第4話 精神疾患?
クラスの中に、面白いやつがいて、彼と友達になったのは、入学してすぐくらいのことだった。
「君とは、すぐに友達になれる気がしてね」
といって、気軽に話しかけてくる。
名前を
「長政」
といい、
「恰好いい名前じゃないか」
というと、
「うん、親父が戦国時代が好きで、長政って名前が結構多いんで、それにちなんでつけたということなんだ」
というではないか。
確かに、
「山田長政」
「黒田長政」
「浅野長政」
と、結構多い印象だ。
歴史が好きな正孝からすれば、
「なるほど、馴染みやすいやつだ」
ということで、すぐに友達になった。
彼にはいいところと悪いところが背中合わせにある感じだった。
いいところは、
「何事もこだわることなく話をしてくれる」
ということだ。
そういう意味では、本音が聞けて、こちらも言いたいことがいえるということで、ありがたいと思うのだった。
しかし、逆に、それだからこそ、失礼なところがあり、本当は、そんなつもりはないはずなのに、それでも、余計なことを言ってしまうというのは、
「言いたいことを言ってしまわないと気が済まない性格」
なのだろう。
確かに、言いたいことをしまっておくと、胃がキリキリ痛んだり、下手をすると、心が病んでしまう人もいるだろう。そういう意味では、
「吐き出す」
というのは、悪いことではないといえる。
それを考えると、
「長政の性格は、長所と短所が紙一重だという言葉を、実践しているかのようではないだろうか?」
ただ、
「竹を割ったような性格である」
と言え、プラマイゼロというよりも、プラスに近いと思えるところが、いいところではないだろうか?
そんな長政と、一緒にいることが多くなるのだが、それはあくまでも、
「学校の中で」
というだけのことで、学校を離れると、まったく分からない世界だったのだ。
まだ、知り合って少しだけなので、そこまで相手に深入りすることもない。それは、長政の方が分かっているようで、けっして、学校の外のことを話そうとはしない。
家のことはもちろん、小学校の頃の話もしようとしない。それを思うと、
「どこか変わっているな」
と感じたが、
「そもそも、人間というのは、誰しも、少しくらい変わったところを持っている」
といってもいいだろう。
そういう意味で、長政の眼に、
「自分がどのように映っているか?」
ということすら、最初は機にならなかった。
ところが、途中から気になりだした、そもそものきっかけは、正孝が、
「美術部に入る」
と言いだしたことからだった。
長政は、それを別に止めたりも反対したりもしているわけではなかった。どちらかというと、
「入りたければ入れば?」
という、他人事だったのだ。
この他人事のような普通の態度が、それまでの、
「なれなれしい」
と思えるような態度をとっていた長政だっただけに、
「少しおかしい」
と感じるようになったのだ。
長政というのは、
「自分のことよりも、他人のことが気になる」
というタイプの人間に見えた。
よく言えば、
「人を気遣っている」
ともいえるが、悪くいえば、
「嫌いな人ができれば、徹底的に嫌いになるタイプなのかも知れない」
と感じるほどであった。
そんな長政のようなタイプの人間を、小学生の頃には見たことがなかった。
「学年が上がると、いろいろな人がたくさんいるというような世界に飛び出すということなのか?」
という意識になったりした。
正孝は、自分が、思春期になったという意識を持ったのも、
「長政と知り合ったということが大いに影響しているのおではないか?」
と考えるようになったのだった。
長政という男が自分の中で、どれくらいの大きさなのかということを、しばらく考えるようになったのだった。
正孝は、小学生の頃と違って、
「友達は、少しでいいから作りたい」
と思っていた。
それも、
「自分の孤独な時間を邪魔しないようなやつがいい」
ということで、パッと見として一番ふさわしいと思える相手である、長政と友達になれたのはよかったと思っていたのだ。
しかし、それは最初だけだった。
「人間には、裏表がある」
ということを、思い出させてくれたからだ。
小学生の頃、いろいろな理由で、
「孤独がいい」
と思うようになったのだが、その理由の一つとして、
「裏表がある人間が多い」
ということであった。
まだ、子供のくせに、そんなことがよく分かったなとは思ったが、それを思い知らせてくれたのが、母親だった。
明らかに、母親は、
「裏表のある」
という人だった。
もっとも、主婦連中、あるいは、おばさん連中というと、ついつい、人のウワサに花を咲かせることが多い。
そして、その後で、さらに、親しいという人には、そのうわさ話をした相手のことをも、
「あの人は、本当に噂話が好きで」
とばかりに、自分のことを棚に上げて話すということが多いというものだ。
それを考えると、
「お前こそ、裏表があるんじゃないか?」
と母親であっても、い、いや、母親だからこそ、嫌になるというものだった。
そんな母親を見ていると、母親を尊敬もできなくなっていた。
しかし、自分の保護者であり、育ててくれているということで、
「逆らえない」
という気持ちがあった。
特に子供の頃から考えていたのは、
「お母さんを悲しませるようなことはしたくない」
ということであった。
そんな相手の裏の部分を見てしまうと、子供としても、
「どうしていいのか分からない」
ということになり、どうすればいいのかを考えると、
「悪いと思うことは見ないようにすればいいだ」
ということであった。
要するに、
「悪いことは見なかったことにする」
という考えで、
「ただの都合のいい考えではないか?」
ということになるが、そもそも、その都合の悪いことというのが、
「何に対して、都合がよくないのか?」
ということである。
都合のいい悪いという判断は、あくまでも自分がすることであって、人に聞いて分かるものでもない。
そういう意味で、
「自分にとっての都合」
というものを考えるに際しての問題は、大きなものだといえるのではないだろうか?
