスノナカ9

男性は無言で鏡を見ていると徐々に虚な目になっていく

かと思えば、回れ右して来た道を引き返していくではないか


『今のうちですゎ』


「は?

え、でも」


『早く病棟へ

効力が切れてしまいます』


急かされたので言葉に従ったが、明らかに2人は男性と会話をしていない


「今、何も話してなかったよな?

いったいどうやって…」


『企業秘密ですゎ』


本当は何をしたのかとか、どこの企業に勤めてるんだよとかツッコミを入れたかったが、早く早くと急かされてそれどころではなかった




「見回りの人に見つかったら終わりだよな…」


何より、ナースステーションの前を通り過ぎられないだろ


『そこは何とかしますので大丈夫です』


「何とかって?」


『行けば分かりますゎ

ですがその前に』


『頭の上に鏡を置いてくださいな』


「…ふざけてるのか?」


なんの為にそんな事をしないといけないのか

頭に鏡を乗せて話しかけるとか、今の格好も相まって不審者丸出しではないか


『ふざけておりません

一々、鏡を見せるのは大変でしょう?

先ほどトリガーを引きましたので、暫くは欺けます』


トリガー?欺く??


何を言っているのか、ちんぷんかんぷんである


本当かよ…と疑いながら、ナースステーションの前で足を止めた


こちらもやはりというか、面会時間は過ぎておりますと門前払いされそうになったのだが、頭上の鏡を見た看護師達は絢がまるでそこにはいないかのように振る舞い、仕事に戻っていった

声をかけても無視され、何がどうなっているのかと2人に聞くが


『それはですね

この時間帯であれば、人の目と鏡を使えば…』


『藤』


何か言おうとした藤が菊に嗜められる


「目がどうした?」


『ん…ごほん

企業秘密です』


「またそれか…」


薄目で見る絢から視線を逸らし、どこから取り出したのか【〇〇産の高級醤油をたっぷりつけちゃいました!】なるキャッチコピーが書かれた柔らかい生のようなおかきを、1つずつ竹の菓子楊枝に刺して口に運び、2人はモチモチと食べ始めた


