第5話 三すくみ
長政のことを気にしながら、美術部では、それまで忘れかけていた、ゆりかが入ってきたことで、びっくりさせられた正孝だったが、それは、
「俺が、ゆいか先輩を気にしている」
ということがバレるのが、気になったからだった。
別に、恋愛感情を持っているわけでもなく、付き合った経験があるわけでもない、ゆりかに対して、そこまで気を遣うということをしなくてもいいと、正孝は考えていたはずだった。
それなのに、
「なぜ、ゆりかのことが気になるというのか?」
と思ったが、それはきっと、
「ゆりかになれなれしくされて、ゆいか先輩から、誤解されることが嫌だと思ったからではないか?」
と感じたのだ。
ただ、今の時点で、自分が、ゆいか先輩のことを気にしていることを、本人には知られたくなかった。
なぜなら、自分の中で、
「どうしてゆいか先輩のことが気になるのか?」
ということを自覚していないからではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「ゆりかと俺、それにゆいか先輩の三人は、何か、三つ巴になっているのではないだろうか?」
と感じたのだ・
「三つ巴」
いわゆる。
「三すくみ」
というものである。
これは、それぞれにけん制し合うことで、まったく動けないということを示しているのだということで認識していた。
「ヘビはカエルを丸のみするが、カエルはナメクジを食べる。そして、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」
という例でよく言われるのだが、もっと分かりやすいのは、じゃんけんであろう。
これは、
「グーは、チョキには勝つが、パーには負ける」
「パーは、グーには勝つが、チョキには負ける」
ということは、
「チョキはパーには勝つが、グーには負ける」
ということで、
「それぞれに、相手が、苦手であり、得意なものをもっていて、それが、まったく相いれないということで、結果、身動きができなくなってしまう」
というのが、三すくみの関係だというのだ。
だから、まったく動けない状態。
もっといえば、
「最初にどれかが動いたとすれば、最後に残るのは、自分に強い相手だ」
ということになる。
ただ、これは自然の摂理だということになると、
「最後に生き残ったものも、いずれは滅びてしまう」
ということである。
それはなぜかというと、
「お互いにそこには存在するものが、その三匹だけ」
ということを考えると、
「必ず最後には、どれもいなくなってしまう」
ということで、それは、
「寿命が尽きるから?」
というわけではなく、
「自然の摂理だからだ」
といえるだろう。
なぜなら、
「食料をすべて、食べ尽くしたのだから、あとは、餓死するのを待つばかりだ」
ということである。
この
「三すくみ」
という話の感覚として、面白い考え方がある。
その一つが、前述の、
「すべてがいなくなっていた」
ということである。
これはどういうことかというと、
「最初に見た時は、三匹が、睨みあっていて、まったく身動きもしないという状態の時だ」
といえるだろう。
しかし、どれかが、動くと、いわゆる、
「山が動いた」
ということで、そこから、変化が起こってくる。そして、その変化も決まった変化であるということから、そこに、
「自然の摂理」
ということが関わってくるとどうなるか?
ということであるが、結果としては、
「食料がなくなったことで、最後には餓死してしまう」
ということになり、
「食料になるのと、食料がなくて、次第に弱っていき、餓死してしまう」
というのでは、どっちが嫌だろうか?
ということである。
確かに、食べられるというのは、想像しただけでゾッとするものがあるが、それは、苦しみを感じる時間という意味では、ある意味、一瞬と言ってもいいのではないか?
しかし、餓死ともなると、まわりが自分に襲い掛かってくるわけではないのだが、目の前にあったごちそうを食べ尽くしてしまったことで、今度は、自分が、餓死という苦しみを味わることになるのである。
しかも、その苦しみというのは、かなりの間、感じなければいけないだろう。
そして、苦しみというのは、自分が思っているよりも、感覚が長いもののようなので、きっと、想像していたよりも、長い苦しみを味わいながら死ぬことになるはずである。
それを考えると、
「俺は嫌だ」
と感じる人もいるだろう。
宗教では、
「自殺というのは禁止している」
ということであるが、このまま放っておいて、
「最強の苦しみが待っている」
と考えると、
「自殺してでも、安楽死のような形の方がいいのではないか?」
と考えたとしても、無理もないことだろう。
だから、
「最初に動けば、最初に自分が食われてしまう」
ということが分かっている。
しかも、自分が生き残るということは、
「自分以外の誰か、ここでいえば、自分に対しての絶対的な強みを持っている天敵が苦しむわけである」
ということだ。
もっといえば、
「自分よりも立場が強い相手」
「最強ではないか?」
と思う相手が、目の前で、もう一匹に食われてしまうのだ。
そんな苦しみを目のあたりにされて、今度は、自分が、
「それ以上と思えるような苦しみを味わわないといけない」
という状態になるのを、黙って運命として、受け入れることなどできるということなのか?
