第7話 夜明けの寝顔に想いを馳せて
夜明け前の廊下をひとり進む。
目的地は、彼女が眠る奥の部屋。
そっと扉を開けて中へ進むと、麗しの姫がそこにいた。
(はあぁ、今日も愛らしい。できることなら、そのベッドの中に潜り込んでしまいたい)
柔らかな寝息を立てる彼女を起こさないよう膝をつき、侵入者――イルキュイエはその美貌を近付ける。
これは彼女が宮殿に来て以来、毎日している彼の日課、寝顔観察。本人に知られたら怒られること請け合いの変態行為だ。
だが、そんなつもりなど微塵もないイルキュイエは、優しく頬に口づけると、ただ彼女に想いを馳せた。
(ああ、一日でも早く、あなたが私の隣で目覚める日が来るといい。そのためにも、早急に真犯人を捕らえねば。そうすればきっと……)
愛しさに強い想いを乗せ、彼は心の中でひとりごちる。
そうしているうちにカーテンを通し、朝日が二人を照らし始めた。
もうこれ以上長居はできないが、再会以来、この気持ちは募る一方だ――。
「フィファニー、こちらの資料などいかがでしょう?」
資料室にて。
早朝から変態行為に及んでいたことなどおくびにも出さず、イルキュイエは資料を差し出した。
王太子誘拐事件の調書を確認して以来、彼らは国内外の類似事件を確認すべく、資料室に通い詰めている。
「ありがとう、イル。魔法による攫い……そもそも魔法を使う人たちって、そういう種族なのよね?」
「ええ。魔法を使う者たちは、この世界に存在する
すると、紙の香りが充満する室内で、フィファニーと肩を並べながら、イルキュイエは魔法についてそう語る。
西欧では未だ見慣れない魔法も、東欧を中心に間違いなく存在し、彼らの生態は今、
「そして、おそらくあなたの祖先である巫女も、本来はそちら側の種族でしょうし……」
だが、そんな彼女をまっすぐに見つめ、イルキュイエは少し間を開けた後で、驚くような言葉を口にした。
「えっ?」
確かにエスピアスの巫女は、森を渡る精霊に願い、碑石に血の証明をすることで、結界を保つことができる存在だ。でも、魔法だなんて……。
「しかしプロフェンス殿の話では、最初にノクトリーの森の住人たちと契約を交わし、結界を形成した巫女は、白い竜を従えていたと聞きました。実際北欧には竜と生きる一族の存在が確認されていますし、白竜は、ルクストリア=ロード山脈の頂に巣を作るというルクストリアン・スノーホワイトのことで間違いないでしょう」
「……」
「尤も、当時魔法は恐れられるものだった故、この国では巫女と名乗っていたのでしょうね」
彼が
もちろん、だからと言ってフィファニーに対する気持ちが変わるわけではないのだが、一方、巫女の血族と云われていたホワード家の真の姿に、彼女は肩を落とした様子だ。
「なら、私が「魔女」と呼ばれるのも、
「……!」
と、彼の視線から目を逸らしたフィファニーは誰にともなく呟いた。
攫いの魔女だなんて不名誉な呼び名は、この事件解決と共に忘れ去られればいいと、心のどこかで思っていた。
だけど、結局、自分は……。
「フィファニー。魔女は決して悪いものではありませんよ。確かに悪用すれば強大な力になるものですが、現にあなたの力があったからこそ、この国は今まで、ノクトリーの森の魔物たちの被害に遭わず、安心して暮らすことができていたのです」
「……」
「だから自分を否定したりしないでください。どんなあなたでも、私は愛しいです。何なら私が、もっと相応しい通り名を考えますから」
すると、木椅子に座ったまま俯く彼女に、イルキュイエは手を伸ばして囁いた。
そして彼女を優しく抱きしめ、ウェーブを描く髪を撫でる。
最近は慣れ故か、すぐに否定されることは少なくなってきたけれど、困ったように身じろぎしたフィファニーは、そっと押し戻しながら彼を見上げる。
涼やかな目元に浮かぶ微笑みに、イルキュイエはどきりとした様子だ。
「……ありがとう、イル。でも「王太子妃」なんて名はいらないからね」
「しゅん……」
さりげない告白を笑顔で却下するフィファニーに、ときめきから一転落ち込みながら、イルキュイエはまた、彼女と共に情報収集へと戻っていった。
どうやら魔法の風は、魔法の中でもとりわけ利便性に富むものらしく、各国が挙げた事件には、攫いをはじめ、鎌風による裂傷、空気中の酸素を消失させる拷問など、様々あった。
だが、いずれの事件でも犯人たちは、力の誇示や金銭目的で犯行に及んでいる一方、王太子誘拐事件に関しては、未だに動悸が分からない。
犯人は一体、何の目的でイルキュイエを風に乗せ、フィファニーの元へ運んだのだろう。
恋のキューピッドのつもり……なんて冗談はさておき、当時何の力も持たない末席の男爵令嬢だった彼女に、罪を着せるメリットなど、果たしてあったのだろうか。
(いっそ当時の交友関係をすべて洗い、相関図でも作った方が良いだろうか? おそらく直接ではなくとも、彼女と私、双方に接点を持っていた者が重要参考人として挙げられる。私を王太子と知っていた者はわずかだった故、その方面から探して行けばきっと……)
「……ねぇ、イル。今日はやけに給仕の往来が多いけれど、何かの催し中?」
それから二時間。時折会話を挟みながら情報収集にあたっていたフィファニーは、帰り際、イルキュイエに誘われて庭園を散策中、引っ切りなしに行き交う給仕を見つめ、不思議そうに呟いた。
流石宮殿ともなれば使用人の数が多いのは当然だが、あまりにも多い気がする。
すると、小首をかしげる彼女の問いに、イルキュイエは笑って言った。
「あぁ、今日は母が中庭で茶会をすると言っていたので、その対応でしょう。ほら、円卓が見えてきましたよ。我々も戻ったらお茶にしますか」
「え、ならこの道は通らない方が良いんじゃ……」
だが、何気ない口調で、角を曲がった途端見えてきた円卓を指差す彼に、フィファニーは焦った顔で立ち止まる。
一応、解凍の件は、“特殊な役目を仰せつかった故”との理由付きで、先日貴族たちに知らされたと聞いている。しかし、結局は王家の体面上、冤罪であったことは伏せられている状況だ。
にも拘らず、攫いの犯人(仮)が攫った王太子と一緒にいるなんて、絶対によろしくない。
「まぁ、殿下だわ!」
「きゃーっ、お目に掛かれるなんて光栄ですわ~!」
「……っ」
とは言ったものの、既に円卓が見える位置まで来た以上、この美しき王太子殿下が人目に留まらないわけもなく。
不安を募らせた途端、ご令嬢方が上げる黄色い声に、フィファニーは思わずしゃがみ込んだ。
もちろんこれで誤魔化せるとは思っていないが、女性陣の興味がイルキュイエに向いている隙に移動を……。
「えっ、どうされましたフィファニー。体調でも悪いのでしょうか? それはいけない、すぐにお部屋に戻りましょうね!」
だが、生垣に隠れようとしゃがみ込むフィファニーにイルキュイエは驚くと、ご令嬢方を尻目に全力でその名前を叫んだ。そして、彼女が説明する間もなく、さっと体を抱き上げる。
「……っ!」
正直、この国で皆に優しい王太子殿下は、ご令嬢方垂涎の憧れであると共に、誰のものでもない皆の王太子殿下として親しまれていた。
尤も、彼の寵愛が欲しくない者はいないものの、そんなご令嬢は……。
「さあ、参りますよ!」
「や、待って、イル……」
と、自分の姿を見られないようしゃがみ込んだはずなのに、堂々たるお姫様抱っこで皆の眼前に引き出されたフィファニーは、息を詰まらせ呟いた。
皆の王子様たる彼が誰か一人を選ぼうものなら、ご令嬢方がどんな感情を抱くのか、それはなんとなく分かる気がした。
しかも、相手が高貴な姫君ならまだしも、彼が愛しげに抱き上げたのは、攫いの名を持つ
「皆様、我々はこれで失礼しますね。良い時を」
「イル、降りる……」
「ダメです。大人しく抱かれていてください」
「……」
(はぁぅ……。私、一層社会的に死んだわ! もう早く事件を解決して、領地に帰りたい……!)
目論みが大外れし、自分に向けられる刺さるような視線に心の中で涙しながら、フィファニーは彼と共に宮殿内へと戻って行った。
「あっ、フィファニー。スプランティネアがいますよ」
すると、部屋に入った途端、イルキュイエは窓の外の小枝にとまる鳥に、声を上げている。
どうやらあの森でスプランティネアを見て以来、彼はこの鳥を気に入ったらしい。
子供のころと同じ、無邪気な笑みを見せるイルキュイエに、つい毒気を抜かれながら窓の外を見つめると、彼はここでふと、思い出したように問いかけた。
「そう言えばあの日、あなたは森にスプランティネアが来たと聞いて、観察に来たのだと言っていましたね。あなたにそう進言したのは、どなただったのですか?」
「……!」
何気ない問いかけ。
だけど、そうだ。
あの日、フィファニーが森に行くと決めたのは、ある人の強い勧めからだった。
春の時期は、これから来る
にも拘らず、森でゆっくりして来いと、進言したのは……。
(スプランティネアの観察は、お姉様の提案だった。でも、まさか……)
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