正孝にとって、長政と友達になることは、
「リスクもあるかも知れないが、彼と一緒にいることで得られるであろう感覚は、プラスに近いのではないか?」
と考えたのだ。
「ひょっとすると、直感では、都合のいいことではないかも知れないが、突き詰めたり、奥の深さを知ってくるにしたがって、次第に都合のいい方に近づいてくるような気がする」
ということだったのだ。
そんな長政が、なぜか、正孝が美術部に入るということを嫌がっているように見えたのだろうか?
他の人から見れば、そんな風には見えないだろう。
「俺、今度美術部に入ろうと思うんだ」
というと、
「ふーん、そうなんだ」
と、完全に他人事だった。
他人事に見えるのは、
「その人にとって、何も得られるものがない」
ということで、
「そのことに一切の興味がない」
ということの表れだった。
確かに、長政は、
「部活には興味がなさそうだった」
というのも、学校が終わると、そそくさと帰ってしまうからだ。
彼が家庭のことを話さないというのも分かる気がする。
「話したくない」
ということなのか、
「話をするだけ時間の無駄」
ということなのか、長政の性格からすれば、そのどちらも考えられるというものであった。
長政という男が、
「嫌いな人もいるが、好きな人もいる」
と言っていたのは、普通なら当たり前のことなのだが、長政にしては、
「実に違和感を感じる」
ということであった。
しかし、
「嫌いな人は徹底的に嫌う」
と言っていたのを聞いて、
「なるほど」
と思ったのだ。
そんな長政が、正孝と仲良くなったというのは、どういう風の吹き回しだというのだろうか?
それを考えると、分からないところはまだまだあるような気がした。
そう思って長政を見ていると、
「あいつは、俺以外の人と話をする時は、明らかに違っているな」
と感じるのだ。
いかにも面倒くさそうに見えて、顔は笑っていても、一切気持ちは冷めていると思えるのだ。
それは、
「自分に対しての態度と、まったく違っている」
ということを、正孝が分かっているからだと思うのだった。
「じゃあ、まわりは、長政のことをどう思っているのだろう?」
と思って観察していると、
「実にうまく合わせているように思う」
ということだった。
長政から話題を他の人に振るということはないわけなので、話しかけるとすれば、まわりからのはずである。
それも、本当に話さなければいけないというような、
「重要事項の伝達」
というくらいであろうか。
それを考えると、
「長政という男は、つくづく、まわりとの距離を保っているんだな」
ということであった。
まさかとは思うが、
「これ以上近づくと、火傷でもしてしまう」
と思っているのだろうか?
