Mute……

紫鳥コウ

Mute……

 ノックをすると「ひとり暮らしじゃないとバレる」という理由から、用があるときはテキストメッセージにしてスマホに送ってくれと言われている。どうしてその設定を守りたいのか分からないけれど、いまや、どんなジャンルの配信者にも、「危うさ」がつきものであるらしい。

 仕方がないから、傘をさして本屋さんに行くことにしたが、押していないのにエレベーターが四階で止まり、幽霊が入ってくるという噂が流れはじめているのを思いだした。

 そして押していないのに四階で止まり、見た事のない女性が入って来て隅っこの方でうつむいているので、あまりに愛おしくなって、「僕と不倫をしませんか」とたずねたところ、なんだか「考えてほしい」と言っているような気がしたので、傘を開いて往来へでた。

 芥川龍之介の『夢』が収録されている文庫本を買った。絵のモデルとして雇った女性が突然家に来なくなって、もしかしたら自分が殺したのではないかと心配になり、彼女の家へと向かう――みたいな話だったと思う。

 内容が曖昧あいまいだからこそ、この短篇集を買ったわけだけど、嬉しいことに晩年の作品ばかりが収められていた。いまは、そういうのを読みたい気分だった。そして幽霊の女性と不倫をすることになった。短篇集も貸してあげた。

 四階のどこに住んでいるのかとくと、ある空き室で死んでしまって成仏していないという。ようは、家賃を払わず「事故物件」に居座っているということになる。それなら、少し家賃を払ってくれれば、うちに住んでいいと提案したが、彼女のほおがポッと火照っただけだった。


 そろそろ短篇集を返してほしかったから、四階の「事故物件」に行ってみたが、もうそこには勇敢で霊感のない大学生が住んでいて、彼女の行方を聞くと、管理会社に通報すると言われた。失恋をしてしまった。涙が止まらなかった。

 その後、引っ越しをすることになった。ちょっと家賃が高くなったが、住みやすいところだった。そしてもちろん、二階に「事故物件」があり、よくない噂がいくつか流れていた。

 彼女が「ガチ恋」に気を使っているあいだに、本屋へ行くことにした。借りパクされた短篇集を買い直すことにしたのだ。すると二階で勝手にエレベーターが止まって、女性が入ってきて隅の方で俯き、ないはずの地下一階が表示された。

 他の階と同じ構造をしていた。やはり、何人か幽霊が住んでいたが、それでも、彼女が一番美しいと思った。不倫をしたいと言ったら、ちょっと考えさせてほしいという顔をしたので、これじゃダメだと思い、唇を奪った。ゆるされぬ愛がはじまった。

 どうして死んだのかなんて聞きたくなかったが、彼女はお喋りだったから、自分で死んだのだと寂しそうに告白した。僕は彼女を抱きしめて、もう二度と、死ななくていいくらい愛したいと言った。

 しかしまた引っ越しをすることになった。未練はあった。生まれてきて最も激しい一夜を経て、別れた。僕という存在を部屋から消し去り配信をしている彼女は、最後まで不倫に気付かなかった。

 新築のマンションに引っ越すことになり、僕は退屈な日々を送らなければならなくなった。隣の奥さんに不倫をしかけられたが、幽霊ではなかったので断った。彼女は相変わらず配信に夢中で、僕は有毒ガスのように扱われていた。

 漢詩の勉強をはじめた。するといつしか自分でも作るようになった。しかしいつまでも平仄ひょうそくを合わせることができなかった。


 デートをしようということになり、近場の公園に桜を見にいった。彼女は、からりと晴れた空を背景に、苦労して桜の写真を撮っていた。そしてすぐにSNSに投稿した。裏垢からのぞいてみると、ひとりで公園に来たのだと主張している文面になっていた。

 こんなことをしていて、窒息ちっそくしてしまわないだろうか。もっと自由に生きていいじゃないか。彼女たち――僕の愛した幽霊たちみたいに。きみが自由でないから、僕まで窒息しそうだ。

 桜の花びらが散っていくのを動画におさめている彼女とは、もう別れるべきなのではないかと考えはじめた。そうした方が、お互いのためになるのかもしれない。しかし地下一階の彼女と別れたときの、あの胸を引き裂かれたような苦痛が忘れられない。

 じゃあ、もう、なにをするべきか決まっているじゃないか。


 結婚をしてくれなければ、結婚をしてくれるまで、結婚をしようと言い続ける。そんな気持ちで「結婚をしよう」と言うと、彼女は目尻に涙を浮かべて、「苦しかった」とつぶやいた。やっぱり、声にしてしまうほど苦しんでいたのだ。「ごめんね」と、彼女を抱きしめた。

 彼女は配信中に「お手洗いに行く」と言うと、すぐにリビングにきて、僕にキスをするよう求めた。スリリングだからそうするのではなく、息苦しさから逃れるために、僕を必要としてくれているらしい。ようやく、有毒ガスではなくなった。

 そして、子供ができた。

 僕たちの子どもには霊感があるらしく、実家に帰ると、見えない誰かと会話をしていた。折角だから、あのふたりが僕の肩に乗りかかって、うらめしそうな顔をしてくれていないかと訊いてみた。

 すると、妻の方を指さして、「どっちが本当のお父さん?」と訊ねてきた。

「あっちの人も、お父さんだって言うんだよ!」

 ぼくにはその「お父さん」が見えなかった。いまもなお、見えていない。



 〈了〉

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Mute…… 紫鳥コウ @Smilitary

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