第7話 大団円
それこそ
「事実は小説よりも奇なり」
ということで、逆に小説のネタになるかのような話であるということで、いかにも小説を事実のように書くというのも、テクニックであることから、逆に、
「一室トリックなどは、密室の謎が解けると、意外と他の謎も簡単に解けてしまう」
という話が多かったりする。
長政が、なぜ、
「ゆいかとゆりかが同一人物に見えた」
と言ったのか、その趣旨は分からないが、様子を見ていてしばらくすると、
「長政が、ゆりかのことを気にしているのが分かった気がした」
と感じた。
長政は、ゆりかのことが好きだが、ゆりかの方では意識をしていない。しかし、なぜか、本来なら知らないはずの、ゆいか先輩が、長政という人間を気にしているような気がする。
「まさか、好きだなんてことはないよな?」
と心が歪に歪んでいるように思えた。
そう思うと、正孝は、
「俺自身の気持ちが、何か分からなくなってきているような気がするな」
と感じた。
「俺が好きなのは、ゆいか先輩のはずなのだが」
ということで、ゆりかに対しては。
「ただの幼馴染か、あるいは、妹のような感覚」
のそれ以上でも、それ以下でもない。
という気持ちだった。
そんな状態になって、正孝が考えたのが、
「俺たちは、三すくみの中にいる」
ということが分かってきた気がした。
そして。そこに、もう一人、
「長政」
という人物が増えたことで、
「まるで裏にも三すくみがあるような気がする」
ということであった。
ただ、それがどういう三S組なのかを考えるうちに、自分の頭が混乱してきたのだった。
というのも、最初に感じたのは、
「自分と、ゆりかと、ゆいか先輩」
という関係の三すくみであった。
しかし、あの時の、長政のセリフで、
「長政と、ゆりかと、ゆいか先輩」
という三すくみが考えられるのだった。
だが、それが、
「裏の三すくみだ」
ということになると、
「その中に、自分が入っていない」
というのは、おかしいような気がするのだった。
そして、そうなると、自分と、長政を入れた三すくみの中に、今度は、
「ゆりか」
あるいは、
「ゆいか」
が入ってくることになる。
その時に、正孝が感じたのが、
「三すくみのまわりに、さらに三すくみがある」
ということで、その時想像したのが、
「まるで、三角形の中に三角形がある」
というような図形で、ちょうど、戦国大名でいうところの、
「北条氏の家紋」
を思わせた。いわゆる、
「三つ鱗」
と呼ばれるものであった。
だとすると、正孝は、一つ気になることがあった。
「もし、俺と長政が、それぞれの頂点にいて、後の一点と、ゆいかと、さらにゆりかとがいる」
ということにすると、
「そこに二人が別々に存在するということになると、それこそまた別の世界ということになり、広がりが無限ということになり、理屈が合わなくなるのではないか?」
と考えたのだった。
「中学生のくせに、よくそんなことが分かるな?」
と言われるかも知れないが、逆に、
「中学生という柔軟な頭があるからこそ、考えられるものではないか?」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「やはり、広がったとしても、三つ巴のまわりに、もう一つの三つ巴という形である、三つ鱗というものまででしかないだろう」
という考え方だった。
その時に感じたのが、
長政が言っていた。
「ゆりかとゆいかの二人が同一人物に見えた」
という理屈というものがわからなくもない。
という考え方であった。
もちろん、二人が同一人物などということはないのだろうが、しかし、
「いや、言われてみれば」
という思い当たる節がないわけではないのだった。
というのも、
「そういえば、二人が一緒にいるところって、見たことあったっけ?」
ということであった。
それを確かめるすべは、ないわけではないが、確かめることが恐ろしかった。
「俺は、ゆいか先輩が気になってはいるが、ゆりかのことも気になり始めた」
と思うのだが、ゆりかのことが気になり始めたのは、
「長政という男の存在のせいではないか?」
ということである。
これをいわゆる、
「嫉妬」
ということにしてしまうと、
「長政というのが、恋のライバル」
ということになる。
それも、
「恋」
ということではなく、
「故意だ」
ということになれば、どういうことになるのだろう?
つまり、語呂合わせであったり、言葉の言い回しというのが、思わず吹き出しそうになる話ではあるが、噴き出すというのは、
「そもそも、意識していないから、笑えることでも、意識してしまうと笑えない」
といえるだろう。
つまり最初から笑っていないということは、
「最初からわかっていたことが立証されたかのようで、それこそ、笑いごとではない」
ということになるのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「裏の三すくみも表の三すくみも、三つ鱗の内なのか、外なのか?」
ということになるのではないかと思うのだった。
そもそも、
「裏表」
という概念がどこにあるのか
ということを考えたことがあったが、四次元というものを証明する時に使われるという、
「メビウスの輪」
というのは、
「どちらも、表であり、どちらも裏」
という認識を与えるかのように、捻じれているのに、鉛筆で書いていくと、
「裏が表になって、表が裏になる」
ということであった。
「表裏一体」
であったり、
「紙一重」
という感覚のたとえとして、
「長所と短所」
というものがいわれるが、そういう意味では、
「長所と思っていることが短所であり、短所であると思っていることが長所だ」
というくらいに、本当の紙一重なのだろう。
「裏があれば、表がある」
それは、
「光と影」
などのように、無数にある、表裏の中に一つなのだ。
だから、
「裏と表」
という感覚も、それを代表する
「裏と表」
とがあり、その感覚が、まるで、
「三つ鱗」
のようなものだといえるのではないだろうか?
そういえば、おとぎ話の、
「浦島太郎」
ここにも、
「裏という言葉」
が入っているが、表という言葉もあるのではないだろうか?
長政と正孝、どちらがどちらに結びつくことになるのか、今後の裏表の展開によって変わってくることになるに違いないのだ。
( 完 )
表裏と三すくみ 森本 晃次 @kakku
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