風鈴を割る

守宮 靄

夏を

 じとじと続いた長雨の合間に抜けるような青い空が見え隠れし始めたころのこと、近所にある小さな雑貨店に可愛らしい風鈴が並び始めた。

 チリチリ、チリンと澄んだ音を響かせ、束の間の涼を与えてくれるそれらを眺めながら、俺はあの夏のことを思い出していた。




 唐突に始まった大学生活と一人暮らしに慣れず、頼れる友人もできず、風呂や洗濯や食事など生活に必要なこともままならなくなった俺の状況を知った両親は、一体何を思ったのか母方の祖父母が住む田舎へ一時的に帰省することを提案してきた。もう反対する気力も失せ、判断するということができなくなっていた俺は彼らの言うことに唯唯諾諾と従い、一週間という短いとも長いとも言えない期間を緑以外に何もないド田舎で過ごすことになった。


 祖父母は優しかった。夏休みには少し早い俺の来訪について、親はどういう説明を加えたのか知らない。最近鬱になって休養を発表した芸能人の例でも出したのか、または何も言っていないのか。農作業を手伝うわけでもない、一日中縁側で寝転がっているか、気まぐれにつっかけを履いて散歩に出るかしかしない俺に小言を言うでもなく、飯を食って美味いというだけで褒められるような奇妙な一週間は飛ぶように過ぎ、明日の朝にはもといた狭苦しいアパートに帰る予定になっている。



 俺は今日も縁側で寝ている。ぐったりと転がったまま正体のわからないものに追われて、見えないものに押し潰された気になって、形をもたない堂々巡りの思念をこねくり回している。

 明日になればここを発つ。状況は何一つとして好転していなかった。ただ一週間を無為に過ごしただけ。頭上では、青い波紋と赤い金魚一匹が描かれた何の変哲もない風鈴が、風で少しだけ回転しながら、チリ、チリンと涼やかな音を響かせていた。


 この家に来たときから、俺はこいつが気に食わなかった。


(夏だよ、夏がきたよ)とでも言うように風鈴が鳴る。状況が違えば風情あるように聞こえたかもしれないその音も、今は俺を急かし、追い詰めるものでしかなかった。呆然と突っ立ったまま春が去り、脳を溶かすような夏が来た。夏だ、夏だとはしゃぐように喚く風鈴が憎たらしくて、俺はそいつを睨みつけた。


 チリチリ、チリン。曲面を描くガラスの中で、金魚がくるりと身を翻す。鰭に描かれた金の筋が残像を曳いて閃いた。何を考えているのか分からない真っ黒い瞳でこちらを見つめ返す。そして、近くに俺以外がいないのを確かめるように一周回ったあと、曲面から中空へ、ひょいっと飛び出した。


 夏のどこまでも高く青い空を、一匹の金魚が泳いでいく。天蓋を突き破らんとする真っ白い入道雲を背に、赤と金の尾鰭はよく映えた。閉ざされた狭いガラスから解き放たれて、そいつはひどく自由そうに風に乗って舞っていた。

 同じ風がからっぽの風鈴を揺らして、甲高い音が和室に響いた。それがまた、俺をイラつかせた。

 天へと昇っていったはずの金魚が、いつのまにか目の前にいた。そして何か言いたげに俺の周りでウロウロする。小さなおちょぼ口をぱくぱくと動かして、ガラスの気泡を吐き出している。何が言いたいのかわからない。何もわからない。だから俺にはそいつが踊る姿が、俺を小馬鹿にしているようにしか映らなかった。


 金魚が俺のそばを離れ、また天頂目掛けて泳いでいく。不意に風が強くなり、風鈴を揺らした。チリチリチリチリ……。悲鳴のような音が俺の頭蓋で反響した。耐えられなくなった俺は立ち上がって、手を伸ばして揺れる風鈴を毟りとって、目をつぶって腕を振りかぶって。



 ──。



 目を開けると、そこには割れた風鈴があった。金魚はガラスの中に戻り、ぽってり肥った胴体を裂くようにヒビが入っていた。膝の力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。


 何時間そうしていただろう。出掛けていた祖父母が帰宅した気配に我に返り、手を土で真っ黒にしながら、庭の隅に金魚を埋めた。


 その日は俺がいる最後の夕食だからと、この一週間で一番豪華な食事であった。縁側に吊るされていたはずの風鈴のことは何も訊かれなかった。


 何事もなかったように眠り、朝を迎え、バスに乗って帰る。

 車窓の内側、四角く切り取られた疎ましいくらいに青い空を見る。もしかするとあの金魚は俺を馬鹿にしていたわけじゃなかったのかもな、と思った。

 瞼の裏に腹の裂けた金魚の絵が見えた。どうしようもないくらいに遅れて、喉の下あたりが苦く重くなった。





 はっと気がつくと、俺は風鈴を持っていた。雑貨屋で買ってしまったらしい。釣鐘型の風鈴はあの夏のものとは全く似ていない。赤と白のまだら模様の金魚の、何を考えているのかわからない黒い瞳が俺を見ていた。割れた金魚のつぶらな瞳がちらついた。


 剥き出しの風鈴を右手にぶら下げたまま、家路を辿る。俺の歩みに合わせて風鈴が鳴る。狭いアパートにこいつを吊るす余裕があるだろうか。カーテンレールに吊るせば、空が見えるかもしれない。昼夜問わず閉めっぱなしのカーテンをこいつのために開けるのも悪くないかもしれない。


 雨上がりの夕暮れ、湿った空気が風鈴を撫でる。まだらの金魚が泳いでいる。

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風鈴を割る 守宮 靄 @yamomomoyan

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