という問題である。
それを考えると、この三すくみの最後に生き残るということは、
「これ以上の苦痛はない」
ということになるのだ。
最後に見たものは、
「何で、誰も生きていないんだ?」
とは思うだろうが、何が起こったのかということは、最後は餓死した死体を見た時、理解するに違いない。
そして、もう一つというのは、
「自然の摂理」
という大団円を考えない、
「一種の理屈」
ということで考えると、
「一番最後というのは、自然の摂理だ」
ということが分かるということである。
というのも、最初から考えていくと、
「まず、自分が動いたということを考えよう」
ということである。
自分が動けばどうなるかというと、
「自分が狙っている相手というのは、自分を狙っているやつから見れば、天敵であるので、そちらに意識を強めるであろう」
ということだ。
しかし、その自分を襲うかも知れないやつを、こっちが、攻撃してくれるのだから、相手は、
「黙って、様子を見ていればいいだけだ」
ということになる。
そして次には、
「自分と、自分に対して、絶対的な力を持っているものが生き残る」
ということになるわけで、そうなると、もう、自分が食われてしまうのは、
「火を見るよりも明らかだ」
ということになるのである。
それを考えると、
「なるほど、誰も動かないわけだ」
ということになるのだ。
「動いたら負け」
という考えは、この三すくみというものだけではないといえる。
その一つのいい例として。
「将棋の世界」
というものがあるといえるのではないだろうか。
将棋の世界において、
「一番隙のない布陣というのは、どういうものなのか?」
と言われたとすれば、どう答えるというのだろうか?
回答は、
「それは、最初に並べた形なのだ。つまり、一手差すごとに、隙が生まれる」
ということで、
「そういう意味でも、勝負事は、必ず、最後には勝敗がつく」
といってもいいだろう。
何しろ、
「一手打つごとに、そこには、違う隙が生まれるわけなので、手が進むにつれて、勝敗の行方が分かってくる」
というわけだ。
だから、これは、減算法でしか当て嵌まらない。加算法のように、
「一から積み重ねるものは、隙という意識はなく、攻めることに集中し、
「ある程度隙がない時点になった時、勝敗が決する」
といってもいいだろう。
将棋の世界であったり、囲碁の世界であったりと、どちらも、
「盤の上での勝負」
ということであるが、
「将棋が減算法である」
というのに対し、
「囲碁は加算法である」
というところが違うのだ。
とにかく、
「三すくみも、同じ減算法だ」
と考えると、三すくみが分かりやすいのではないだろうか?
そんな三すくみの関係を、正孝は、
「自分と、ゆいなと、ゆりなの関係だ」
と勝手に思っていた。
普通に考えれば、
「三すくみでも何でもない」
と思うのだろうが、実際には、三すくみの関係のように思えるのだった。
というのも、
「何かが裏で暗躍している」
という、まるで、テレビドラマ、それも特撮番組か、アニメでも見ているような感じだった。
正孝は、実は、
「特撮は見るが、アニメはあまり見ない」
ということだった。
アニメを見ないだけではなく、マンガの方もあまり見るわけではない。その理由について、正孝は、今までに誰にも話したことはなかったのだが、自分で思っていることとしては、
「皆同じ顔に見える」
ということであった。
子供がそんなことを言っても、
「どうせ子供だから」
と言われたり、下手をすれば、
「子供のくせに生意気な」
と言われると思ったからだ。
確かに、相手はプロなのだから、子供がいくら叫んでも、握りつぶされるというのは分かり切っていることであって、それを思えば、何も言えなくなるのだ。
そんな中で、マンガにしても、アニメにしても、特に、
「劇画調」
の作画というのは、どうにも皆同じに見えて仕方がなかった。
というのは、どうしても、臨場感というものをあらわさなければいけない作品なので、皆、マンガ一つ取っても、臨場感を表すために、似たような作風になるのは仕方がないことだろう。
しかも、そこで出てくる女性というのが、さらに、臨場感があったり、
「女スパイ」
という感じであれば、リアルな感じになるのだ。
しかも、中学生になってから、見た、
「エロ漫画」
と言われる劇画調のマンガ雑誌があるが、そこでは、ハードボイルドな中に、エロいシーンを描きたてているので、余計に、エロさというものが、リアルすぎて、どぎつい描写になってしまう。
