怪奇探偵・不二峰レイカの幽霊譚

文月ヒロ

狂気の幽霊屋敷

 ――どうして。


 どうしてこんなにも、彼女のまとう闇に目を奪われてしまうのだろう。


 夏、大学2年目。厚い雲で覆われた空の下。

 踏切の停止線手前で佇む美女へ抱いた思いを、宮間みやまかいは胸の内に留めた。


 赤い電子音を響かせている警報機のお陰で、向こうがこちらに注意を払っていないのが救いだった。

 この美女だけには自分の視線を悟られたくない。


 しかし、ふと彼女が、長いそのシルクのような白髪を揺らして後ろを振り向く。


「どうした宮間君。私の髪に、何かついているのかい?」


 目が合うと、彼女にそう尋ねられた。

 思わず宮間は後退る。


 まさか、「鼻息荒くしてガン見してただけです」なんて言えるはずもない。


「ん?」


 しかも、深紅の瞳で無遠慮にこちらの顔を覗き込み、美女は小首を傾げてもう既に話を聞く姿勢だ。


「や、な、何でもない」


「ふぅむ、それならいいが……」


 何とか誤魔化してみたが赤い視線は中々剥がれない。

 気まずくなって、青年は美女から目を逸らす。


 ――直ぐそこまで迫っていた電車が、2人の前を突風のように走り去って行った。


「ん、やっとか。それじゃあ行くとしよう、宮間君。幽霊探しに」


 遮断機が上がると、美女は気負った風もなく革靴を鳴らして歩み始め、宮間もその背中に続いて歩いた。


 彼女――不二峰ふじみねレイカは探偵である。


 胸元に赤いひだ飾りを付けたワイシャツと、その上に羽織った黒の外套。

 頭に被る漆黒を基調としたシルクハット。

 左手と、アタッシュケースを持つ右手の白手袋には、五芒星の刺繍が施されている。


 確かに、これにパイプ煙草でも持たせれば、なんちゃって名探偵の完成だ。


 といっても、レイカが専門とするのは、もっぱら幽霊などの怪奇現象である。

 彼女曰く、これまで解決して来た霊的現象は数知れず。

 さらに、依頼達成率は驚異の100%。


 胡散臭い謳い文句だとは思う。

 それでも実際に、宮間がこれまで見て来た怪異事件は全て彼女によって解決されている。


 腕が確かなのは認めるほかない。

 しかし、真に驚くべきは、彼女がそれでいてただの人間だという事だ。


 そう、不二峰レイカは心霊現象を調査する身でありながら、


「悪いね宮間君。今日はどうしても、霊の見える君が必要だったんだ」


「だからって、朝急に家に来て呼び出す事ないだろ。ったく……」


 見える宮間と見えないレイカ。

 2人の関係は数か月前から始まり、それから度々、宮間は彼女の怪異の調査に同行している。


 けれど、別に善意で手伝いをしている訳ではない。


「不二峰、俺はお前の助手じゃないんだぞ」


「あぁ、分かっているとも。君は私の依頼人だ。今回の助力分は色を付けるから、また依頼料の足しにしてくれたまえ」


 これだ。料金の前払いがなければ、彼女は決して依頼を引き受けない。

 その上、要求される金額は基本高額である。


 しかも宮間の時は特殊な案件であったため、支払う料金はさらに跳ね上がった。


 一介の学生に過ぎなかった青年が金を払うには、こうしてたまに、レイカの目となる仕事をするしかなかったのだ。


「それで、今日はどんな依頼なんだ?」


「?ふふん、それは君、目的の場所に着いてからのお楽しみというものだよ」


「……今、もの凄く家に帰りたくなったんだが」


「何、私がいる。この名探偵・不二峰レイカがね。君が心配する事は何もない」


 その言葉が一体どれだけ信用出来るというのだろう。


 宮間は半眼を向けるが、漆黒のシャーロックホームズはどこ吹く風。

 呑気に鼻歌を歌っている。


 これ以上何か訊いても無駄だろう、と青年は嘆息した。



 2人が目的地へと辿り着いたのは、それから30分程歩いた頃だった。




 ◆


「で、でっけぇ……」


 ポカンと開いた口から、溜息すら混じった情けない声が出た。

 無論、レイカではない。そんな酷く凡人らしくて品のない反応をする人間など、ここでは宮間しか有り得なかった。


 とはいえ、だ。


 槍を横一列に並べ立てたかのような黒い鉄柵の門。

 その奥に建つ屋敷の存在感は、やはり凄まじいとしか表現出来ない。


 大きいという言葉の意味を、どの程度の規模で捉えるかは人それぞれだが、とにかく考え得る限り一番大きな豪邸を想像して欲しい。

 西洋風で全体的に白く、外観だけ見れば相当な歴史を感じる巨大な豪邸だ。

 それが緩やかな坂を上った先にある、広大な敷地の中央付近に建っているのである。


 周囲を取り巻くのは、雑草と花が乱雑に生えた、もう何年も手入れがされていないようにも見える庭。

 実際にそうなのだろう、玄関に唯一続く石造りの道にまで緑が侵食している。


 さらに、建物の壁を見れば、つたが根を張るようにして伸びているのが遠目からも見えた。


 これがどこぞのみどり生い茂る海岸近くで、ひっそりと朽ちるのを待つ廃墟であったなら。

 もしそうであれば、きっと哀愁漂う自然の美しさにでも心を奪われた。


 けれど違う。目の前にあるのは、生きた屋敷だ。


 生きており、気圧されそうな存在感を放っている――それを禍々しいと感じてしまう程に。


「は、入る前に訊くけど、依頼主は人間だよな?ちょっとお化け屋敷っぽさすらあるぞ、今日の現場」


