第2話 眠り姫の目覚めに口づけを

 過ぎ去った冬を彷彿とさせる氷壁ひょうへきの塔を、青年は執事に誘導され進む。

 チェスのルークのような形をした塔は静かで、革靴を鳴らす音が、やけに大きく響いた。


「本当に、あのころと変わらないままなのだね」

「細胞凍結ですから。成長も劣化も致しません」


 そんな中、螺旋階段を上り、塔の中ほどまでやって来た青年は、鉄格子が嵌められた一室に眠る彼女を見つけると、花のように咲笑う。

 氷を纏う少女は、ただ静かにそこにいた。



「それでは殿下。これより凍結の解除を始めます。氷の精霊……――」

「助けに参りましたよ、フィファニー。私の眠り姫」


 鉄格子を開け、彼女が眠る冷たい寝台にそっと膝をいた青年は、凍結解除を試みる彼の眼前で、少女に優しく口づけた。

 細胞ごと凍らされた彼女の唇は、とても冷たくて。頬に触れると、氷の表面のようなさらりとした感触が伝わってくる。

 早く、目覚めてくれまいか。願いが一層強くなる。


「……何をされているのですか、殿下」


 と、眠る彼女の唇を奪う青年に、気付いた執事は白い目で呟いた。

 彼がこのときを待ち侘びていたのは事実だが、大胆過ぎる行動に、ついため息が漏れる。

 だが、口元の黒子ほくろが印象的な彼女の頬に触れたまま振り返った青年は、当たり前のように笑って。


「ん? 眠り姫の目覚めに口づけは必須だろう?」

「左様ですか」


 自信満々に、然もありなんと言う青年に、肩を竦めた執事はそっと目を伏せ諦めた。

 一方その横で、少女――十七年前に凍らされたはずのフィファニーは、ゆっくりと解け、温度を取り戻していく。

 やがて、すべての細胞が機能を取り戻すと、彼女の長い睫毛が震え、すっと目が開いた。


「……」


 そこで彼女が目にしたのは、間近に自分を覗き込む金髪碧眼の美しい青年と、太い氷柱つららが何本も下がる凍てついた室内。

 この青年が何者なのかは知れないが、氷柱が下がる天井は、最期に見た景色とほぼ合致する。

 だが、自分はもう二度と、目覚めることが赦されない存在のはずだ。

 遂に細胞が瓦解し、冥王の待つ地下の国へとやって来たのだろうか。地下とは随分、寒い場所なの……――。


「フィファニー! ご無事で何より……! ようやくあなたの冤罪を立証できました。今こそ恩を返すとき、私と結婚してください!」

「……?」


 と、髪と同じアッシュブルーの瞳を何度か瞬き、理解できない現状に戸惑いを覚えていた、そのとき。

 不意に肩を抱かれ、目の前の青年にぎゅっと強く抱きしめられた。

 爽やかなシトラスの香りと温かなぬくもりがして、フィファニーの目が大きく見開かれる。

 だけど本当に意味が分からない。

 親しげにファーストネームを叫び、求婚までしてきたこの綺麗な青年は、一体どちら様……?


「……殿下、姫君が大混乱しております。まずは現状をご説明申し上げることが筋と存じますが、何分この塔ではお体に障ります故、宮殿へお迎えしてはいかがでしょう」


 すると、混乱故か、大人しく抱かれたまま沈黙するフィファニーを察し、執事がそっと言い出した。粗末な白い、夜着のようなものを纏っただけの彼女は、塔内の冷気と現状に、小さく震えているようだ。


殿……?)

「そうだね。参りましょう、フィファニー。話したいことはたくさんあるのです」

(殿下って、まさか……)


 だが、執事の言葉に頷き、自分が着ていたチェスターフィールドを彼女に掛ける青年を見上げ、フィファニーはもう一度目を瞬いた。

 柔らかく透き通るような声音には聞き覚えがないものの、殿下と呼ばれ、金髪に紺碧の瞳を持つ白皙の姿には覚えがある。

 だけどまさか、この煌めくような美しい青年が、あのときのイルだというのか。


「……」

「いかがなされました、フィファニー? じっと見つめられると、こそばゆいです」


 過る可能性が事実として胸に落ち、自分がどれだけ凍らされていたのかを実感しながら、フィファニーは、頬を薔薇色に染めはにかむ青年――ウィングロード王国王太子・イルキュイエ・リーズロード・ケレスウィングその人を見つめた。

 あのとき四~五歳くらいだった彼は、今や二十歳を過ぎたあたりだろうか。

 時を経て、さらに磨きがかかった美貌に、言葉は何も出てこない。


「フフ、しかし愛しい方の視線は良いものですね。さあ、お手を。この状況で眠り続けていたあなたに体力は残っていないでしょうし、失礼しますよ」

「……!」


 驚きと混乱と不可解な現状。淑女レディとしての矜持のおかげで、大口開けるような、はしたないことにはならなかったものの、そのまま声を失くすフィファニーを、イルキュイエはそっと抱き上げた。

 以前森で彼を助けた際は、フィファニーが彼を抱っこしたものだが、時を経た逆転のお姫様抱っこは、なんとなく許容できなくて。

 間近で香る爽やかなシトラスに、心臓が大きく高鳴った。


(ど、どうしましょう……っ、こんなこと、にもまだされたことはないのに……!)