それが嫌だったのだ。
だからこそ、
「マンガはあまり読まない」
ということの理由を、話そうとはしないのだった。
聞かれることもあるのだが、
「別に細かい理由なんかないもんな」
というだけであったが、まさに、その通りだった。
「別にこれと言った理由なんかないさ。皆だって、嫌なものは嫌だというだろう?」
というと、黙ってしまう。
たぶん、皆にもそれなりに嫌なものがあり、その理由について、
「聞かれて答えられるものではない」
と思っていることも多いだろう。
だから、
「とりあえず聞いてみる」
という人がいるのだろうが、聞かれると、
「皆もそうじゃないか?」
といって、切り抜けるのであった。
だから、アニメも、マンガも嫌いなのだが、そのわりに、まわりで、
「マンガもアニメも嫌いだ」
という人は、あまり聞いたことがないのであった。
そんな、裏で何かが暗躍しているというような発想は、なるほど、アニメや特撮ではありがちだ。しかし、特撮も中学に入って見ることはなくなった。だとすれば、何を見るのというと、
「普通の小説などの、文庫本」
だったのだ。
それも、最近の、ラノベなどは嫌だった。
ラノベというのは、短縮後であr、いわゆる、
「ライトノベル」
というもので、
「読んで字のごとし」
つまりは、
「軽い読み物」
と直訳すれば、どういうことになるだろう。
確かに、最初に出てきた時は、
「ケイタイ小説」
などのように、
「読みやすいように」
という理由からか、行をあけるのが無駄に多かったりして、言い方は悪いが、
「いかにも、ページ数稼ぎをしている」
といってもいいかのようであった。
さらに、最近では、
「ケイタイ小説」
というイメージよりも、どちらかというと、
「マンガの原作や、アニメのノベライズ化」
という性格が強いのではないだろうか?
そういえば、今から30年くらい前だという話を聞いたことがあったが、当時は、それまでのドラマというと、
「小説が原作となっているもの」
というのが多かったのだが、途中で、
「原作というものがなく、脚本家のオリジナルシナリオを遣ったドラマ」
というのが多かった時期があった。
いわゆる、
「トレンディードラマブーム」
という時代があり、それらは、数名の有名なシナリオライターが、繰り広げる、
「青春ドラマ」
であったり、
「恋愛ドラマ」
と言ったものが多かったのだが、中には、
「当時のトレンドとでもいうべき内容のものが織り込まれたりと言った小説も多かったのだ」
たとえば、当時流行っていたものとして、
「ポケベル」
などというのがあった。
実際には、当時から開発が進んでいた、ケイタイ電話への移行のための、
「橋渡し的な存在」
という印象が強かったが、実際には、2、3年もブームがあっただろうか。
「手のひらサイズの端末で、そこから数字の羅列で、相手に送る電信」
ということで、いわゆる、
「小型のメール送信器」
とでもいえばいいのか、
「何桁かの数字の羅列が、一般的な暗号のようで、そう、昔あった、電報の数字バージョン」
と言ったところだろうか。
そんなものが流行った時代があったが、実際には数年だけだった。それは、ケイタイ電話というものの普及が一気に進んだからだった。
というのも、携帯電話の開発に拍車がかかったというのは、一種の、
「天災」
と呼ばれるものが原因だった。
当時、日本では、ある地方にて、
「最大級の自信が発生し、しかも、大都市直下型だったことで、未曽有の大災害となったのだ」
ということであったが、その時に、生存者や、家族たちが、その安否を確認しようにも、当時まで主流だった、
「固定電話」
というものが、ほとんど役に立たなかったのだ。
それはなぜかというと、
「固定電話の回線がパンクしてしまって。その影響で、回線が制限を受け、その災害のあったあたりの電話がかかりにくくなる」
という現象になったのだ。
そこで考えられたのが、
「ケイタイ電話の回線」
であった、
電話を掛ける時、固定電話だけでなく、
「ケイタイ電話の回線もあれば、その分、回線がパンクすることはない」
というのが、元々の携帯電話普及の裏側に潜んだ理由だったのだ。
確かに、ケイタイ電話が普及すれば、電話回線がパンクすることもないということだっただろう。
実際にそれからの携帯電話の発展は目まぐるしいものがあった。
というのは、
「最初こそ、電話機能くらいか、本当に電報と言ってもいいくらいの短いメールくらいしか打つことができなかったのだが、そのうちに、ケイタイの機種もどんどん発展していき、ケイタイで、通話はおろか、メール、写真機能まで充実してきて、最後の方には、ワンセグと言われる、テレビ機能までついたくらいだった」
さらに、
「ゲーム機」
として使われることも多く、電車での、通勤通学の間で、皆ケイタイを見ているということも珍しくなかった。
またそのせいで、
「歩きながらのケイタイ弄り」
という歩行者のマナー問題が起こったり、さらにそれを、
「車に乗っている時」
さらには、
「自転車の運転中に行う」
などというとんでもない連中が多かったりした。
それが社会問題となり、
「マナーの悪さ」
というものが露呈し、下手をすれば、大事故に繋がり、
「死者も出かねない」
という大問題に発展しかねないことであろう。
だが、ケイタイ電話、つまり、今でいう、
「ガラケー」
というものの時代は、10数年くらいのものであっただろうか。
「ガラケー」
というのは、
「ガラパゴスケイタイ」
ということであり、
「機能的には高機能ではあるが、後継機に押され、古い形になった、特徴のあるケイタイ電話」
という定義であった。
そこで、出てきたのが、
「スマートフォン」
というもので、特徴としては、
「ゲームなどの普及」
さらには、SNSと呼ばれる、情報発信であったり、拘留のためのアプリが多様化していて、それに合わせる形で開発されたものだった。
もはや、電話という意識はほとんどなく、契約プランによっては、
「通話無料」
というものがあったが、
「音声通話であれば、何も電話でなくてもいい」
ということが言われるようになってきた。
おりしも、スマートフォン、つまりは、
「スマホ」
と呼ばれるものが、普及し始めて少ししてから発生した、以前の、
「未曽有の大災害」
に匹敵するか、あるいはそれ以上の被害を出した大災害があったのだが、その時、ケイタイ電話で、当時の固定電話と同じように安否確認をしようとしたが、今度は、
「ケイタイ電話の回線がパンクした」
ということで、本末転倒となっていた。
しかも、その時代において大きく露呈したのは、
「当たり前のことなのだが」
という前置きがあったうえで、
「ケイタイ電話」
というのは、他の電化製品と同じで、
「充電が切れると、何もできない」
ということなるのだ。
つまりは、
「未曽有の大災害」
ということになる、
「インフラ」
と呼ばれる、ライフライン。つまりは、
「電気」
「ガス」
「水道」
というものが留まるのは必至であった。
当然、電気がなければ、電化製品は、まったく役に立たない。
つまり、情報を得ることができないということで、夜も、ほぼ真っ暗な中での行動を余儀なくされるということになる。
ただ、安否確認をするために普及したといわれる。ケイタイ電話が、肝心な時に役に立たないというのは、もどかしいことであった。
そんな時、
「SNSというのが、ある意味、大きな意味を持っていた」
というのが、
「スマホになってからのSNSの発展では、昔のように、文字だけというわけではなく、音声通話というものが、充実してきたのだ。
しかも、その通話というのが、
「電話回線」
というものとは別のものなので、皆が一斉にやっても、
「掛かりにくい」
ということはないということであった。
基本的には、無料通話ということであるが、それはあくまでも、
「WIFI」
と言われるものがあってのことで、
「契約しているケイタイ電話」
と、無料回線使用の端末を無線や有線(LANケーブル)でつなげば、
「無料で話ができる」
というだけで、実際に、
「WIFI」
の機械が壊れていたりした場合は、無料というわけではない。
ただ、それは仕方のないことで、もし、
「WIFI」
というものが使えないとすれば、
「有料にはなるが、スマホの契約会社の回線を使って通話をすることができる」
というものであった。
そういう意味で、10年ほど前にあった、
「未曽有の大災害」
の時に、ケイタイの電話回線がパンクしたという、本末転倒だったことを解消するために、今度は、
「SNS」
ということでの、アプリによる回線が、急ピッチで開発されたというのが、裏に潜んでいるということであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます