第6話 同一人物?
そんな時代を経て、スマホが普及してきて、今に至るというわけだが、今は、
「ケイタイ電話業界」
というべきか、スマホの普及はすごいもので、
「一人で何台も持っている」
というのは当たり前ということであった。
特にケイタイ電話というものが普及し、その代理店というのか、大手の三社が握っているといってもいいのだろうが、
「ケイタイ電話」
というのは、実に便利なおのだが、その代理店において、トラブルが発生すると、その「トラブルの度合い」
であったり。
「復旧までに掛かる時間」
というものがどれほどかかったり、ということで、
「社会がどれほど混乱するか?」
というのを、思い知った人も多いだろう。
特に、大手三社のそのすべてが、一度は大きな、
「通信障害」
というものを起こし、社会問題として、その大きな犠牲が露呈してしまったことがあったのだ。
もちろん、すべてが同じ時にあったわけではないので、
「A社で契約をしている人が、B社でもスマホをもっていて、どちらかが、通信障害があっても、もう片方でできる」
という、いわゆる、
「リスク回避」
というものが行われていたりした。
何と言っても、今のスマホでは、
「現金決済などというものも、スマホでできていたりして、いちいち銀行や、ATMに走らなくてもいい」
ということであったが、スマホの回線がダメであれば、このままでいれば、決済できないということで、銀行やATMがパンクしかねないということになってしまうことだろう。
そういうトラブルが起こるたび、皆それまでは、当たり前のように、
「文明の利器」
というものを遣っていたが。初めてそれが、
「最初からあったものではない」
ということに気付くのだ。
つまりは、
「文明の利器」
というのは、
「ライフラインと呼ばれるインフラあってのことである」
という、本当に当たり前のことを思い知る形になるといってもいいだろう。
実際に、今は、
「お金が掛かる」
ということや、
「いらないだろう」
などという理由で、昭和の頃は、
「一家に一台は最低あった」
と言われるものが、姿を消している。
その最たる例が、2つあり、一つは。
「固定電話」
であった。
これは、元々、電話回線の使用権というものがあり、それ自体がかなり効果だったのだ。
いわゆる、
「電話番号の使用権」
とでもいえばいいのか。確か、1回線で、
「8万円」
くらいではなかっただろうか?
ということであった。
今から思えば、
「なんと高いことだろう」
ということで、しかも、ケイタイ電話というものが普及してくると、
「もう固定電話はいらない」
ということになった。
だから、
「電話も、使用権も売る」
という人が増えてきて、
「今では、ケイタイ電話しかない」
という家庭がほとんどではないだろうか?
会社などでは、固定電話というものはまだあったりするが、実際に営業で使う電話というのも、直接本人に掛かるケイタイ電話というものを使うことが多い。
だから、
「会社が社員に、会社で契約されたケイタイを持たせる」
ということが普通になってきた。
「急ぎでもなければ、メールで」
ということもあり、実際に普及もしたのだった。
さらには、
「スマホ」
が普及してくると、SNSなどが強くなり、
「メールという、1対1という関係だけではなく、グループ通話というものができるようになった」
ということで、
「そうしておけば、一斉配信も可能だし、個人を指定して連絡することも可能ということになり、そこに映像を介することを行えば、一種のテレビ会議のようなことだってできるのだ」
というものだった。
さらに、家庭から姿を消しつつある電化製品としては、
「テレビ」
というものがある。
今までは、ラジオと並び、
「情報伝達の一番の手段」
ということであったが、正直、最近のテレビ番組は、目を覆うかのようなものが多くなった。
それに比べて。SNSなどでは、
「個人配信」
ということもできるようになり、企業の情報発信なども、
「スマホを中心としたSNS」
で、行われることが主流となってきたのだった。
そういうものが普及してくると、
「テレビなど見ないよな」
ということで、スマホが普及してから、数年後にそのターニングポイントがあったのだが、テレビにおける、
「それまでの、アナログ放送が打ち切りになり、デジタル放送に移行する」
ということになり、今までのテレビでは見ることができないということになってしまったのだ。
だから、
「デジタル映像を映すためのテレビ」
を買う必要があり、当時の出はじめは、結構高く、
「10万円以上」
というのが主流だった。
それを思えば、
「スマホで、ニュースや、情報の配信を見ればそれで充分だ」
ということになり、テレビ番組も、見たいものがあれば、
「テレビ局が配信している有料番組を見ればいい」
ということで、
「テレビがなくとも、スマホで見れる」
ということになると、
「何も高い金を出して、テレビを購入する必要なんかないんだ」