人によっては、そういう錯覚を起こす人もいると聞いたことがある。
それは精神疾患のようなものなのか、
「統一性障害」
あるいは、
「自律神経失調症」
などと言ったものか、さらには、
「鬱病」
と呼ばれるものが、絡んでいるのではないかと考えるのだった。
そんないろいろな精神疾患があるのだが、中には、
「小学生でも発症する」
と言われているのがあるという、
特に小学生くらいの思春期前というと、精神的には大人になり切れていないわけで、
「大人が感じる」
というような出来事に遭えば、
「トラウマ」
となったり、それが精神的に、滞留するということだってあるだろう。
そうなると、
「精神疾患の芽」
というものが、生えてきていて、ある時何かの拍子に、
「精神疾患を発症する」
ということになるであろう。
それを考えると、
「精神疾患というものを、子供だからならない」
ということはないのである。
苛めの問題など、その時は、引きこもるだけで、表に出てこないという状況以外には何もなくとも、大人になってくるにつれ、異常がみられるようになり、診断を受けると、
「精神疾患ですね」
ということで、聴いたこともないような名前の病気を、いくつも羅列され、それを聞いた親や本人は、大きなショックを受けるに違いない。
しかも、親などは、最初に何を考えるかというと、
「この子は、こんな病気になって、世間様の前に出せないわ」
などということを考えたとするならば、たぶん、本人にその本音は分かっているのではないだろうか。
精神疾患というのは、
「精神が病だ」
というだけで、問題はそこから来る、
「身体の異常だったりする」
というのだ。
身体の異常といっても、ケガや、普通の病気とは、少し違った症状である。ただ、深刻なことには変わりないのだ。
特に、
「鬱病」
というものになった時というのは、
「身体が億劫で何もできない」
という状況に陥るのだという。
「布団から身体を起こすこともできないくらいに動けなかったり、ものぐさな性格でもないのに、お腹が減っても、食事を摂るということもできない」
という現象が起こるらしい。
長政は、そんなことはないと言っているが、時々、
「俺は鬱病なんだよな」
と自分で言っている時があった。
「病院には?」
と聞くと、
「親に言えるわけもないし、行ってないよ」
とその時、初めて、親のことを聞いたかのような気がしたのだった。
そして、これだけいうと、すぐに黙り込んでしまったのである。
「これが鬱病というものか?」
と感じたので、正孝は、鬱病のことについて調べてみたりした。
ただの、
「鬱病」
というのもあるらしいが、
「躁状態」
というものと、交互に繰り返しているという、
「双極性障害」
という病気もあるという。
病院で、
「誤診」
というものがあるとすれば、この
「双極性障害」
という病気を、ただの
「鬱病」
ということで、片付けられるということが多いというのは、ネットで調べても、本を読んでも書かれていることだった。
「双極性障害」
というのは、基本的には、
「脳の病気」
ということで、
「黙っていても収まる」
というものではないのだという。
鬱状態というのは、いずれ、躁状態になるので、その時に、
「治った」
と思って、それまでもらっていた薬を飲まなくなるという人が多いのだということをよく聞く。
しかし、それは、躁状態に入ったからであり、そのまま薬を辞めていると、今度はもっとひどい鬱状態が襲ってきて、さらに苦しむことになるというのだ。
確かに、薬というのは、治れば飲まない方がいいに決まっている。
しかし、それを医者に相談もせずに、勝手に自分で呑むのを辞めてしまったり、まわりから、
「もう治ったんじゃないか?」
と言われて、
「薬なんか飲まなくてもいい」
と言われたとして、それを真に受けるというのは、まずいということである。
医者が、最初に、
「鬱病ですね」
と判断していたとすれば、そもそも、普通の鬱病と、双極性障害での鬱状態とでは、
「処方する薬が違う」
ということである。
それをわかっているのかいないのか、結果は、どんどん悪い方に向かっていくということである。
もちろん、長政が、本当に病気なのかどうか分からない。
ただ、長政を見ていて、その見え方が違うのか、
「他の人が見る長政と、俺が見る長政とでは、見え方が違うようだ」
と感じていた。
何がどう違うのか、最初はピンとこなかったが、後から考えてみると、
「見ている角度が違っているんだ」
ということであった。
長政という男、まわりが見ている目というのは、
「こいつ、何かおかしいんじゃないか?」
ということであったり、
「危ないから近寄らないようにしよう」
という、基本的には、
「距離をおく」
という感覚になっているようだ。
しかし、正孝は、
「どこかおかしいとは思うが、距離を置くほどではない。俺だって、孤独が好きなのだから、変わっている相手であるくらいの方が気が楽だ」
と思っていた。
そしてそのうえで、
「長政と仲良くしていると、自分のことも分かってきそうな気がするんだよな」
というのは、
「反面教師」
という言葉があるように、まわりが、長政を見ている目を通して、
「まわりが、俺のことをどう見ているんだろう?」
ということが分かるのではないかと感じたのだ。
「孤独が好きだと言っているくせに、まわりの目が気になるというのは、長政という存在があるからではないか?」
ということで、これも、一種の、
「反面教師」
という言葉に当て嵌まるのではないか?
と考えるのであった。
「俺が、長政を見ていて、その長政の眼を通してみるこの俺は、どのように映っているのか?」
それを考えると、まるで、
「合わせ鏡のようではないか?」
と感じてきたのだった。
「合わせ鏡」
というのは、自分の前後に姿見を置いて。そこに写る自分の姿をどのように感じるのか?」
ということである。
まずは、目の前の鏡に、自分の姿が映っている。
そして、その後ろには、
「自分の後ろう方が移っている鏡があるのだ」
ということである。
さらに、その後ろには……。
ということで、さらに、自分が映っているということである。
「どんどん小さく成っていくのだが、けっして消えることはない」
という、
「限りなくゼロに近い」
ということであるが、
「間違いなく、その場所に存在している」
ということなのである。
それが、
「合わせ鏡」
というもので、
「鏡というものが、さまざまな不思議な現象を見せてくれる」
ということの、一つであるということだ。
それを思うと。
「上下が反転しないのもおかしい」
と考えるのだった。
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