第14話 婚姻承諾書

 エスピアスの森における結界強化と、ヴェイリー捕縛から一週間が経った。


「や、待って、イル……っ」

「いいえ。もう我慢の限界です。さあ覚悟を決めて……」


 王太子誘拐事件の真相報告のため、再び宮殿へと帰って来たフィファニーは今、イルキュイエによって追い込まれている。



 ――あの日、森の中で堂々と膝をつき、求婚してきた彼。数十分前に切り出した別れなど忘れたかのようなイルキュイエに、フィファニーは困り果てると、ヴェイリーを陛下の元へ連れて行くのが先だと言って、話を切り上げてしまった。

 結果王都に着き、陛下への報告とヴェイリーに対する処遇の決定。そして、フィファニーの冤罪を全国に知らせるまでの二日間、彼は幾分控えめになっていたと思う。


 だが、すべてが終わり、領地に帰ろうとする彼女を引き留めたイルキュイエは、強引な求婚を再開。

 曖昧な言い方をした自分がいけないのか、それとも、攫いのレッテルが消えたことで、彼の中にあったわずかな歯止めが利かなくなってしまったのか、とかく、ここ数日の彼はいつにもまして求婚に熱を入れている。



「いいですか、フィファニー。あなたが採れる選択肢は二つです」


 すると、逃げ回る彼女をとうとう部屋の角に追い込み、白い用紙を掲げた彼は、真剣な口調で語り出す。


「まずひとつは、この婚姻承諾書に署名し、正規の手続きをんで私の妻となる選択です。それなりに時間を要しますが、伝統に則るのであればこれが正しい。そしてもうひとつは、あなたの心情などお構いなしに、今すぐ国内外へ結婚報告をし、強制的に私の妻となる選択です」

「……!」

「私としては、望んで妻となってほしいものですが……。あなたはどちらがお好みですか?」


 片手を壁に付け、フィファニーを絶対的に追い込みながら、イルキュイエは憂いのある笑みでそう囁く。

 だが、行き着く先は結局妻とは、選択肢でも何でもないではないか。


「だ、だから求婚はお断りって言ったでしょう? 私、一回り年上! 今年で三十四なのよ!?」

「いいえ、細胞凍結期間は無効です。あなたは十七歳ですが、これ以上抵抗するなら強行します。それで良いのですね? 本来であれば署名後、我が国の各州を治める五大公爵と父陛下に面会し、署名をもらう必要性がありますが、すべて飛ばして国内外に結婚報告をしますよ」

「……!」

「一度公表してしまえば王家の体面上、覆すことは難しい。私としては手間も省けますし、構いませんが、良いのですね?」


 そう言って、フィファニーのお断り発言など聞く耳も持たず、彼は白い用紙――婚姻承諾書を差し出した。そこには既にイルキュイエの名が記載されており、あとはフィファニーの署名を以って一応完成の状態となっている。

 だが、彼女が解凍を赦されひと月半、締めて四十八回の求婚拒否を経たうえでの強行とは、いささか強引過ぎるのではないだろうか。


「よ、良いわけないわ! だって私、ほら、宮殿に招かれるような身分でもなかったし、高度な教育とか受けてないのよ。今さら王太子妃教育とか無理無理っ!」

「フフ、その点ならご心配には及びません」


 と、彼の口調から、即日国内外へお触れを出しそうな雰囲気を悟ったフィファニーは、懸命にお断り足る正当な理由を見繕った。

 そもそも男爵家の次女が王家に輿入れるなんて、あまり例はないだろう。教育的な観念から口実を模索すると、イルキュイエは待っていましたと言わんばかりに咲笑う。

 そして、不思議顔をする彼女を見つめ、堂々と言い出した。


「なぜならあなたは既に、それを受け終わっているのですから」

「なっ……!?」

「このひと月半、ただ部屋にいるだけでもお暇でしょうからと、あなたにはいくつかの嗜みや、教育の先生をご紹介させていただきましたね。あなたは大変優秀だそうで、先生方もお喜びでしたよ」

「まさか」

「そう、あれはすべて王太子妃教育の一環! あなたはいつでも私の妻となる準備ができているのです!」


 目元に手を当て、ふらりとよろけるフィファニーに、イルキュイエは弾んだ声音でタネ明かす。

 確かに解凍を赦されて以降、彼女は定期的に国内外の歴史やらマナーやら、幾つかの教育を受けてきた。

 だが、単純に十七年も時間が空けばドレスの流行が変わるのと同様、ルールやマナーも変わるだろうと思っていた。だからこそ何も言わずに受け入れていたし、宮殿に招いた教育者である以上、領地にいたころよりもレベルの高い教育になるのも分かっていた。

 だけどまさかあれが、既に王太子妃教育だったなんて……!


「なん、なんてことを……!」

「それに、よく考えてくださいね、フィファニー。私の心は永遠にあなただけのものだ。今さら、他の誰かと結婚する選択肢はありません。つまり、あなたが結婚してくださらないなら、王家の血筋はここで絶え、あなたはケレスウィング王朝に終止符を打った稀代の悪女として語られることになりますよ」

「……」

「私としても結婚はしたいのでお勧めしませんが、この第三の選択肢を選びますか?」


 にこりと爽やかに微笑み、外堀を埋めたうえで半分脅し文句を囁く彼に、フィファニーは青ざめると思わず口をぱくつかせた。

 つまり彼女に残された最終的な選択肢は「望んで王太子妃になる」「望まずとも王太子妃になる」「断固拒否して彼に執着されたまま悪女として名を残す」の三択ということだ。

 どれもお断りしたい。


「ねぇフィファニー。素直になってくださいよ。あなただって本当は私が好きでしょう?」

「す……!?」

「私はもう、この頬の熱が動揺やただの羞恥でないことには気付いているのです。何も気にせず、あなたの心を聞かせてください」


 すると、完全に詰んだ顔で黙り込む彼女を見つめ、イルキュイエは彼女の頬に手を伸ばす。

 最初は突然のことに驚き、行為自体に照れを見せていたフィファニーだったが、ごく最近の彼女はどこか違って、純粋に心をときめかせているように見えた。

 年齢やレッテル、お門違いと謝られた恨み。色々なことを背負い込み、無意識に一線を引き続けてきた彼女が、それでも少しずつ自分に心を傾けてくれるなら、やっぱり、どうしても逃がしたくはない。

 優しく頬に触れた途端、彼女の肩がピクリと震えた。


(そんな、私がイルを好きだなんて……。それだけは絶対にことよ。彼は王太子、彼のためにも、私は……)


 惑い、うるんだ瞳で動揺する彼女に、イルキュイエはゆっくり指を滑らすと、頬から唇に這わせていった。そして、何も言わないまま自分を見つめる彼女にそっと唇を寄せてくる。

 もしかして、これ、って……。


(あ……ダメ。私、また……)


 途端、行為に気付いたフィファニーは、咄嗟に顔を逸らしてしまった。同時に肩のあたりに触れ、彼を押し戻そうと試みる。

 だが、存外力の強い彼を、押し戻すことはできなくて……。


「殿下、園遊会のお時間です」

「!!」


 そのときだった。

 今にも唇が触れそうな距離で押し問答をする彼らの背後から、不意に音もなく彼の執事が現れた。いつから見ていたのかは分からない執事は、平時と変わらない様子で声を掛けている。


「もうそんな時間か。では仕方ない、フィファニーの件は強行するとしよう。ティレ、彼女を妻と言い広める準備はできているね?」

「……一応、ご命令されたことはすべて」

「よし。ではフィファニー。あなたは今日から強制的に私の妻です。よろしいですね」


 と、彼の言葉に頷いたイルキュイエは、残念そうなのにどこか弾んだ声音で笑いかけた。

 どうやら彼は、即日中どころか数分後にはお披露目する気でいたらしい。

 その言葉に血の気を失くしたフィファニーは慌てると、


「ま、待ってイル! 私、そんな……っ」

「では署名、してくださいますか?」

「あぅう……」


 そう言ってもう一度承諾書を掲げ、最後のチャンスとばかりに問う彼に、フィファニーは苦しげな声で呟いた。

 これはもう、一先ひとまず署名をして、五大公爵や陛下との面会が済む前に、どうにか説得する以外、最適解が浮かばない。それに確か、州全体を総合的に統治する五大公爵は、皆一筋縄ではいかない癖の強い方だと聞いているし、フィファニーの経歴上、そう簡単に署名をもらえるとは限らない。

 もっとも、署名なんてしたら最後な気も、拭えないのだが……。


「うぅ、わ、分かったわ。一先ず署名するから、すぐに公表はやめてちょうだい!」

「わぁっ、はいっ! ではここに、署名お願いしますっ!」


 苦渋の決断。

 そうと分かっていて声を弾ませたイルキュイエは、サインを求めるファンの如く、笑顔で婚姻承諾書を差し出した。

 さらにはポケットからペンとインクを取り出し、準備万端とばかりに席へといざなう。

 震える手でそれらを受け取り、インク壺にペン先を落とした彼女は、


(ええい、仕方ないわ! これが最適解なのよぉ!)


 半ばやっつけ気味に自分の名前を書き記す。

 これで書類上、二人の関係は……。


「……っ! ありがとうございます、フィファニー!」


 と、その姿に歓喜を上げたイルキュイエは、承諾書に手を伸ばした。

 だが、このまま彼に渡しては、勝手に公表されかねない。慌てて用紙を持ち上げ、照れとショックの狭間で首を振ると、フィファニーはやけに上気した様子で言った。


「ダメ! これは私が預かっておくわ! こ、このことはまだ、二人だけの秘密なんだからね!」





 ――こうして、フィファニーの署名と秘密の響きに満足したイルキュイエは、執事に促されるがまま、上機嫌で園遊会へと向かって行った。

 一方残されたフィファニーはどさりとベッド倒れ込み、深いため息を吐いている。


 彼女が願った平和な日々。穏やかな安寧はまだ遠い。

 だけど、この胸に蔓延る甘いときめきは、春の息吹のようにどこか心地よくて。


 彼から取り上げ、自ら署名した婚姻承諾書を見つめ、フィファニーは無意識に微笑む。

 署名欄に並ぶ二つの名前は、この先彼らを照らす未来を、そっと夢見ているかのようだった――。

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