ということになるのであった。
そんな中で、長政がいうには、
「俺、時々、ゆいかさんと、ゆりかさんが、同じ人間なんじゃないか? って思うことがあるんだ」
という。
「どういうことだい?」
と聞いたが、少し気持ち悪いという気分になった。
というのも、
「こいつは、部員でもないのに。うちの部員のことをチェックしているのか?」
という、一種の、
「ストーカー気質」
と、
「俺が、ゆいか先輩を気にしていていたということをどうして知っているのか」
ということと、
「俺が自分でも意識していない、ゆりかのことを、こいつは、どうして意識しているのか?」
ということであり、それは、
「俺とゆりかの仲を疑っている」
ということであり、それは、正孝に対しての、
「執着ではないか?」
と思うと、そちらの方が気持ち悪い気がするのだった。
だが、その話を聞いていると、
「どこまで真面目に聞いていいものだろうか?」
と感じられた。
元々、真面目に人の話を聞くというよりも、どちらかというと、
「はぐらかす」
という方が強い男だったので、それを思うと、
「よく皆から、怒られなかったよな」
と思うほどだった。
「人の話を聞くときは、相手の目をしっかりと見て話をしなさい」
というようなことを、親から言われていたりした。
親が言っていることは、確かに間違いではないのだが、真面目に聞いていて、
「損をする」
ということも、今までには、結構あった。
というのも、
「小学生の頃は、他愛もない話に花を咲かせる」
ということが多かったので、それが、友達としての、バロメーターのような感じなのだったのだ。
小学生の頃に一人で、
「孤立していた」
いや、言い方を変えれば、
「孤独を楽しんでいた時期」
というのは、
「結構、SFのような、空想物語の本であったり、科学の話の本を読んだりしたものだ」
もちろん、大人の本は難しいので、中学生くらいの人が見れるくらいの本を気にするようにいなっているのだった。
そのおかげで、
「タイムマシン」
の本などを見たりすることも多かった。
一つ、その中で気になったのが、
「ドッペルゲンガー」
と呼ばれるものであった。
この言葉は、意外といろいろな人が知っていて、話をしてみると、案外皆それぞれで、微妙に考え方が違うというようだった。
「どこで知ったのか?」
と聞くと、そのほとんどが、
「アニメだ」
というではないか。
確かにアニメなどでは結構あるかも知れない。
マンガもアニメも見ない正孝には、それ以外から得た知識の人と話をしたかったのだが、それも致し方ないだろう。
最近一緒にいる、長政も、
「アニメやマンガだ」
という。
実際にどういう話か聞こうと思ったが、
「話が長くなる」
という。
というのも、
「話の中の展開として、ドッペルゲンガーというものが出てくるので、話す方も、どこから話せばいいのかということで、戸惑ってしまうんだよな」
という。
中には、
「登場人物が、ドッペルゲンガーのような存在のキャラクターになっていて、それを説明するのが難しい」
という。
それはそうだろう。
「一人の人間のドッペルゲンガーの話をするには、その元になった人間の性格から話さなければいけない」
ということだ。
つまりは、
「本編の中で、徐々にその人の性格があらわになっていくような感じであれば、まわりの人のことも書かないといけない」
ということになり、
「範囲をどこまで伸ばしていいのかが、分からない」
ということになるのだ。
それを考えると、
「最初と終わりをどこに持ってくればいいのかが、分からない」
ということであり、結局、
「マンガを頭から読んでもらわないと、説明ができない」
ということになるのだというのだった。
それが、長政だったのだが、それ以外に、同じマンガで、
「ドッペルゲンガーというものを覚えた」
と言っている人に聞いてみたが、その人は、結構うまく話をしてくれた。
どこから刻めばいいのかということをしっかりとつかんでいるようで、話の道筋もよく説明を聞いて、分かったのだ。
「なるほど、説明上手な人に掛かれば、こういうことなんだ」
と思えてきた。
長政は、それほど説明が下手ではなかったのだが、
「きっと、最初から最後まで、完璧に説明しようと思うことで、自分の意識が空回りして、余計にどこで切っていいか分からない、金太郎飴のような感覚になるのではないだろうか?」
と考えられるのだ。
その感覚は、正孝にもわかっていた。
正孝も、
「俺は、人に説明することが苦手だからな」
と思っていたのだが、その理由として、
「俺には、簡単に分かることではないんだ」
ということであった。
いろいろな昔からある、
「おとぎ話」
というのも、
「途中で終わっている」
というのも少なくはない。
中には。
「実際には、ハッピーエンドで終わるはずのものが、ハッピーエンドではなく、まるで、戒めのような終わり方をしている」
というものがある。
その最たる例として、
「浦島太郎」
ではないだろうか?
この浦島太郎という話は、これこそ、
「SF話の最たるもの」
といってもいいかも知れない。
「カメの背中に乗って竜宮城に行く」
というのは、
「まるで、空気のない宇宙空間のようではないか?」
とも考えられる。
もちろん、これは勝手な妄想であるが、浦島太郎が地上に戻ってきた時、
「竜宮城では、数日だったはずが、何と、数百年が経過していた」
ということではなかったか。
というのも、
「竜宮城ということろが、宇宙空間であり、宇宙まで、カメの背中という宇宙船に乗ってやってきた」
と考えれば、アインシュタインの、
「相対性理論」
ともいうべき、
「光速においては、時間が、ゆっくり進む」
という理論を証明しているかのような話ではないか。
編纂されたのは、室町時代で、約600年くらい前だというが、そもそも、編纂する前には、
「口伝」
ということで、昔からその土地土地に残っている話が口伝えに言われてきたことであった。
だからこそ、いろいろなところに、
「浦島伝説」
と言われるようなものが残っているのだろう。
となると、言われてきたのは、さらに昔からということになり、
「室町時代であっても、信じられないのに、さらに昔というと、それこそ、宇宙人説が、そのまま語られているようなものではないだろうか?」
と考えられるのであった。
浦島太郎の話は、本来であれば、もっと先まで話が続いているのだが、今日っか所編纂のための整備として、当時の文部省が、
「見るなのタブー」
という話でまとめたというのだ。
ただ、そんな理屈は分からない、小学生時代の正孝は、
「相対性理論」
とは別の考えを持っていた。
というのが、
「竜宮城というのが、光速だった」
という考えではなく、実際には、数百年が経っていたという考えであった。
それは、
「浦島太郎が、自分の姿を見ることができないので、分からなかっただけで、本当は、お爺さんのようになっていたのに、自分だけが若いつもりだった」
ということなのかも知れない。
「故郷が懐かしくなって、地上に戻ってきた時、乙姫から、もらった玉手箱をあけた時に、お爺さんになってしまったのではなく、最初からお爺さんであったということを玉手箱をあけることで認識した」
ということにしたかったという意識を乙姫様が持っているとすれば、それは、浦島太郎に、
「見るなのタブー」
というものを認識させることで、ショックを和らげるつもりがあったのかも知れないとも考えられる。
それは、
「乙姫様が、太郎と一緒にいたいという一心から、太郎に対して与えたごちそうの中に、不老長寿のような薬があったとして、そのかわり、妖怪になってしまう」
というものだったとすれば、乙姫は最初から、
「太郎と、すっと竜宮城で幸せに暮らすつもりだった」
と考えられるだろう。
しかし、それは、乙姫のわがままで、竜宮城に、乙姫よりも偉い。例えば長老のような人がいて、
「太郎を陸に戻してやらないといけない」
ということを言っていたとしよう。
しかし、
「あの人には、不老不死の薬を与えました」
というと、長老は、
「では、これを持たせて、地上に返せばいい」
ということで、
「地上に帰りたいと言った太郎に対して、乙姫は、しぶしぶかも知れないが、玉手箱を渡して、陸に返したのだろう」
ということであったが、正孝は、もっと奇抜な発想を、実は持っていたのだった。
というのは、
「浦島太郎が竜宮城に来るきっかけとなったカメの正体が、乙姫ではないか?」
ということであった。
というのは、浦島太郎尾最後のハッピーエンドのところで出てくる乙姫様は、
「カメになった」
と言われているので。元々、
「乙姫様というのが、カメの化身だった」
ということであれば、納得もいくというものではないだろうか?