「さあ参りましょう。まずはあなたを宮殿へご招待いたします」





 ――嬉しそうにはにかむイルキュイエに連れられ、フィファニーは氷壁の塔を脱出すると、豪奢な馬車に乗り、王都の中心にそびえる宮殿へと招かれた。

 元々ホワード男爵家の令嬢であるフィファニーは、地位で言えば、宮殿になど招かれるはずもない末席の貴族令嬢だ。初めて訪れる豪華絢爛な宮殿に、またしても思考が追いつかない。

 だが、広大な庭園を抜け、宮殿のエントランスに辿り着いた彼女は、またお姫様抱っこをされながら運ばれる途中、イルキュイエの言葉に目を見張ることになった。


「さて、氷壁の塔は随分と寒い場所でしたね。まずはお風呂で温まりましょうか。湯殿に案内しますので、私と共に……」

「えっ。そ……っ、いけません」


 抱っこで運ばれ、辿り着いたエントランス。なんとなく既視感のある流れ。

 それを分かっていながら黙りこくっていたフィファニーは、あのときの自分と同じようなことを言い出したイルキュイエに、反射的に驚いた。

 確かに以前、汚れを落とすため、一緒にお風呂に入ったのは事実だが、小さな男の子と美しき王太子殿下では心情的に大違いだ。許容できるわけがない。


「フフ、照れるあなたも愛おしい。でも大丈夫ですよ。あのときのこと、私は覚えています。なので照れる必要はありません」

「……!」

「さ、こちらへ」

「い、いけません、殿下……!」

「くぅん……」


 当時の彼が子供であったこと、そして何より彼が王太子殿下であることがフィファニーを自制させたものの、なんだか妖艶な変態発言に、叫ぶのを堪えた彼女は、顔を真っ赤にして口ごもった。

 すべてを覚えている、それはつまり、そういうことなのだろうが、一方、二度目の否定を受け、イルキュイエは子犬のように鳴いている。

 フィファニーの目に、垂れた耳としっぽが映ったような気がした。



「……何をされているのです、お二人して」


 すると、湯殿を前にして言い合う二人の元に、しばらくして音もなくメイドを従えた、彼の執事が現れた。

 イルキュイエに対し、明らかに呆れを見せた執事は、氷色の瞳で二人を交互に見つめ、淡々と語り出す。


「ここから先は、メイドがお世話をさせていただきます。殿下には、今のうちに目を通していただきたい書類がいくつかありますので、参りますよ」

「しゅん……。一緒にお風呂……」

「お嬢様、ぬるめの薬湯で三十分ほど温まってくださいませ。体力の回復に良く効く薬を混ぜてございます。支度が整いましたら、事情をご説明させていただきますので」


 感情の見えない平静とした口調と、氷のような無表情。

 丁寧でありながら掴み処のない執事の言葉に頷いたフィファニーは、ようやくお姫様抱っこから解放されたと思った途端、首根っこ掴まれ退場するイルキュイエを見送ると、一人のんびりとお風呂に入った。

 乳白色のお湯に、空色をほんの少し落としたようなミルキースカイのお湯は、全身の緊張と強張りが解けていくほど、気持ちが良くて。

 まだ自分の身に何が起きたのかもわからない上、本当に目覚めたこの世界が現実なのかも不明瞭。だけどこのお湯に、久方ぶりの癒しを感じるのは事実だった。





 ゆったりとお湯に浸かり、髪や手肌を整えたフィファニーは、メイドの手伝いを受けながらゆるりとした室内着に着替えると、彼女の案内の下、イルキュイエの待つ部屋に通された。

 事情の説明と休息が最優先とした執事の判断により用意された室内着は、優雅な三段フリルと編み上げリボンが愛らしいデザインではあるものの、王太子殿下の前に現れていいような恰好ではない気もして。

 形容できない気恥しさを抱える彼女の前で、ソファから立ち上がったイルキュイエは、しかし嬉しそうに彼女の手を握ってくる。


「随分と顔色が良くなりましたね、フィファニー。少しは気分も落ち着きましたか?」

「は、はい。お気遣いありがとうございます」

「フフ。そう畏まらずともよろしいのに。それではこちらへ。お茶でも飲みながら、ゆっくり事情を説明させていただきます」


 ほんの数歩にも拘わらず、エスコートをしてくる彼に連れられ、ふかふかのソファに腰を落ち着けたフィファニーは、音もなく現れた執事が淹れる紅茶を前に、イルキュイエと向かい合った。

 熱っぽい視線を向けてくるイルキュイエは、緊張する彼女をよそに渋みのあるダージリンを幾度か含むと、ようやくふうと息を吐く。

 そして、すらりとした指を立てた彼は、静かに事実を語り出した。


「さて、あなたが解放された理由は大きく分けて二つあります。一つは冤罪の立証。もうひとつは、あなたがだったからです、フィファニー」

「……!」

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