「昔とある資産家が、有名な建築家に設計させて造らせた別荘らしくてね。今暮らしているのはその孫で、、分類上は人間に違いないとだけ伝えておくよ」


「一応って何だ!?頼むかられっきとした普通の人間だと言ってくれ、そうだと言ってくれッ。なぁ不二峰!」


 こうなるから宮間は嫌だったのだ。


 ともすれば、一見華やかで、気品を纏った彼女の容姿に惑わされそうになるが、それはいけない。

 不二峰レイカは、この女は嘘つきで、信用出来ず、危険が服を着て歩いているような人間なのである。


 レイカの言葉を真に受けて、それで何度酷い目に遭って来た事か。

 今回も絶対に、首を突っ込むべきでない恐ろしい何かが待っているに違いない。


 本当に、強引にでも途中で家かどこかに逃げてしまえば良かったと、今さらになって青年は後悔し始めた。


「まったく、君は心配性だな。私からすれば人も霊も同じようなものなのだがね……。というより、そろそろしっかりしてくれたまえ。ほら置いて行くよ、宮間君」


「え、あ、ちょっ、待てって不二峰ッ。ったく」


 家主は一体どんな怪物なのだろうか。


 顎髭を蓄えた怪しい老人姿の食人鬼、あるいは長髪の不気味な女幽霊。

 いずれにせよこれから油断ならない存在に近付くのは確かだ、気を引き締めていかなければ。


 と、不安が増す中で考えていたのだが、


「あぁ、ようこそようこそ!待ってましたよ。外は湿気が凄くて蒸し暑いでしょう、さぁ、中に入って涼んで」


「おかしい、普通の人だ。何で」


「?」


「あ、いえ、何でも。はは……」


 玄関先で二人を出迎えたのは、至って普通の、気の良さそうな男だった。


 年の頃は20代後半から30代前半か。

 シャレた灰色のズボンと白いワイシャツ、チェック柄のベスト、ネクタイで決め、髪もワックスで整えていて清潔感があった。


 とてもこんな屋敷に住んでいるとは思えない。


 家の中も綺麗だった。ワインレッドの豪奢な絨毯が敷かれた廊下を進んで、案内されたのは応接室。

 ソファに腰かけて辺りを見渡すと、高価そうな壺や絵画などが飾られていた。


 特に宮間の目を惹いたのは、ライオンを模した石のオブジェだ。そこまで大きくはない。

 ただ、非常に精巧で、その躍動感にまるで本物を見ているような錯覚さえ起こしてしまう。


 無論、実物とは程遠いサイズだが、つい見入ってしまう。


「はは、そんなに自分の作品を見られると、ちょっと体がむず痒くなりますね」


「えっ、ご自身で作られたんですか?」


 ボーっと置物を眺めていると、家主の男が紅茶の乗ったトレイを両手に、恥ずかしそうな顔で近寄って来た。


音無おとなしさつき、会社経営をやっております。こっちの彫刻は趣味でしてね、廃材の石などを使ってたまに作るんです」


「このレベルで趣味。す、すごいですね……」


 正直、素人目に見たってプロ級の腕はあるのではないか、そう思うレベルの作品だ。

 売れば間違いなく誰かしら買手がつくだろう。


「本当は人間を彫る方が好きなんですけどねぇ」


「へぇ。人型の彫刻っていうと、『ダビデ象』とか『ミロのヴィーナス』とか、そういうのですか?」


「えぇ、それに見合う素材が中々手に入らなくて、数は作れないんですが。でも、少し前に良い材料が見つかって。ふふ……実は今、製作している最中なんですよ」


「――まぁ、それはさておき。そろそろ本題に入りたいのですが。よろしいでしょうか、音無さん」


 レイカが音無に視線を送ると、彼は「失礼、そうでしたね」とレイカに向き直った。


「確か、不二峰さんは怪奇現象の専門家で、本日はこの辺りでの妙な噂について調査をしたいと」


「えぇ、正確には幽霊の目撃情報ですが」


「でしたら、ひょっとしてもう見たんですか?」


「一応探してみたのですけど、残念ながらまだ」


「なるほど、ではそこで宮間さんの出番という訳ですね」


「はい、お知らせしたように宮間君は霊感が強いので」


 話の内容からして、今回の依頼主は音無ではないようだった。


 そして、今日のレイカは探偵ではなく、専門家という設定らしい。

 確かに怪奇探偵などという意味の分からない単語より、オカルトマニアで説明される方が向こうも受け入れやすいか。

 さりげなく、自分が霊感まであるキャラにされているのが不服ではあったけれど。


 自分に出来るのは霊視までで、感じたり祓ったりは全くの専門外なのだ。


 それより、1つレイカに問い詰めなければならない事がある。


「なぁ、勝手に話が進んでるけど。俺はまだ何にも知らされてないが、不二峰。幽霊の目撃情報って何だ」


「?あぁ、女の霊が出るのさ、数年前からね。私の集めた情報によれば、その女の霊は目撃者に付き纏って来るそうだ」


「えっ、こっちを殺そうとはしないのか?」


「うん。面白いだろう?目に見える場所まで近付くだけで、襲っては来ないなんて」


 確かに、レイカの言うように奇妙な話だ。

 それらの証言から想像するのは、浮遊霊の類である。


 しかし、そうなって来ると、ここで問題が1つ浮上する。

 地理的条件や霊的条件などが余程整わない限り、常人の瞳が霊魂を捉えるというのは有り得ないのだ。


 故に、考えられるとすれば――


「地縛霊、その可能性が一番高いな。けど……」


「そう。普通の人間にも見えるような地縛霊は大抵、強い怨念によってこの世に留まり、生者に危害を加える。だというのに、そのような報告はされていない。矛盾しているのだよ」


「へぇ、やはり専門家なだけあって詳しいんですねぇ。お2人とも」


「あ、いえ音無さん、俺は専門家っていうわけじゃ……。ただ、これは音無さんにとっても調べる必要のある話だと思います。原因不明の霊現象は、知らない内に消滅している事もありますけど、逆に悪化する事もあります。後者だったら、音無さんにまで危険が及ぶかもしれないので。何せ、噂の出所はこの近くらしいですから」


 神妙な面持ちで宮間が話すと、音無は口元に右手を持って来て考えるような仕草を見せる。


「それは……なるほど、思っていたよりも事態は深刻という事ですね」


 音無は話の通じる大人だったようだ。

 この手のオカルトめいた話題は、まずまともに取り合わない人の方が多い。


 しかも、彼自身は今回の依頼と全く関係ないのだ。


 霊の世界など、これまで触れて来なかっただろうに。


「分かりました、そういう事なら私自身も調査に協力しましょう、不二峰さん」


「助かります。でしたら、まずは家の案内をお願いします」


 早速レイカは情報収集を始めるつもりらしく、スッと素早くソファから立ち上がった。


「んじゃあ、俺も――「あぁ、悪いが、宮間君はここでゆっくりしていてくれたまえ」――は?」


「え?不二峰さん、彼は一緒じゃなくて大丈夫なんですか?確か、霊感が強いんですよね」


「いえ、宮間君はここで」


 そこで言葉を切った自称幽霊専門家は、含みのある笑みを浮かべた。

 何か嫌な予感がして、宮間は先に行こうとする彼女の右肩を掴んだ。


「ちょっ。ちょっといいか不二峰、お前、今度は何を企んでやがる。まさか、また俺にとんでもない危険を押し付けようとしてないだろうな!?」


「……いやいや、はは、あまり大勢で行っても仕方ないだろう?君の出番はもっと後だから、今は休んでいてもらおうと思ってね。何、本当にそれだけさ」


「おいコラ騙されないぞ!今の間は何だ。それだと前とやり口が同じじゃないか。この前だって、そうやって俺を餌にして、霊を見つけたよな!?」


 しかもそれで死にかけた。

 大学の夏季休暇直前、県を跨いだ場所にある「霊間トンネル」に赴いた時の出来事だ。


「心外だな。協力して引き釣り出したと言って欲しい。釣りというのは基本安全なものだからね。私はあの時、君を危険に晒したつもりは微塵もない」


「ただの釣りじゃなかったじゃねぇか、化け物の一本釣りだぞッ!?どう考えても危なかっただろ!あんなふざけた作戦、俺はもう絶対にしないからな」



 ◆


「――なんて、アイツに正論振りかざしても無駄だよな。知ってたよ、俺……」


 結局言い負かされて宮間は部屋に残る事になり、レイカ達は行ってしまった。


「にしても……本当に凄いな、音無さんの彫刻」


 この場においてある種の自由を与えられた青年の興味は、自然、部屋の中に向く。


 中でも一際目を惹いたのは、音無の作品だった。


 あのライオンの置物もそうだが、周りを見渡せば至る所に彼の彫り物が飾ってある。

 そういえば、人体彫刻が得意と口にしていた割りには、それらしい作品が一切見当たらない。


「他の部屋にでも飾ってんのかな」


 もしそうであれば、あとで少し見てみたいなと宮間は思った。


 実際、それだけ音無の腕は確かと言えたのである。

 何より、今の暇を持て余した彼にとっての楽しみといえば、それくらいしか思いつかなかった。


 幽霊に関わる話をレイカに持って来られた時点で、気分がダダ下がりだったというのもある。

 その憂さ晴らしではないが、多少自分の好奇心を満たしても罰は当たらないだろう。


 もっとも、宮間のその小さな楽しみは、ものの数秒で煙のように消える事になったが。







「ッ。……う、うわぁ、最悪」


 青年は顔を青褪めさせながら、口の中で自らの不幸を呟いた。


 宮間もこれで、それなりの数の心霊現象をこの目で目撃している。

 故に瞬きの後、それまで誰もいなかった場所に突然少女の幽霊が現れたぐらいでは、無様に叫び声を上げたりなどしなかった。


 ただ、現れたこの霊が、どんな事をして来るのか全く謎というのが心底恐ろしい。


 しかも、今は都合の悪い事に自分1人なのだ。


「チクショー……お前にとっては都合良いんだろ。不二峰ぇ」


 寧ろ彼女はこの状況を狙っていた節すらあった。


 最悪。宮間が一度口にしたその言葉は、少なくとも彼にとってはこれ以上ないくらい的確な表現である。


 眼前の少女が悪霊なのだとして、宮間には彼女を祓う力など全くない。

 そういう仕事は、あの不二峰レイカこそが一番得意とするところなのだから。


 恐怖と動揺の最中、青年はギリギリ保った冷静さを頼りに、自分がどう動くべきかを見極める。


 少女の霊は、黒い長髪の上に麦わら帽子を被っていた。

 フリル付きの白いワンピースも、この時期らしいものである。


 そして……少女の足元に視線を落とすと、つま先までくっきり見える半透明の素足が地面にピタリと面についていた。

 ――間違いない、彼女は地縛霊だ。


 今の所、こちらを襲って来る気配はない。ずっと笑顔なのが不気味で仕方ないが。


 とはいえ、これはレイカが話していた幽霊の噂とほとんど一致している。

 女の霊、というからには成人女性なのかと想像していたけれど、恐らく彼女が噂の霊なのだろう。


 ――う、動いたら、ついて来んのかな……。


 恐る恐る宮間はソファから立ち上がって、背後を気にしながら部屋の外へ向かう。

 扉を開けて部屋を出ると、彼は後ろを一瞥した。


「い、いる……」


 出入り口の前で佇む少女の霊を確認すると、宮間はゴクリと生唾を飲んだ。


 幸か不幸か、予想は当たっていたらしい。


 どうすべきか。……いや、答えは既に決まっているのだ。

 近くには不二峰がいる。彼女の下へ急ぐ以外に、除霊師でもない宮間に選べる選択肢などなかった。


 問題は、相手がだという事だ。

 噂が本物だとしても、下手に逃げて事態が悪化でもすれば目も当てられない。


 ――どうする?


 宮間はもう一度少女の霊の方へ目を向ける。






 しかし、そこには誰の姿もなかった。


「は?」


 訳が分からず、咄嗟に周囲に視線を散りばめる。


「ど、どこ行った?クッソ!」


 焦りが宮間に悪態をつかせた。


 そして、彼は自分の目を、無性にスプーンか何かでくり抜いてやりたくなった。

 幽霊なんて見えるこの眼球さえなくなれば、こんな心臓に悪い思いをしなくて済むのではないかと。




 そんな現実逃避が脳裏を過った直後、無意識に後退った宮間の服の袖を、誰かが引っ張った。


「――ッ」



 確認せずとも、袖を掴んだ者の正体は、その瞬間おおよそ分かった。

 何なら、半ば確信までしている。


 しかし宮間は、真実を確かめようとしてしまう、そのどうしようもない人間の本能に衝き動かされ見てしまった。

 ――腰の高さ程の位置で、こちらを見上げる地縛霊の少女の顔を。



 少女がまた、ニヤリと笑みを浮かべた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああッ!」


 宮間は遂に大声を上げ、その場から逃げ出した。


 青年にどこへ向かうかを考える余裕はなかった。

 ただ背後に迫る足音を振り切る事だけ、それだけが今の彼にとっては重要だった。


 通路を左に曲がると、道が2つに分かれていた。

 真っ直ぐか右か、選んだのは3階へ続く階段のある直線の道だった。


 だが、


「うぉぁッ」


 突然、後ろからついて来ていたはずの少女の霊が宮間の眼前に現れた。


 彼は慌てて方向転換し、右へ走った。

 そうして近くに下り階段を見つけ、そこを一気に駆け下りる。


 右手に出口の扉が見えた。即座にそこへ向かおうとした宮間。


 その彼の前に、またしても地縛霊の少女が立ちはだかる。


「っそだろ……!チクショー、このッ」


 駄目だ、逃げてもその先で待ち構えられている。

 ジワジワと追い詰められていく感覚に晒されながら、宮間はひた走る。


 そして扉を開くと、青年は何故か外に出ていた。


「っ、ここ……庭か?いや、でも」


 そこには明確な違和感があった。


 周囲に生い茂る草木、踏み締める土の柔らかさ。

 眼前の景色とこの感触は、確かに玄関でのあの不気味な記憶と一致する部分があった。


 しかし、ここは数十分前に見た庭と明らかに違う。

 ――そう、この場所は周りをコンクリートの壁に囲まれた密室空間だったのだ。


 天井から届くLEDの光のみが室内を照らしている。


 必要最低限の視界が確保された薄明るい部屋。大半は緑で埋め尽くされているが、その中央に人1人が通れそうな幅の茶色い土の線が走っていた。

 まるでそこだけ人が頻繁に通っているような跡、というよりは一本道と表現した方が正しいか。


「ッ!?」


 一瞬、引くか先に進むか悩むも、その最中に背後のドアが閉まる。


 慌てて後ろを振り返ると、少女の霊が扉の手前で笑みを向けていた。

 近付いて来る少女を前に、宮間はその場から1ミリも動けないでいた。


 強烈な緊張が青年に冷や汗を掻かせる。


 ――ヤバい……。


 一歩、また一歩と、少女の足がこちらに向かい、そして遂に宮間の元まで辿り付いた。

 しかし、少女の霊は、青年の


「は?」


 小さく、掠れたような疑問の声を宮間は漏らした。

 訳が分からず、視線で少女の姿を追う。


 すると、唐突に彼女が振り返り、こちらに笑みを向けた。


 一体どうしてだろう、今度はその笑顔に恐怖は抱かなかった。


「こっちに、来いってのか?」


 未だ状況が掴めないまま、何となく、少女がそう伝えようとしているように彼には見えた。


 前方を見る。道は部屋の奥の方まで続いていた。


 この先に何があるというのか、そんな疑問を感じたのも束の間の話。

 次の瞬間、部屋の隅の道の地面が吹き飛んだ。否、その下に隠れていたものが飛び出したのだ。


「んだよ、あれ……!」


 露になったのは、何か、鉄の板のような物だった。

 先を歩く少女の霊に駆け足でついて行き、その鉄の板の近くにつくと、宮間は立ち止った。


「これ、階段……?」


 板の下には地下の暗闇へと続く階段が伸びていた。

 青年の中で謎が一層深まる。


 ――ど、どうなってんだ、この部屋。


 一種の混乱を起こし始めた宮間の脳が、喉の渇きを訴える者が水を求めるように、その疑問に対する答えを欲していた。

 けれど、それを得る方法は1つしかない。この階段の下を進むしかないのだ。


「……よし」


 意を決し、宮間は階段に足を伸ばした。


 下に進む程に闇が濃くなっている。

 とはいえ、降りてみると、広がっているのは一寸先も見えない暗闇という訳でもなく、少し先を見通せる程度の薄闇だ。


 注意を上に向けると、豆粒のような青白い光が等間隔に設置されており、天井から周囲を淡く照らしている。

 照明にしては頼りないにも程があったけれど、ここが微かに明るいのは、これのお陰だろう。


 想像していたよりも視界が悪くない事に、青年は僅かばかりだが安堵する。


「……」


 地下は冷たいコンクリートに囲まれた狭い通路になっていた。


 光はもちろんだが、音にも乏しい場所だ。その静けさに、自然、宮間の緊張は高まって行く。

「誰かいませんかぁ!」と、大声で叫んでみようとも思ったが、彼にその勇気はなかった。


 ただ、口が動かない分、宮間の目はよく仕事をした。

 この目は通常の景色以外に、霊に関するあらゆる物を感知する。


 今見ている限りは、眼前の様子が悪霊の見せる幻であるような気配はない。

 それに霊の力による幻覚にしては、この肌で感じる温度の低さも、踏み締める地面の感覚も、若干の埃っぽさすらも現実的だ。


 だとすれば、ここは一体……。


「あっ、あの子」


 気が付けば少女がまた眼前に現れ、先を歩いていた。

 その向こうには扉があった。ここからでは見えづらいが、電子ロックのようなものが取っ手の付近に取り付けられている。


 電子ロックに少女が手をかざすと、鍵が開く音がした。


 扉の奥は広い場所になっており、少女はそこへと入って行く。

 彼女の後について行きながら、宮間はその様子をじっと見つめた。


 地縛霊は存在が土地に縛られている故に、その足は少なくとも片方どちらかが地面についている事を強制される。

 そして、人前に現れる事の出来る地縛霊は、大抵悪霊化している。特に子どもの霊は。


 であれば、さっきのような心霊現象にも納得出来る。


 だが……。


「うわッ」


『!?っ』


 壁に立てかけられていた脚立に宮間の肩がぶつかり、バランスを崩した。


 しかし、それに気付いた少女の霊が、倒れそうだった脚立を支えて宮間を守る。

 安堵した少女は、フゥと溜息を零した。

 その様子を見て青年は確信した。


 ――この子、やっぱり悪霊じゃない……!


 少なくとも、明確な意思を持って人を助ける悪霊を、宮間はこれまで見たためしがなかった。


「き、君は」


 訊こうとして、唐突に少女の姿が消える。


「あ、ちょッ」


 四方に視線を向けて宮間は少女の霊体を探す。

 薄暗がりの室内は、何か知らないが置物が多く歩きづらかった。


「ッ!?」


 障害物をどかそうと触れた直後、宮間の顔から冷や汗が噴き出た。


 手に伝わる感触は硬く、冷たい。

 決して良好とは言えない視界の中見えたそれが、などではない事は直ぐに分かった。


 焦りながら周囲を確認すると、右手にあの少女の霊を見つけ、青年は彼女の下へ駆け出した。


 言葉が通じるかなど分からない。けれど、いよいよあの子に事の詳細を訊かなければならなくなった。


「なぁ、説明してくれ!ここは何で、どうして俺は――」


 あまりに不可解な出来事が多過ぎて、だというのに何も分からないままで、宮間は勢い余って彼女の肩に手を伸ばした。


 だが、有り得ない事に――宮間の手は、実体を持たないはずの少女の体を掴んだ。


「は?」


 青年は理解が追い付かず、顔を歪めた。


 本来、特殊な技術を使いでもしなければ、人間から霊体に触れるなど不可能である。

 けれど、それでは目の前で起きたこの現象に説明がつかない。


 そう――それが、本当に幽霊であれば。


「……なッ」


 混乱の最中、室内の照明が点灯する。頼りないものの、ここに辿り着くまでに通ったあの通路よりも、幾ばくか視界を確保出来る程の明かりだ。


 淡く青白い光が少女を照らし出す。その姿は半透明などではなく、実体を伴ったものだった。


 宮間の目に写り込んだのは少女の虚ろな瞳。

 青白い肌と赤味を失った唇。両腕は二の腕の半ばから先を切断され、体もマネキンのようにピクリとも動かない。


 恐る恐る、青年は視線を横に滑らせる。

 少女の霊体が、自らの亡骸を見つめていた。

 こちらの視線に気付いたのか、少女は顔をこちらに向けて困ったような笑みを浮かべた。


 後ろを振り向く。――そこには、少女と同じように部位欠損した女性達の遺体が、オブジェとなって煩雑に飾られていた。


「……君は。君達は、ここで死んだのか?」


 宮間の震えがちな声の問いに、少女は小さく頷く。


 青年はようやく、全てを理解した。

 この幽霊事件の真相を。初めて会った時、この少女が笑っていた理由を。宮間を追っていた理由を。


 ただ、見つけて欲しかったのだ。宮間ならそうしてくれるのだと、太陽の光の届かない部屋から殺された自分を連れ出してくれるのだと、そう期待して。



 ……音無の口にしたあの言葉が、今になって急に恐ろしくなった。



『本当は人間を彫る方が好きなんですけどねぇ』



 単に人体彫刻が好みであるという意味の発言だと思っていた。

 よくある芸術作品のように、石を削って人の形にするのが好きなのだと。


 けれど、違った、間違っていた。


 強烈な悪寒と、それによって内臓が縮まるような感覚。

 動悸と呼吸は激しくなり、恐怖に侵された青年の体が震え始める。


「……あぁ、あれは、言葉のままの意味だったのだ」という恐怖に。



「――綺麗でしょう、私の


「ッ!?お、音無……さん」


 見上げると、部屋の入り口より奥の闇から現れたのは案の定、音無であった。


 狂気の屋敷の主が部屋に足を踏み入れた瞬間、青年の注意は彼の右手に注がれた。

 その手には、刃渡り30センチは下らない銀色の短剣が握られていた。


「な、何でここに!?不二峰といたはずじゃ……!」


「適当に理由を付けて別れて来ました。何せ、隠し部屋のセキュリティが侵入者を感知したものですから。焦りましたよ、まさかここが見つかるなんて。今後の参考として聞かせてもらえませんか宮間さん――貴方、一体どうやったんです?」


「……その前に、き、聞かせてください。何で、こんな惨い事を?」


 相手を刺激しないよう、宮間は努めて丁寧な口調で眼前の殺人鬼に尋ねた。


 音無は溜息を零した、まるで嫌な事でも思い出したかのように。

 そうしておもむろに、彼は宮間の近くのオブジェと化した女性の遺体へ、無感情な眼差しを向けつつ歩き始めた。


 女性のそばで立ち止まると、短剣を持たない方の手の指先が、生気を失ったその青い右腕を撫でた。


「この女は生前、うちの社員でしてね、本当に気に食わない女でした。いちいち私の経営方針に口を出して来て、多少の書類の不備ですら、見つけるとキーキーうるさい口で騒ぎ立てるので」


「……」


「ある時、彼女に、私が会社の金に手を出す瞬間を見られました。私は必死に説得しました。この事は黙っているようにと、そうすればお互いにメリットがあるのだと。けれど、この女は要求を聞き入れませんでした。そうして、いつものあの耳障りな声で、警察に突き出してやると私を追い詰めて来たんです。――殺してやりました。あまりにうるさくて、喉を裂いて、その金切り声を元から断ってやろうと思ってね」


 音無はフゥッと、女性の喉に空いたひし形に空いた穴に息を吹きかけ、溜まっていた僅かな埃を吹き飛ばした。

 満足したのか、感情の死んだその顔に僅かに笑みが浮かぶ。


 そうして、殺人鬼の瞳が宮間の方を向いた。


「私はその時初めて理解したんですよ、人体には無駄が多いと。この女の声帯のように、無駄で醜い部位が。だから、削って完璧に作ってあげなければ。分かりますか、強迫観念にも似たこの創作欲が?定期的に発散させないと、気がおかしくなりそうなんですよ」


 青年は何も言えなかった。

 音無という人間の、常人離れした思考回路や感覚に全くついていけなかったからだ。


 沈黙の最中、ただ1つだけ思った――「あぁ、これは聞くに値しない話だ」と。


 いつの間にか宮間の体を支配していた恐怖が消え、肉体は熱を感じ始めていた。

 腹の辺りを起点として、体の内側から沸々と湧き上がり、温度を増していく熱。


 その正体は、怒りだった。


「それで宮間さん、どうやってここまで辿り着いたんですか?ふっ、まさか、幽霊が連れて来ただなんて冗談言いませんよね」




「……るせぇ」


「?」


「――うるせぇつったんだよ、殺人鬼!お前なんかが霊を嗤うな、命を軽く見るなッ」


 霊視など最悪だ。朝起きた時、死人の魂を見るなんて事はざらだし、悪霊事件にも巻き込まれる。

 けれど、ある種の死を間近で見て来た彼だからこそ、それを冒涜する人間が許せなかった。


「……はぁ、オカルトマニアなんて屋敷に入れるんじゃなかった。こんな時にまで現実と空想の区別がつかないなんて」


 理解しかねるといった調子で、音無は短剣を構えるとそう言った。


「ッ!」


 その瞬間、宮間は拳を前に構えた。


 だが、そんな彼の警戒すら無意味に変える銀色の刃が襲って来る。

 紙一重で躱すも、それはブラフ。音無の突進により、宮間は壁に叩き付けられた。


 そのまま、宮間は音無に体重を掛けられ、壁へ強く押し付けられる。


「ぁ、がッ……!」


「まぁ、けれど、丁度良かった。貴方の隣の子、実はもう直ぐ完成するので、新しい素材が欲しかったところでしてね?特にあの白髪の女の方、良い素材になりそうです。ぁあ何、心配しなくても、貴方も立派な作品に仕上げて差し上げますから」


 徐々に、腕で防いでいた短剣の切っ先との距離が近くなっていく。


 そんな中、音無は、どこか興奮したような暗い笑みを宮間に向けた。

 先程までならば、そのまま恐怖に呑まれてしまっていただろう。


 しかし、それを上回る激情が宮間に抗う力を与えていた。


 苦し気な顔を浮かべつつも、青年は眼前の殺人鬼を睨み付ける。


「……アンタ、殺した中に、女の子が、いたろ。どうして……どうして、子どもの安定しない魂が、暴走して悪霊化する事がなかったと思うッ。――あの子が、最初から自分の死を受け入れてたからだ!アンタは、成仏するはずの魂を、縛り付けて、監禁、してたんだよッ。ッ!」


 言いながら、宮間は渾身の力で音無の鼻先に頭突きをお見舞いした。


 けれど、後退りながら鼻を庇うように手で覆い、音無が怯んだのは僅か数秒だった。


 殺人鬼の鋭い眼光が宮間を捉え、短剣の切っ先を彼に向ける。

 背中には、服越しからでも伝わって来る硬く冷たい感触。


 それはつまり、こちらには最早、逃げ道が存在しない事を意味していた。


「痛いじゃないですか、宮間さん」


「……ッ」


 胸が激しく鼓動しているのが分かる。


 そこにあるのは興奮、緊張、確かな焦り。

 しかし、宮間を絶望させるに足る恐怖は存在しなかった。


 宮間には予感があった。最悪と言えるこの状況を打破するのは、恐らくレイカだろうという予感が。


 屋敷に入る前、彼女が「心配する事は何もない」と言ったのだ。

 不二峰レイカは、あの探偵は確かに嘘つきで、信用出来ず、危険な依頼に平気でこちらを巻き込む人間である。


 ただ、彼女が毎度口にするその言葉が嘘だった事は、これまで一度たりともなかった。



「――なッ!?」


 音無が刃を振るった直後、短剣が明後日の方向に弾かれ飛んで行った。


 薄闇の中、宮間の視界で揺れる白い長髪。

 夜のように濃い闇を身に纏う彼女は――不二峰レイカは宮間の眼前で悠然と佇んでいた。


 レイカがこちらを振り向くと、彼女はいつもの余裕ある笑みを浮かべた。


「やぁ宮間君、さっきぶりだね。元気そうで何よりだ」


「不二峰。お前、また……」


「あぁ、すまないね。だが、いつも言っているだろう?私からしてみれば人も霊も変わらないのだよ。現に、今回もこうして、用意した餌に向こうが食いついてくれた」


 言いながら、レイカは音無の方へ視線を戻す。


「くっ。どういう事ですか、貴女は一体……」


「不二峰レイカ。探偵ですよ、怪奇現象専門のね。今回の依頼は、1年前に失踪し、恐らく亡くなったと思われる依頼人の娘――少女の霊を見つける事でした。手始めに、同じような形で失踪した者がいないか調べると、音無さん、最終的に貴方の屋敷に行き着きました。いくつかの霊の目撃情報がありましてね」


「まさか、そんなあやふやな情報だけで、ここまで来たと?」


「生憎と、それが私の専門分野ですので。とはいえ、物証は必要。こうして屋敷へ調査に赴いた訳ですが……幸か不幸か、どうやら証拠は十分過ぎる程に揃っているようだ」


 言いつつレイカは、周囲に飾られている女性達の遺体に視線を向けた。


 ――少女の、霊。それって……。


 宮間の思考が沈黙の裏で回る。

 レイカの言った女の子の遺体というと、目に見える範囲では宮間をここまで連れて来たあの少女しか思い当たらなかった。


「宮間君、悪いがこの部屋に長い黒髪の――」


「あぁ、いるよ。ちゃんとここにいる。……この子が、俺をここに導いてくれたんだ」


 宮間は右隣りに立つ少女を見つめつつ言う。

 そして、優しく微笑むと、不安そうにこちらを見上げていた彼女は、安心したように微笑みを浮かべた。


「そうか、見つけてくれていたか……。ありがとう。こればかりは、私では確実な方法で確認しようがなくてね。あとで少女の生前の写真を見せるから、その時改めて確認して欲しい」


 レイカに気負った様子はなかった。

 軽く用事を済ませるついでに頼み事をした、というぐらいのノリだ。


 眼前に立ちはだかる殺人鬼は、そんな彼女に対しフッと嘲りを込めて笑う。


「証拠は揃った。あとで写真を見せる。……そうですか、それは結構な事です。この状況で、簡単に帰してもらえると思っているなんて、不二峰さん、貴女は本当におめでたい思考の持ち主らしい」


「はて、そう難しい事のようには思えませんが?」


「だったら、試してみるといい!」


 次の瞬間、音無は懐からナイフを取り出して、正面からレイカを襲った。

 しかし、


「ッ!?」


 彼が突き出したナイフが空を切る。

 その空しい感覚の代わりに、音無が鳩尾に感じたのは強烈な衝撃。


「カ――ハッ」


「だから言ったでしょう?貴方の妨害を跳ね返すなど、とても簡単な事だと。探偵をあまり舐めない方がいい」


 めり込んだレイカの拳がゆっくりと離れる。


 あまりに素早く、前触れなく起きた出来事だったが、何が起きたのか宮間は遅れて理解した。

 単純な話だ。音無のナイフを躱したレイカが、流れるような動きで彼の腹に拳を叩き込んだのである。


 恐ろしく重い一撃であっただろう。


 その華奢な体からは想像出来ない膂力が、カウンターとして的確に急所を捉えたのだから。


 目を見開き、音無は脂汗を顔に滲ませながら全く動けないでいた。

 痛みを堪えるように腹を押さえつつ、かろうじて体勢を立て直そうとする。


「は、ぁ……ぅ、ぐ!はぁ、はぁ。探偵ごときが、この程度で、勝ったと――」


 音無がそれ以上まともに立っている事は叶わなかった。

 唐突に足の力が抜けたように、彼の右膝が地面についたのだ。


「は?――ぅ、あぁぁッ!」


 直後に音無を襲ったのは、肉が裂けるような痛みだった。


 激痛は右足だけに留まらなかった。

 右腕、左足、左腕、指、肩、歯、喉、内臓、殺人鬼は焼けるような痛みに叫び声をあげ、床をのたうち回る。


 レイカが何かをした訳でも、ましてや宮間が何かした訳でもない。

 その異常な様子に、彼女達は彼から一歩距離を取った。


 宮間の瞳には、音無の姿はほとんど映っていなかった。


 地面から這い出た数多の女性の霊が、彼を掴んで掴んでいたのだ。


「これは……」


「地縛霊となったのは、当然、少女1人だけではなかったという事だろう。彼女達は土地に縛られていた。悪霊化してもなお、自らを殺した人間を攻撃出来ない程に強くだ。その根幹には、音無皐という人間の振り撒いていた恐怖があったのだろう。何者も彼には逆らえず、どう足掻いても勝ち目などないという恐怖が。強固な恐れの鎖で彼女達が縛り付けられていたからこそ、彼は今まで無事でいられた。――が、どうやら、それを私の拳が破壊してしまったらしい」