それを思うと、
「乙姫様がラストで、浦島太郎のことが忘れられずに、丘に上がって、自分はカメになり、太郎は鶴になって。二人は、幸せに暮らした」
という話にも辻褄が合うということになるであろう。
浦島太郎という話も、
「カメと乙姫様」
というのが、同一人物であったということにすると、何か明治政府の中で、都合の悪いことがあったのかも知れない。
だから、話が中途半端であったが、それを、
「見るなのタブー」
という戒律に変えることで、辻褄を合わせようとしたのかも知れない。
もっといえば、
「見るなのタブー」
と言われる話は、日本のおとぎ話にもいくつかあるが、世界中の神話であったり、宗教の聖典のようなものでは、当たり前のように書かれている。
それはきっと、浦島太郎の話のように、
「何か隠さなければいけないものがあって、それを隠そうとして、話を盛るというよりも、削ることで、一つの話を完結させようとしているのかも知れない」
とも考えられないだろうか?
確かに、
「見るなのタブー」
という話は、よくよく考えてみると。
「どれも最後は見てしまったことで、現実に戻ってしまう」
というような、少し中途半端にも感じられる話が多いではないぁ。
それを思うと、
「浦島伝説」
というものが、途中で中途半端になっている理由が分かるというものである。
そういう意味で、ドッペルゲンガーという現象(ここでは敢えて、現象という言葉を使う)も、おとぎ話のような、
「辻褄合わせのような何か」
が裏に潜んでいるのではないか?
と思えるのだ。
特にド@@柄ルゲンガーというものは、
「見ると、近い将来において死ぬことになる」
と昔から言われているが、実際に、そうだったという記録が、特に、著名人で残っていたりする。
ということは、よくよく考えてみると、
「ドッペルゲンガー」
というものを、
「見たから死んだ」
と考えると、本当に都市伝説になってしまうので、それを、
「死んだから見たことにする」
と考える方が、分かりやすいうものだ。
特に、探偵小説などでよく言われている、
「密室トリック」
というのも、結構その通りだといえるものも多いのではないだろうか?
例えば、
「密室ということにしてしまったことで、事件は、異様な雰囲気になってしまったが、本当は、犯人側からすれば、自分たちが、誰かの手によって殺されたということにする方が、実際には、分かりやすいというものだ」
というのも、誰かに殺されたというような証拠を普通であれば、残しておいて、その人を犯人にしたいというような工作をしておく方が、普通の犯行らしいではないか。
つまり密室殺人というのは、
「その謎を解くのは結構難しいのかも知れないが、案外と、機械トリックであったり、実は、そこで殺されたかのように見せかけたい」
ということで、
「犯人にとってのアリバイトリックと密接に結び付けておくのだ」
と考えれば、
「密室にした理屈も分かる」
ということであるが、これも、やはり犯人にとっては、探偵を惑わす武器として使われるものであろう。
だから、
「密室トリックというのは、後者であれば意味はあるが、前者であれば、密室にする必要はない。それを密室にしたということは、犯人側にとって、何か意外な事実が起こってしまって、仕方がないから、密室にした」
ということになるだろう。
もっといえば、
「本当は、玄関とかをあけておいて、庭に足跡を残しておき、犯人の逃走ルートまで分かるようにしておいたのに、たまたま、雪が降ったことで、その足跡が消えてしまった」
ということなどがそんな時ではないだろうか?
探偵小説というのは、そういうアクシデントがある方宇賀、ストーリーにも幅が出るし、トリックに辿り着くまでの心理的な発想が渦巻いているという、
「叙述トリック」
というものにもなったりするだろう。
そんなトリックを駆使するのが小説なので、
「ドッペルゲンガーのような話」
というのも、それこそ、
「叙述のようなものだ」
と考えれば、エンターテイメントとしての小説やマンガに描かれるのが、正直なところだと思うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます