ひとつ、ふたつ、ふたつ

紫鳥コウ

ひとつ、ふたつ、ふたつ

 そのひとは、年上のお姉さんだった。赤本を買いに行ったとき、彼女は卒業論文を書いていた。その情報だけで、きっと、四歳くらい年上なのだろうと思っていた。でも実際は、一年留年していると言っていたから、もう少し歳は離れていた。

 赤本の次は、参考書を買いに行き、少し経ってから問題集を手に取った。お姉さんはいつでもレジにいた。もう買う物がなくなった――というより親に浪費を叱られた。だから、思い切って告白をした。受験に合格したら、お付き合いしてください……と。

 しかしお姉さんには彼氏がいるらしく、僕はもう二度と、ここには足を踏み入れることができなかった。


 そして引っ越した先の本屋さんで、はじめて彼女ができた。僕よりひとつ年上で、一緒の大学の同じ学部のひとだった。翠子みどりこと名乗っていた。

 翠子は、大学生になってからようやく、好きな眼鏡をかけられるようになったと言っていた。だけど、その眼鏡くらいなら、高校へかけていっても校則に引っかからないような気がした。眼鏡をそっと外すと、彼女の方から口づけを求めてきた。いや、僕が求めているから、そうしたのだ。


 母さんがリウマチになり、全身の痛みが二度と治らないと診断されてから、僕は地元で就職をすることに決めた。卒業後も付き合っていた翠子とは別れた。

 勇気を出して、あの本屋さんに入ってみたが、まだお姉さんは働いていた。正社員になっていた。そして、僕のことを覚えていた。あのあと無事に合格したということを伝えると、僕たちは付き合うことになった。

 実家暮らしで母親の介護もしなければならない僕のことを、優佳ゆうかは理解してくれた。デートをする代わりに、僕の家へ来て、家族と一緒に過ごしてくれもした。

 薬の副作用のこともあって、母さんは昼になるとぐっすり眠ってしまう。そういうとき、僕たちは母さんの部屋から遠い仏間で、声がでないように唇を重ねながら求め合った。使い終わった避妊具は、庭に放ってしまって、ゴミの回収日にこっそりと捨てた。

 こうした幸せのなかにいるとき、翠子から電話がかかってきた。もちろん無視を決めこんだし、いまさらながら着信拒否のリストに入れた。別れたあと、未練が残っていたから消さずにいたことを、そのときようやく思い出した。


 冬。僕たちはこの村の真ん中を走る川に架かった橋の下で、ひとつのマフラーを分け合い、ポケットのなかに入れた手を結んで、すっかり雪をかぶった景色のなか、愛の言葉をささやきあった。遠くにデートに行くことができないから、こうすることにしてみたのだ。

「寒いね」

「うん」

「口数が少なくなっちゃう」

 優佳の言葉を合図に、僕たちは唇を貪りあった。橋の下で、とてもはかない橋がかかった。愛情の印である、一筋の橋。

 そして僕たちは、すっかりしゃべらなくなってしまった。


 夏。母さんは相変わらず、リウマチのせいで、まともに動けずにいた。部屋も一階のトイレのそばに変わった。盆には父が帰ってきたが、盆行事が終わったら、単身赴任先へ帰ってしまった。

 そして地蔵盆じぞうぼんの時期になり、子供たちは家の前に畳を敷いて、「まいってんのー」と繰り返しながら、賽銭さいせんをもらうために鐘を叩き続けた。どこの子にも同じお金を渡さなければならない。百円玉を箱の中に入れていく……が、隣のきひろちゃんにだけは、こっそり千円札を渡した。

 浦井さんの家には、とてもお世話になっているから。僕が仕事にいっているあいだ、母さんの様子をうかがいにきてくれる。きひろちゃんは、ニコッと微笑んだ。

 港と山間やまあいのあいだに住んでいる優佳は、港の方でばかり遊んでいたから、この村の習慣には驚いていた。橋向こうの家までは行かないまでも、僕の家の近くの子供たちの「賽銭箱」にはお金を入れてあげていた。


 扇風機に服をめくられながら、寝転んで横並びになって、卒業アルバムをめくっていた。ちょっとだけ汗でしめった腕をくっつけて。足をからませあいながら。

「ねえ、どの子が好きだったの?」

「この子」

「ふうん」

「嫉妬してるの?」

「すぐに言っちゃうんだなって」

 肩をぐいぐいと押してくる優佳は、ついに、ぼくの足をホールドしてきた。すると、ぼくたちは一斉いっせいに横向きになった。

 そして、くすくすと笑い合った。と思うと、なにかを求める顔に変わった。待っている方へ、迎えにいった。扇風機の音が、いっそううるさく感じられたが、それが心地よくもあった。

 アルバムをパタンと閉じて、押し黙りながらで合って、見つめ続けると求め合って、むかしかいまの話をした。なにを食べたのか、なにが食べたいのか、夏の食べものといえばなにか……などなど、食欲はまだ遠いところにあるのに、その噂話みたいなものもした。

 電話がかかってきた。下に居る母さんに用があると言われて、僕は足早に階段を降りていった。次に部屋へ戻ったときには、優佳は眠ってしまっていた。風にあおられて、お腹が見えていた。


 今日ははじめて、優佳が帰らない日だった。きっと結婚したら、こうした幸せな一時はもう訪れない。かみしめないといけない。だから、いつまでも眠らないでいた。明け方、避妊具を窓から捨てると、もう鯉のいなくなった干からびた小池の跡に落ちた。

 目を覚ましたとき、彼女はまだ眠っていた。笑いながら寝ていたら、どれくらい悲しかったことだろう。悲しい顔をしていたら、どれくらい切なかったことだろう。ぐっすり眠っている。安心しきっている。それがなによりも嬉しかった。

 窓を開けると涼やかな風が通ってきて、全身の熱気をかっさらっていった。ひとつの決意は、それでも残り続けた。

 彼女の指に、そっと指輪をめようとした。とたんに、涙がこぼれ落ちてきた。そうじゃない。そう思ったからだ。

 僕は優佳のことを、もっと信じていいはずだ。



 〈了〉

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