 縛りから解き放たれた悪霊達は、音無に痛みを与え続ける。まるで、自分達が受けた傷を再現でもするかのように。

 されど決して傷は生まれず、死ぬ事など叶わない。


 それは、「呪い」と呼ばれる怪奇現象だった。


 ただこれは、両手で数えきれない程の殺人を犯し、その遺体までも無遠慮に散々傷付け弄んだ男が、受けるべくして受けた呪いでもある。


 音無が苦悶の表情でレイカを見上げ、彼女の足首を掴んだ。


「た、たす、助げ、で……!」


「ふむ、いいでしょう。今回は特別に、無償で貴方を助けます」


「ッ!だったら、は、はやく――」

「あぁ、初めに断っておきますが、私が保障するのは貴方の命だけですよ。それ以外は保障しかねます」


「なっ!?」


「悪霊となってしまった彼女達には、その原因である貴方を呪う権利があり、それは誰に咎められるものでもない。何故なら、彼女達の魂はとっくに穢され、堕ちてしまっているのだから。……ただ、命までは奪わせない。そうしてしまった暁には、彼女達の魂は貴方と同レベルに成り下がる。だから、奪わせない。それが彼女達にとってせめてもの救いであり、私がこの場で果たすべき義務なのですよ。貴方を助けるのはそのついでに過ぎません」


 そう言って、レイカは微笑を浮かべた。

 宮間は隣に立つ少女の霊を見つめる。


「……」


 死の残酷さが何かと問われれば、それはまさに、目の前の少女が抱えているような一種の絶望だ。


 生者はいつだって、未来へ進む事が出来る。例え辛い過去が足を引っ張ったとしても、いつかそれすらも糧にして、その足で未来へ向かって歩み始められる。

 しかし、死者は死に直面した瞬間から、それ以上先に進めなくなってしまう。どれだけ進みたいと願っても、過去に囚われ、永遠に苛まれ続けるのだ。

 何故なら、彼らには、そこから抜け出すための体などもう存在しないのだから。


 だとすれば、死して霊となった者が、生者のように過去を清算し先へ進むには、怪奇現象という不思議を起こし、現世に干渉する以外に方法はないのだろうか。

 いや、考えるまでもなくそうなのだろう。


 青年の視線に気付くと、少女は優しく笑みを作った。

 そうして、自らの亡骸の下へ歩いて行くと、彼女の魂は肉体へと戻った。


 少女の体が動き出す事はない。


 少女は1年前に死を迎えている。そして、この屋敷から抜け出すために――先へ進むために、彼女なりの怪奇現象によって宮間をここまで連れて来たのだ。


 ならば、宮間にはすべき事がある。


「そうだな、出よう――外に」







 ◆


 事件が一応の解決を迎えたのは、あれから数日後の事だった。

 宮間の通報により、音無は警察に身柄を拘束され、それからほとんど間を置かずに検察へ送られた後起訴となった。


「で、筋書き通りの結末になった感想は?」


 夏空の下、宮間界はわざとらしい声で隣の美女に尋ねた。


 視線を横に移すと、美女は――不二峰レイカは静かに瞼を閉じ、こちらと同じように墓前でしゃがんだ姿勢のまま両手を合わせていた。

 眼前の墓はレイカの依頼人親族の物であり、宮間達にとっては、あの地下室で亡くなっていた少女の墓だった。


「あれから、音無皐は合計24人もの女性を殺害した事実に加え、遺体損壊の容疑も認めたそうだ。彼の罪は今後、この国の法が適切に裁いてくれるだろう。依頼も完遂したし、気持ち良く次の依頼をこなせそうではある。感想は、概ねそんなものだよ」


「そりゃあ良かった。いやー、ホント……んなやべー事件だって事前に知らせてくれてれば、俺も手放しで喜べたかもしれない」


「伝えたら、君は挙動不審になるじゃないか。犯人に怪しまれても良かったのかい?」


 皮肉に正論で返され、宮間はムッとする。


「こっちは死にかけたんだが?」


「だが、こうして生きているし、結果として問題はなかっただろう?」


「問題なかった、って……。もし失敗したらどうするつもりだったんだよ」


「?ぁあ、そうなった時は、少なくとも君の安全は保障したさ。それが例え、私の命と引き換えだったとしてもね」


 レイカの発言に宮間は嘆息する。

 その言葉は、きっと本心なのだろう。だからこそ恐ろしい。


 どんな事でも約束は絶対に守る、そう口に出すだけなら簡単だ。

 しかし、いざ実行に移そうと思えば、一体どれだけの人間がそんな無理難題を達成し続けられるだろう。


 少なくとも、宮間はレイカ以外にそれが出来ている人間を知らなかった。


 依頼達成率100%、それは単にレイカの腕が良い事だけを示しているのではない。

 彼女が今口にしたように、それは、例え命と引き換えにしても成し遂げるという強固な意志の表れでもあるのだ。


 故に、その死に急ぐような生き方が、宮間には時々恐ろしく映る。


「……怖くないのか?死ぬのが」


「さぁ、どうだろう。感じてはいるはずだが、何せ、もうそれに慣れ切ってしまっているからね。……ただ、いずれにしても、私が恐怖に膝をつく事は許されない。霊視の出来ない私にとって、霊の振り撒く恐怖こそ彼らに辿り着くための道標となるのだから。――それから目を背ける事など、許されないのだよ」


 レイカの赤い瞳がこちらを見つめつつ言う。

 そこにはやはり、確固たる意志と覚悟が宿っていた。


「さっ、そろそろ行こうか。宮間君」


 そう言って立ち上がり、漆黒の探偵は歩みを進め始めた。


 暫くの間、宮間はレイカの背中から目を離せずにいた。


 止めようにも、その足は決して止まらない。

 いや、今はそんな気持ちすら湧き上がって来ない。


 ともすれば、ふとした瞬間にこの世界から消えてしまいそうな、一種の危うさを孕んでいる彼女に。

 けれど、恐れすら飲み込み、今ここに存在している彼女に、青年はただただ見惚れていたのだ。




 どうして。

 どうしてこんなにも、彼女の纏う闇に目を奪われてしまうのだろう。


 ――あるいは、心までも。

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怪奇探偵・不二峰レイカの幽霊譚 文月ヒロ @3910hiro

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