どうやら種を明かすつもりはないらしい


『もぐもぐ…あ、謝華さん

そちらの部屋ですゎ』


「ここって…」


そこは桂木が寝ていた大部屋だ

扉をそっと開くと、数人の寝息が聞こえる


『あら…大変ですゎ

謝華さん、気をつけてくださぃ』


菊が口を拭きながら、警告する


が…しかし、遅いかな


扉を半分ほど開けた時点でソレは襲いかかってきた


「ぎっ…!?」


ソレは桂木の隣で寝ていたはずの患者だった

患者の口と目からは、あの気持ち悪い幼虫が溢れ出している



ビチャ…ビチャビチャッ



咄嗟に後ろに引いたので触れる事はなかったが、幼虫は明らかに敵対しており、口から吹き出したものが絢へと跳びかかってきた


「消えたぞ!?」


避け続けていると急に患者が床に倒れ、幼虫は床に吸い込まれるように消えていなくなる


『遅かったですわね』



コンコン…



絢はハッとした

このノック音には聞き覚えがあった



コンコン…


コンコンコン…



紛れもなく、マンションで聞いたあの音だ


「なんの音……ひっ

だ、誰か!!」


部屋の中から別の患者の悲鳴が聞こえた

見やると大きな嵌め込み型の窓ガラスに、怒りで震えているのだろうか…幼虫がガラスの中を忙しなく泳ぎまわっている

ミシっと嫌な音を響かせ、徐々に中心からヒビ割れていくガラスに2人の患者は悲鳴をあげ、扉の近くにいる絢には助けを求めずにナースステーションへと走って逃げていく


『いけません、逃げますゎ』


バリンッ


大きな音を立て、幼虫が窓の外へと這い出て上階へ向かう


『謝華さん、アレが【ナナシ】です

追いかけてください!』


「くそ…っ」


慌てたナースや他の部屋から出てきた患者達の横を通り過ぎ、階段を息を切らし駆け上がる

女将達に導かれた先は屋上だった




「はぁ…はぁ……っ

…どこだ…?」


暖かくなったとはいえ、夜の屋上は風が吹き肌寒い


走ったせいで乱れた息を軽く整えてから見渡す


『あそこです』


緑化した屋上には、ガラス張りのペントハウスのようなカフェが常設されていた

潜んでいて一見するといないように見えるのだが、ガラスの扉からノックをする音が微かに聞こえる


『謝華さん、道を開けてください』


「分かった」


バッグから取り出した転印紙を上、古書を下にして床に置く

あれだけ走ったにも関わらず頭から落ちずにいた鏡を外し、屈みながら次はどうするんだと聞く


『まず鏡を【開】の上に』


言われた通り上に置く

すると鏡の装飾された縁が仄かに光る


『そのまま、こう唱えてくださぃ

【開門】』


「開門…?」



疑問系だったにも関わらず、言葉に出した途端


手に持った鏡が熱くなった




「なっ…!?」


青白い光が靄のように広がり、水が滲むかのように転印紙に吸収される


すると、どうだろう


炭で描かれた鳥居の形が崩れ、丸く変形していく


丸の中は黒より黒い、漆黒


ぽっかりと口を開けたその漆黒が【道】なのだと、絢は悟った


何故だろうか

ありえない話だが、絢には鏡越しに触れている道が何となく生きているような…そんな気がした


『道が開きましたら、転印紙だけナナシに近づけて

【甦りに、贄を捧げる】と唱えるのです』


『抵抗されると思いますので、十分にお気をつけて』


頷き、言われるまま近づくと扉のガラス部分に…いた

桂木に寄生していた時よりも幼虫は巨大化している


いつでも逃げられるよう足を一歩ずつ前に出し、慎重に進む


あと数歩というところで、道が開かれている転印紙を近づけた

そして言い放つ



「甦りに…贄を捧げる!」



そう唱えた時だった


絢は非現実的な光景を目の当たりにした


道…漆黒の穴から突如として巨大な猛禽の鉤爪が伸び、ガラス扉を叩き割り、抵抗する幼虫をズルりと引き摺り出す

幼虫は他のガラスに移ろうとしたり地面に潜ろうとしていたが、鉤爪に持たれた場所からグチャりと握り潰されていき、痙攣を起こしながら徐々に弱り始める



ズルッ…ズルル…



力の差があるのだろう

抵抗も虚しく、弱り、微動だにしなくなった幼虫が端から転印紙に引き摺り込まれていく


『もう大丈夫そうですね

では、道を閉めてください

【閉門】と唱えるのです』


「分かった…閉門!」


転印紙を床に置き、右の【閉】に鏡を置いて唱える

すると青白い光が弱まり漆黒の穴が狭まっていく



この時、絢は完全に油断していた



「が…っ!!?」


目の前の幼虫に集中する余り、真横からきた攻撃を避けきれなかった



2体いただなんて…予想外だった



身体が暗い宙を舞う


そして、そのままフェンスの外へと叩き出されてしまった



あ、死ぬ…



漠然と、自分は死ぬのだと理解した


そこに恐怖などはなかった


感じるのは焦りと、アドレナリンが過剰に分泌でもしているのか厭に身体が火照っていることだけ

走馬灯が見えるなんて言うけどそのようなものは見えず、ただただ離れていく屋上と五月蝿い姉妹の慌てる声が遠ざかっていく


「助け…」


もう駄目だと自分自身でも分かっているのだろう

絶望からか目尻に小粒の涙が溜まり、上へと流れる

それでもか細く声をあげ、助けを求めずにはいられなかった


手を上へと伸ばす



…その手の影に、何かが重なった



それはフェンスを軽々と乗り越え、病院の壁を垂直に四つ脚で走った

影は人のものではあるが、その走り方は獣のようでもあった

人影は絢が落ちるスピードよりも速く下へと走り抜け、休憩所の外に設置されたバルコニーの手すりに片足をかけ……跳んだ

建物からそれなりに距離があるにも関わらず、人影の手は絢に届き、掴んで手繰り寄せる

頭を胸に抱えられ、ギュッと強く抱き締められた


だが横から加えられた力で若干スピードが落ちはしたもののそれだけでは対した抵抗にもならず、絢達は植え込みの木にぶつかり、下へと落ちる

強い衝撃の後、何かが折れたであろう嫌な音が絢の下から聞こえた


暫く呆然とし固まっていたが、助けてくれたであろう相手が身動き1つしない事に不安を覚え

恐る恐る顔をあげ…目を見開き驚愕する


「……なんで……」


その人物は木を背にし、縋り付く絢を胸に強く抱いていた

絢は怪我をしなかったが、下敷きになった人物はよく見ると足が変な方向へと曲がっている

口の端からも絶えず血が流れているのだから軽傷であるはずがないのに、痛みを感じていないのか

そんな事はどうでも良いとばかりに、怒りの形相でこちらを睨みつけていた


月明かりを反射して煌めくその鋭い眼は、満月の夜に深い湖の底を掬い取ったのかと思える程に輝き、神秘的でとても美しい



意識が途切れるまで、その澄んだ蒼い眼は絢を見ていた




「体調は大丈夫〜?」


「はい、もうすっかり

ご心配をおかけして申し訳ありません」


林檎を器用にうさぎ型に剥いて皿に並べ「はいっ」と深山さんが渡してくれたので有り難くいただいた

前歯で噛み切ると甘酸っぱく、爽やかな香りが口いっぱいに広がる

美味い


「本当に心配したよ〜

働きすぎだってお医者様に言われたんだから、入院中はしっかり治さないとね?」


「…はい、そうですね」


絢はあの幼虫…ナナシを捕獲するのもそうだが、急に引っ越しを余儀なくされた事で思った以上に相当なストレスを抱えていたようだ

そこに加えて壮絶な紐なしバンジーを体験した訳で

助かったことに安堵し、あの後どうやら気絶してしまったみたいだ


目が覚めたら病院ベッドの上で、何故か植え込みではなく外来の受付の前で倒れていたんだと後から聞かされた


そして不思議なことに

絢は屋上からの落下が原因ではなく、体調不良で病院にやって来て倒れた…と言う事になっていた


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る